( 3Z )



とん、と背中に何かが当たった。つぎに腹に何かが巻き付いてきた。腕だ。細い指が臍に当たってくすぐったい。ものすごく。

「え、なに」

まあつまりは後ろから抱きしめられているわけだが、そんな事をするようにない人物がそうしているので銀八は些か戸惑った。というかどういう反応をしたらいいかわからない。大真面目な声が背中で響く。

「あすなろ抱きです」
「…は?」
「知らないの?あすなろ抱きって言うんですよ。こういうの」
「いや知ってるけど…古くね?」
「じゃあ何て言うんですか?」
「バックハグとか?」
「は?なんでそんなん知ってるんですか。きっしょ」
「オイ」

二日間の出張を終えたばかりだった。駅からそのまま家に帰ると妙がいた。色々と心の準備をしていなかったので若干しどろもどろになってしまった。軽く浮気を疑われ、慌てて否定したが、仮に浮気をしていたとしてもこんなに緊張する事はないだろう。浮気なんかじゃない。そんなものではない。
出張前から何かと忙しかったので会うのはなんだかんだ二週間ぶりだ。変に時間が空いたからいけない。おかえりなさいと言われた時もちょっとそっけなくなってしまった。中二のガキじゃないんだ。いや、でも、うん。胸ポケットを軽く引っ張ったりしてどうしようかと思案しているところに唐突にあすなろ抱きとやらを仕掛けられた。
妙がうしろからイタズラっぽい顔を見せる。

「つーか逆だろ」
「え?」

腹に巻き付く妙の手を外し、背後に回る。

「普通男が後ろから抱きしめるんじゃん」

すっぽりと妙の身体を閉じ込め、ポニーテールが顔に当たらないように頭を傾けた。首の熱や肩の細さ、肌の柔らかさや甘い匂いが銀八の感覚を掻き立てる。後ろから抱きしめるって、何だかより近くにくっつけるような気がする。恋仲ではあるのでそれなりのスキンシップはあるが、やたらといちゃついたりしないタイプだし、もともとの関係が教師と生徒なので少し距離感が特殊だ。こうやって後ろから抱きしめるなんてしたことない。
そのうち照れくささが追ってきて、銀八は腕の力を緩めようとした。

「ほんとだ」

離れられなかったのは妙が銀八の腕に触れたからだ。ふふふ、と笑う声の振動が伝わってくる。むずがゆいほどの幸福感だと思った。

「こうしたらきっと抱きしめてくれるわよってりょうが言ってたの」
「え?」
「自分から抱きついたら逆に後ろから抱きしめてくれるからやってみなさいって」
「…なに、あの子恋愛セミナーの講師か何かなの」
「だって一度はされてみたいじゃない?まあ相手が先生じゃドラマチックにならないけど」
「あんだとコラ」
「なんか文句あるんですか」
「ないです。スミマセン」

なんだよ、いい感じなのにさ。銀八は唇を尖らせる。しかし、情けないが緊張の糸はゆるゆるとほどけていく。それにしても妙がこんなふうに甘えてくるのは珍しい。長女気質なので何かと我慢しがちだ。きっと遠慮していることもたくさんあるだろう。

「他は?やってほしいシチュエーションねえの?」
「え?んー、そうですねぇ」
「あれは?壁ドン」
「やだ。壁ドンなんて絶対笑っちゃう。耐えられない」
「なんでだよ」
「あ、二人乗り」
「二人乗り?」
「自転車の。青春って感じ」
「俺一応教師なんですけど」
「そうだったんですか?」
「お前の担任してたんですけど」
「二人乗りで坂道を一気に下るの。海とか花とか見えたら最高ですね」
「まずはチャリ買わねえと」
「あとはお姫様抱っことか」
「んなもんいつでも…」

さっそく願望を叶えようと腕をほどくと、妙の手がそれを阻止した。

「まだ」
「え?」
「まだこうしてたいんです」

ダメですか。妙が銀八を見上げる。

「…さみしかった、です」

少し拗ねたような、少し不安そうな、彼女の瞳が揺れる。

「今日、何の日か覚えてますか?」
「…うん」
「ほんとに?」
「そこまで落ちぶれてねえよ」
「だって」
「ごめん」

銀八はその唇にキスを落とした。緊張していたんだ。一世一代なんだ。唇を離すと妙の頬が赤く染まっていた。彼女は今日、二十二になった。恥ずかしいのか顔を伏せようとしたところでまたキスをする。どんどん顔が赤くなるので、銀八はそれだけで満たされていくのだった。

「二人乗りもお姫様抱っこもあすなろ抱きも死ぬほどやってやるよ」
「ふ…二人乗りとお姫様抱っこはもうちょっと軽くなってから…」
「は?ふざけんな。これ以上痩せたらなけなしの胸が」
「バカ!うるさいっ。二人乗りなんて交通違反なのよ。教師がそんな事していいんですか。そ、それにお姫様抱っこなんてやっぱり恥ずかしいわ。あんなの結婚式とかのテンションじゃない、と…」

照れ隠しをするように妙はベラベラと喋り出し、しかし途中でハッと言葉を止める。

「や…あの、別に結婚したいって事じゃないんですよ?ただほらよくあるじゃない。チャペルの階段でお姫様抱っこしてるの。一般的にですよ?雑誌とかドラマとか。別に私たちの話じゃ…」
「したくないの?」
「え?」
「結婚、したくないの?」
「あの…」

銀八は顔を伏せて妙の肩に頭を預けた。右手に握っていたものをゆっくりと開き、彼女に差し出す。さっき胸ポケットから出したものだ。手汗で濡れているかもしれない。緊張で形が崩れているかもしれない。

「先生?これ、なんですか?」
「誕生日おめでとうございます」
「あ、はい。ありがとう…ございます」
「おめでとうございます」
「えっと、くれるんですか?」

早く受け取れ。受け取ってくれ。祈るように彼女を抱きしめ、やがて右手に細い指が触れる感覚があった。
それは銀色の折り紙を帯状にして輪にしたものだった。ちょうど指に嵌めるくらいのサイズ。ただの紙だ。しかし人生で最も重大な大勝負が書かれている。

「…」
「…」
「…せんせ」
「…はい」

妙の声が震えていた。ぎゅう、と更に力を強める。これでもものすごく悩んだ。だって十も下だ。これから大学を卒業して就職してたくさん出会いだってある。こんな若く美しい彼女を縛りつけるなんて許されない。何より担任していた元生徒であり、この関係を良く思わない人だっているはずだ。でも、だけど、それでも欲しいと思ってしまった。
銀八はそろそろと頭を上げた。彼女は折り紙のリングを右手で持ち、その震えを抑えるように左手を添えていた。不器用な文字を何度も何度も読み返す。そこにはこう書かれていた。


"給料三ヶ月分の指輪と交換できるチケット"


ニーナ(2020/10/24)



もどる
TOP



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -