モブ視点(銀妙※病気)



人間という生き物は自分たち以外の動物に思考や感情がないと信じているらしい。憎悪や苦悩など持たずに、ただひたすらに無垢に生を全うしていると信じて止まない。未来を思うのは、過去を振り返るのは、この世でたったひとつ、人類だけである。そんな馬鹿げたことを当たり前のように感じている。そうでなければ都合が悪いのだろう。人間とは愚かで寂しい生き物だ。月の光を背に受けながら、鳥は木の枝から窓枠に降りた。羽を下ろしながらちょんと首を傾げる。珍しく窓が開いていた。カーテンのすきまから部屋を覗くと、暗がりの中で誰かが佇んでいる。この部屋の女ではない。死のイメージに繋がる闇を恐れているのか、単に感覚が鈍くなるからなのか、人間は暗さを嫌う。起きている時は明るい場所にいようとする。ではなぜ電気をつけないのだろうか。

「どうしたの、銀さん」

彼女の声が聞こえた。いつもの優しい声だ。

「うん」

言葉を返したのは男だった。しかし答えになっていない。男は微動だにせず彼女を見下ろしている。

「なにか忘れ物ですか」
「うん」
「それとも何か話があるの?」
「うん」
「もしかして酔っ払ってるの?」
「うん。あ、いや」
「もう、どうしたって言うんです。気味が悪いわ」

彼女は呆れたように笑った。

「話があるんだよ」
「こんな夜中にわざわざ窓から入ってきて?」
「…ああ」
「そう。じゃあ何の話か、私が当てますね」
「いいよ。ちゃんと言うから」
「何言ってるんです。いつまでもうじうじしてたじゃない」
「だから、今から言うんだって」
「だめよ。私が当てるんですから」
「お妙」
「わかった。やっと結婚の日取りが決まったのね?」
「違えよ」
「まあ、まだなの?ぐずぐずしてるといい加減愛想つかされますよ」
「つーかそれ嘘だから」
「え?」
「もう、いいだろ」

男は苦い顔をして、ばつが悪そうに眉を下げた。

「…あら、あっさり止めるんですね。優しい銀さんの事だから最後まで続けてくれると思ってたのに」

さいご、と彼女が言った瞬間男の顔が歪んだように見えた。

「じゃあ…そうね。オセロでも教わりにきたんでしょう。最近あの子との勝負で危ない時ありますもんね」
「あんなガキに負けるかっつーの」
「一度負けたじゃない」
「あれは…」

男が顔を上げる。何かを言おうとして止め、改まったように口を開いた。

「お妙」
「…なんです?怖い顔して」
「話があるんだ」
「止めてくださいな。そんな変な顔した銀さんの話なんて聞きたくないわ」

ふい、と彼女が横を向くと黒い髪の毛が横顔に降りかかった。毛先がこまかく揺れていた。

「怖いこと、言うつもりなんでしょう。こんな時間にあなた、そんな顔をして、きっと怖いことを言うつもりなんだわ」
「たえ」
「いやよ。聞きたくない」
「おれと」
「やめてってば」

「俺と結婚してくれ」

引っ張られるようにして視線を戻した彼女の瞳に、余裕はすっかりなくなっていた。眉を歪め、目を大きく開いている。

「…なに言ってるの」
「悪いけど、もう、許してくれ」
「なにが…何の話」
「俺はお前を想ってたよ。今までずっと」

息を飲み込む音がした。何かが千切れるような音だった。

「知らない…意味がわからない。そんなの、そんなこと、あり得ないわ。あなたが私を想うなんて、私たちが愛し合うなんてあり得ない。だいたい…それがもし仮に本当だったとして、結婚なんて出来るわけないじゃない。そうよ、どうしてそんなわかりきったことをあなたが言うの?」
「何で出来ないんだよ」
「こんな身体なんですよ?いくつも病院に行ったし何人も先生に会った。でもダメだった。わたし、もう…」

そこで言葉は途切れたが、酸素にあえぐ魚のように唇はまだ動いていた。もしかするともう少し近づいたら何と言ったか聞こえたのかもしれない。ああしかし羽の音でやはり聞こえなかっただろうか。彼女はもう、いつもの伸びやかで柔らかい声を出せなくなっていた。

「それでも一緒にいたい」

沈黙した暗闇に男の声が落ちた。それはあまりに陳腐で、単純で、およそ彼女の心を動かせるとは思えない言葉だった。そんな言葉なら何も言わないほうがマシなのに、男はそれでも愚かな言葉をぽろぽろとこぼし続ける。

「明日も、明後日も、明々後日も一緒にいて、一年後も二年後も…神様の目を掻い潜って五年後も、死神の鎌から逃げて十年後も一緒にいて」
「…」
「それから子どもも作って、上は女で下は男で、花見とか祭とかいっぱい行って、海とか山とか色んなとこ行って、ずっと一緒にいて、そんでいつか孫が出来たらめちゃくちゃ可愛がって…んで、出来たら俺のこと看取って、ほしいって思ってんだけど…」

まるで子どもが親に伺いを立てるようにちらりと上目で見る。

「…あなた…それは、ちょっと」

戸惑いや動揺をすっ飛ばして呆気に取られた彼女が口を開いた。

「いくらなんでも、ちょっと欲張りすぎじゃ…ありませんか」
「そう、だよな」
「…ええ。そうよ」
「そうなんだよな。…わかってんだけど、どうせなら徹底的に欲張ろうかな、って」
「どうせならって…」
「やくそく、しただろ」

男はすっと目線を横にやった。鳥にはわからなかったが、それは時計に向けられていた。目線を一度地面に落とし、また彼女に戻す。すがるような切迫感がその目に宿っていた。

「約束?」
「"30歳になっても一人だったら、俺がもらってやる"」

男の言ったその"約束"に、彼女が唖然とする。人間は、きっと世の中で一番さびしい生き物だ。鳥はそう思う。

「…そんなの」

言葉などという、永遠に不完全なものを生み出してしまった。わかり合おうとすることの不毛さや、傷つけたり守ったりすることの無意味さを知っていながら、それでも伝えきれないものを伝えようとする。一生をそれに費やすだけのさびしくむなしい生き物だ。心を暴かれるのを怖れるくせに、誰かと繋がりたくて手を伸ばす見苦しい生き物だ。

「そんなの、ただの冗談でしょう。約束なんかじゃないわ。そもそも、いつの話をしてるんです」
「はは、いつだったけな」
「な…笑い事じゃありません」
「少なくとも十年以上前だよなあ」
「ばか、もう、だから何がおかしいんですか」
「でもお前だって覚えてたじゃん」
「は…話、逸らさないでください」

鳥はふわふわの羽をゆっくり動かした。卓上に置かれたデジタル時計は、緑色の光で四つの数字を浮かべている。『00:10』新しい1日が、もう始まっていた。

「もう12時まわったから。今日でお前30歳だから。アラサーじゃなくて正真正銘のサーティーだからね。しょうがないじゃん。やっぱ一人だったんだから。誰も貰ってくれなかったんだから」
「うるさい。喧嘩売ってるんですか」
「明日はガキ共が誕生会すんだろ。週末は退院だし」
「だから何なの」
「言うなら今日しかねえなって」
「何の決断をしてるんですか」
「一世一代なんでね」
「そんなものを今使わないでください」
「そんなものとか言わないでくれる」
「…わたし、死ぬんですよ?」
「知ってるよ」

男は腕を伸ばす。彼女は固く手を握る。男はその上に手を重ねる。

「そんなの、ただの冗談じゃないですか。そんなことまだ覚えてるなんて馬鹿じゃないの。だいたい、それって独り身だと老後が寂しいからってする保険であって、つまりこの先何年も生きてなきゃ意味なくて、もうすぐ死ぬかもしれないのに結婚したってしょうがないんですよ」
「だからぁ、言ってんじゃん」

くしゃくしゃと頭を掻いて、男はベッドの脇にしゃがみ込んだ。

「お前は来年も再来年も、十年後も五十年後も、俺とずっと一緒にいるんだよ」
「…っ、むりよ」
「何でだよ」
「どうしてそんなわからないこと言うの。どうしてそんな未練の残るようなこと、今更言うんですか。わたし頑張ったんですよ。なのに、死にたくなくなっちゃうじゃない」
「うん」
「これからきっともっと痩せて、醜くなって、目も当てられなくなるわ。苦痛に耐えられなくなって八つ当たりだってする。そんなの、あなたに見られたくない」
「…うん」
「無茶ばっかり言わないでください。あなた、小さい子じゃないんだから」

自分勝手にものを言うばかりの男は、しかし彼女よりもずっと痛々しい顔をしていた。まるで自分の身体を引き裂きながら言葉を吐き出しているみたいに。

「生きるんだよ。ずっと。あの町で、俺の隣で」
「…正気じゃないわ」
「お前に惚れる時点で狂ってるつーの」
「そんなこと言われたら負担になるって思わないの?私の重荷になるって」

困り果てたように彼女は眉を下げて言った。

「思うよ」
「…」
「思うに決まってんじゃん。当たり前だろ。無駄な事で悩ませないように、安心させてやれるようにって、ずっとそればっか考えてた。でも、違う。それ全部自分のためだった。俺が怖いから、安心したいから、ずっと閉じ込めてた。覚悟決めたんだ。俺、お前の負担と重荷になりたいよ。お前が苦しいのも、辛いのも、痛いのも悲しいのも、全部俺のせいにしたい。おちおち死んでられないってくらい、大変なこと、これからいっぱい持ってきてやる。だけどその代わり、責任だけはとるから」
「…何、言ってるんですか」
「俺もよくわかんねえよ」
「ばかじゃないの」
「うん、ばかだ」
「ばか」
「うん」
「銀さん」
「すきだよ」
「…ほんとに、ばかなのね」

鳥は羽を広げた。小さいけれど、自慢の羽だ。窓から部屋へ入り、驚かせないようにと月明かりの当たる場所を飛んで存在を知らせる。彼女が小さく声を上げた。

「あ」

ふかふかの布団の上へ降りる。そのまま視線を落とした彼女は、ちゃんと左の羽に気づいた。

「すずめ?窓から入ってきたのか」
「ええ、この子…」
「え?」
「前に怪我してたすずめだわ。ここに傷跡があるもの。包帯、自然に取れたのね」
「え?あの、しばらくそこで丸まってたやつ?」
「ええ。いつの間にかいなくなったの。よかった、ちゃんと元気になったのね」

ああ、そうだ。そうだよ。君が治してくれた羽だ。鳥は満足げに目をつむった。飛べるようになってから、時々こうして君の様子を見に来ていた。細い指が鳥の小さな頭を撫でる。ふわふわの柔らかい羽はきっとさわり心地が良い。

「今日は信じられないことばかり起きるわ」

人間という生き物は、人間以外の動物をなにかに喩えたり、身代わりにしたり、嘲ったり、敬ったりする。身勝手な彼らのやりそうなことだ。そしてよく何かに表したりもする。勝手に何かの象徴として祭り上げ、時に畏れる。動物たちはただ生きて、存在しているだけなのに。しかし、と鳥は自慢気な気持ちになってまた羽を広げた。勝手な人間たちが自分たち雀に結びつけた意味を、彼女は知っているだろうか。知っていたらいいな。もしも知らなくても、いつか知ってくれたらいいな。

「お妙」

彼女が男を見上げる。瞳がキラキラしていた。涙だった。羽を動かして、鳥は飛び立つ。ふたりを結ぶように8の字に旋回する。

「俺と結婚してくれ」

家内安全。一家繁栄。冬に羽毛を蓄えるふくらすずめは、特に良い福をもたらすと言われている。人間は、寂しく愚かで可哀想な生き物だ。だけどきみが生きているなら、少しは悪くないって思える。これから沢山食べて、ふかふかの羽を集めて、立派なふくらすずめになってあげる。だからどうかまた、あの優しい手で僕を撫でてくれ。鳥は自由な羽で彼らの窓を飛び立った。新しい日の始まりだった。

ニーナ(2018/12/1)


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