ぬるい水の中を沈んでいくような、ぼうっとした感覚があった。

頭の中で、ある映像が逆再生している。

これは記憶だ、と坂田銀時は悟った。この家で滞在していた、ここ数日間の記憶。今日の朝、昨日の夜、一昨日、その前…。どこかの輩がやり合う様子、処置の匂いや包帯の感触、雨の音。それらが現在を始点として遡るように映し出され、やがて四日前に森に入った場面で停止した。負傷しながらも茂みをかき分けたところで止まり、周辺の木々や草の映像が剥がれ落ちる。その欠片を吸引するように景色が歪み、意識は現在に戻される。バリン、という音がして肩が揺れた。懐中時計が床にあった。音は、それが落ちた時のものだろう。巻き戻しの奇妙な映像は、どうやら時計が床に落ちるまでの数秒の間で頭に映されていたらしい。シャボン玉が割れて瞬く間に虹色の膜が消えてしまうように、今まで自分を覆っていた曖昧な意識が霧散する。入れ替わるように焦りや不安のようなものが胸に押し寄せた。はっとして意味もなく辺りを見渡し、今の状況を理解しようとする。しかし原因のわからない混乱が、頭の中をぐるぐると支配するだけだった。呆然としながらもゆっくりと手を伸ばし、床に落ちた懐中時計を持ち上げる。見ると風防に蜘蛛の巣のようなヒビが入り、針が止まっていた。落ちた衝撃で壊れてしまったらしい。しかしこの時計は、一体どこから落ちたのか。眉間をぐっと押さえた。眠っていたわけでもないのに、直前までのことが酷くおぼろ気だった。自分の手が落としてしまったのか、懐から滑り落ちたのか、それとも。

(それとも…?)

それとも、何だよ。他にどんな可能性があるんだ。自分以外の誰かが落としたとでもいうのか。頭を軽く振った。振り払うようにぎこちない笑みをむりやり作る。そんなことあるわけない。仲間とはぐれ、傷が悪化した自分はこの無人の家で過ごしていた。そうだ、ひとり、で。幸運にも薬箱を見つけて適切な処置が出来た。動き出すには十分すぎるほどの時間がたっている。傷による熱が引いた二日目の時点で、ここを出る体力は戻っていたはずだが無駄に長居をした理由はよく思い出せなかった。
ふいに、壊れた時計にぼたっと水滴が落ちる。へ?と間抜けな声が出た。

「…」

頬に違和感があったので手を当てた。何故かそこは濡れていて、戸惑う銀時は呆然とその水滴を見つめた。

「…なんだよ、これ」

涙だ。何なんだ、本当に。意味わかんねえ。より一層混乱した。一体自分はどうしてしまったのか。言い知れぬ焦燥感は、しかし依然として胸に押し迫り、正体不明の涙が止めどなく流れる。嗚咽が漏れた。息が苦しかった。訳はわからないが、ただ、切られたような痛みが身体のどこかにあった。時計を収めた手を額に押し当てる。無性に誰かの名前を呼びたくて、何度も口を開くが、誰の名も浮かんでこなかった。


それが、あの家で過ごした最後の記憶だ。


その時の不思議な感覚を、その後も何度か思い出すことがあった。しかし時間が経つにつれ、核心に近い部分はより深く、遠い場所へ落ちていった。忘れてしまった夢をどうにか思い出そうとする感覚に似ている。思い出そうとすればするほど遠ざかる。手をのばして、闇雲に探り、掴みかけたかと思うと指の間をすり抜けていく。思い出したい、というより、思い出さなくてはいけないという焦りや苛立ちが強いだろうか。一体何を忘れているのか。そもそも本当に思い出す何かがあるのか。そんなもどかしい感覚が、時折訪れては去っていき、十八歳の少年はやがて大人になっていた。

そして月日は流れた。

なんてことのない春の午後。志村妙が万事屋にいちごの差し入れをしに来た日だった。新八と神楽を待つ中、眠ってしまった間に見た夢。いや、それは夢だとは言わないのかもしれない。失っていた記憶。取り戻したかった思い出。たった数日間の記憶は、その出来事をなぞるように、閉じた目蓋の裏に写し出された。戦で負傷しながら仲間とはぐれ、咄嗟に入った森の中。未来からきたという少女と過ごした数日間。そのすべてが鮮明に蘇ったのだ。あの家で過ごしたのは、自分一人などではなかった。その事に、夢の中でありながら酷く驚愕した。なぜ忘れていたのか。なぜ思い出せなかったのか。彼女を、そして彼女と過ごした時間と不可解な出来事までもを、誰かが隠していたように思えた。少女との別れは四日目の朝にやってきた。持っていた懐中時計を彼女に渡すと、いきなり部屋の中で大きな音が鳴り響き、途端に彼女の身体が霞み、透きとおり、掴もうとしても掴めない。響き渡る音は大きくなる一方だった。消えてしまう。必死で声を上げた。しかし、きっと、あれは届かなかったのだろう。

(会いに行く…!!)

(絶対、見つけてみせるから!!!)

最後にそう叫んだところで、目が覚めた。足が滑り、ガクンと体勢が崩れる。今いる場所がどこなのか瞬時にはわからなかった。天井や壁を見て、ようやく状況を理解する。ここは事務所だ。自分の家だ。戦はとっくに終わり、そうだよ、俺はこの街で万事屋をしている。

「大丈夫ですか」

声のする方へ視線向けると、本を手にした女が訝しげにこちらを見つめていた。彼女の瞳を見た、その瞬間。夢で取り戻した記憶が洪水のように流れ込んできた。森で出会った時の涙。包帯を巻く手。飯を食った。話をした。思わず腕に入れた事もある。笑顔の奥に不安を押し込め、一人でどうにかしようとする彼女の頑固さに苛立った。初対面のくせに馴れ馴れしくて、でも何故かその態度に違和感がなくて、そんな自分に戸惑った。

あの日となりにいたのは、紛れもなく志村妙だ。

「…お妙」

ばくばくと高鳴る鼓動を抑えながら、彼女といくつか言葉を交わす。そのあまりに普通な態度に胸が締め付けられる。妙には、あの日々の記憶がないのだ。会話を続けながら彼女の手元で視線が止まった。双子の少女がシーソーに乗って遊んでいる絵の装丁と、背表紙に書かれているタイトル。じわりと汗が浮かぶ。あれは、妙があの家で読んでいた本だ。タイムスリップをした姉妹の人生が別れてしまう話。無意識に頭に浮かんだセリフが声に出てしまっていた。妹が姉の能力を見抜いた時の、物語が転換するセリフだ。しかし妙はまともに取り合わずに文字を目で追い続けている。寝ぼけて夢と現実が曖昧になっている男に呆れているらしかった。つまりそれは彼女がその場面まで到達していないということを意味していた。

「…そういえば約束したよな」

内心どぎまぎしながらも、平静を装って切り出した。妙が最後にくれた約束だった。

「駅前のパフェ奢ってくれるって」
「は?」
「あの新しい店の開店記念スペシャルパフェ」

半分すがるような、祈るような気持ちだった。頷いてほしかった。覚えてるって、言ってほしかった。

「何言ってるんですか。何でわたしがあなたに奢らないといけないの?だいたい新しい店なんか出来てました?」

妙の反応を受け、ああ、と銀時は勝手に落胆する。むかし自分が出会った志村妙と、目の前にいる彼女は違うのかもしれない。パラレルワールド、というやつか。考えをめぐらし、何かを思い立ったように銀時は立ち上がった。寝室に入り、箪笥の一番上の引き出しを目一杯にひく。奥の、隅の方に円形のものが眠っている。どうしてか手放せずにいた。風防は割れ、針は止まり、壊れてしまった懐中時計。蓋を開け、文字盤を覗いた銀時は、すうっと息を飲み込んだ。

(…ヒビ、が…)

指でそっと撫でてみる。割れて入ったはずのヒビ。しかしそこに歪んだ感触はなく、指はなめらかに横切った。消えていたのだ。ヒビどころかキズひとつない。何で、だ?確かにあの日、妙が落とした事でこの時計は壊れたはずだ。

「…え?」

事態が飲み込めず、しばらくの間それを凝視していると、長針がカタカタと微かに震えだした。次に短針が、そして秒針までもが揺れ動いた。やがて針たちは文字盤を回り始める。現在の時刻を探すように、ぐるぐるとでたらめに彷徨っている。

声にならない声が唇から漏れた。ああ、そうか。

今から"それ"が起きるんだ。

その時、玄関の方で新八と神楽の声が聞こえた。姿が見えるわけでもないのにその方向へと視線を向ける。そっと引き出しを閉めた銀時が寝室を出ると、妙はソファにいなかった。どうやら台所に向かったらしい。置きっぱなしにされた彼女の手提げに目をやり、息を吸い込んだ。いやに鼓動が早い。持って出た懐中時計をするりとその中に忍び込ませると、その足で玄関へ向かい、新八や神楽と顔を合わせる。

「あれ?銀ちゃん、どこ行くアルか?」
「あー…ちょっと野暮用」

いつものようにブーツを履いてのっそりと玄関を出る。うしろで子ども達がいちごを喜ぶ声が聞こえた。



−−


これは、半ば賭けだ。

本当に妙はタイムスリップをするのか。先ほど懐中時計の裏には古めかしい字で"イキ"と書かれてあった。しかし夢では"カヘリ"とあると妙自身が言っていた。それは、恐らく『行きのタイムスリップ』と『帰りのタイムスリップ』という意味なのだろう。つまりは往復切符のように帰りの保証がされているタイムマシンなのだ。あれはただの時計ではなく、天人の道具だったのだろう。そしてタイムスリップする過去はデタラメではなく、"カヘリ"と書かれた懐中時計の存在する場所へ向かう。だから彼女がタイムスリップしたならば、行き先はその時計を持つ銀時の過去に必ず繋がるはずだ。しかし、きっかけについては確信的でなかった。どのような条件が揃えばそれは起きるのか。あの懐中時計さえあれば起きるのだろうか。いや、おそらく。銀時は最後に聞いた割れるような不快な音を思い出した。あの三つの時計も関係しているのだろう。例えば懐中時計を加えた四つの時計が揃った時に起きる、とか。だとすれば、柱時計と掛け時計の現れる場所と時間に遭遇しなければ、初めからタイムスリップなど起きはしない。

妙は、辿り着くだろうか。

過去の自分に出会ってくれるだろうか。

銀時はかつて数日間を過ごした森へ向かい、あの家を探した。夢で見た風景と現在の地理感覚を用いれば難しいことではなかった。しかしどれほど探し歩いても、古びた洋風の家は見つからない。そんなに深くはなかったように思う。やはり現実の世界に建つ家ではなかったのだろうか。恐らくタイムスリップが発動した時、その場所に現れる仮の住居のようなものなのではないか。そうこうしている内に日はすっかり傾き始めていた。オレンジの光がじわりと空を染めようとしている。眩しさに目を細めながら前方を見ると、一本桜の木が立っていた。立派な木だった。花はまだ蕾だ。

思い出してほしかった。

十代の頃、大人になった自分は想像できなかった。思春期の少年の単なる不安や憂いではない。大人と言われる歳まで自分がこの世に存在するなどあってはいけないと、ほとんどそう信じていた。そうだ。あの頃、死は常に近くにあった。いつとは言わずとも、近い未来、少なくとも10年、20年生きるなんてつもりはこれっぽっちもなかった。ある意味で死は、おそらく生きる目的だったのだ。その日があるから、理不尽な現在も憎むべき過去も耐えうる事が出来る。しかし、いつからだろう。それが抜け落ちたようにひたすらに駆け抜け、生きて、しがみついて、気づけばここまで歩いていた。生きていなければいけないという思いがふっと沸き起こるのだ。まだ死ねない。死の淵に立った時、何度も想った。ああ、もう死んでもいいか。もう疲れた。十分戦っただろう。そうやって命を手放す直前で、いつも得体の知れない、使命感に似たような気持ちが思い出される。
いいや、まだ死んではいけない。まだ生きていないと。だってーーー。

だって…?

その先に続く理由は、しかしいつだって思い付かなかった。

思い出せなかったと言った方が正しいだろう。歯がゆく、もどかしかった。ただ、生き続けなければいけないという想いが強く心を揺さぶり、命がけで生還したことが幾度となくあった。妙に思い出してほしかった。お前が言ったんだ。生きる事を辞めるなと。そして、待っているからと。忘れ去った後も、その言葉がずっと胸の底で自分の命を支え続けていたのだ。願った死を諦め、苦しみや痛みにも耐えて生きてきた。お前の声が、俺の命をここまで引きずり込んだんだろう。

(早く見つけてくれよ)

俺は、ここだ。手のひらを桜の木の幹に当てる。ひんやりとしていて気持ちよかった。そういえばあいつの手も冷たかったな。いつだってその手が懐かしいのは、少年時代に会っていたからなのか、それとも未来で出会っていたからなのか。夢で見た、過去の自分の彼女に対する態度を思い出すと、どうしようもなく恥ずかしかった。大人びた彼女に勝手な劣等感を抱いては苛立ち、わざと意地の悪い事を言った。差しのべてくれる手を、素直に掴む事が出来なかった。今なら、と思う。今ならちゃんと対等に、それ以上に余裕を持って向き合えたはずだ。しかしそれでは意味がない。あの頃の、未熟で馬鹿でガキな自分の前に現れたからこそあいつの言葉は無意識の中に染み込んでいたのだろう。銀時は頭を木に預ける。わざと刺のある言葉を選んだり、不機嫌を露にしたり、未来の自分に嫉妬した事も薬を拒否した事もあった。ずっと余裕綽々なのらくら者の姿を見せていたというのに、それよりずっと昔にあんな幼い姿を見せていたと思うと、やはり情けなかった。はあ、と溜め息が漏れる。

「ガキ、だったよなあ」

ふわっと風が木と身体の間をすり抜ける。情けなく呟いた言葉を乗せて、風は上昇し、桜の蕾を揺らした。それとは別に背後で草を踏みしめるような音が聞こえ、銀時は視線を上げた。気配が感じられて思わず息をのむ。緊張して心臓がうるさかった。


「ガキだったわよ」


振り向く動作がひどくぎこちない。西日で逆光した影がこちらへ、真っ直ぐに向かってきている。

「人のこと不審者扱いするし、すぐ拗ねるし、怒るし、素直じゃないし、ていうか生意気だし。ほんと思春期の息子かと思ったわ」

眉を下げて笑う妙がそこにいた。走ったのだろう。額に汗を浮かべ、軽く息切れしている。ああ、やっとだ。身体からゆるゆると力が抜けて、そこで初めて自分が安心していることに気づいた。同時に、ずっと不安に耐えていたことも。やっと会えた。口を開くと、涙をこらえたような情けない声が出る。

「お前…おっせぇよ」

妙は大きく息を吸って吐いた。これでも走ったんですよ。彼女の声が途方もなく懐かく、胸が詰まった。

「どんだけ待ったと思ってんだよ」
「忘れてたくせに」
「…忘れてたけど、消えなかった。ずっと」
「そう」
「ああ」

消えなかったよ。忘れてたけど、思い出せなかったけど、ずっと消えなかった。消せなかった。

「ていうか遅いのはあなたの方でしょう。わたし、待ってるって言ったじゃない」
「は…ずりぃよ、それ。お前にとっては今さっきの出来事じゃん」

不平を訴えると、妙は声を上げて笑った。息が整ったのか、その顔には穏やかさが見えた。こちらへ歩き出し、銀時の正面に立つ。別れた時のようにその手が頬へ伸びてきて、今度はきちんと触れる事が出来た。小さな子を褒めるように撫でる彼女の指がくすぐったく、そして心地よかった。

「よくここまで来ましたね」

その言葉が胸に突き刺さる。感情が溢れだしていく。何度も死の淵に立った。絶望に負けそうになった。それでも何とか踏ん張ってここまで来た。後悔した事も間違った事も数え切れない程にある。それに押し潰されそうな時だってあった。それでも、無様にだって生き抜いてきた。頬に触れていないほうの彼女の手首を掴み、強く引く。驚いたような声ごと抱きしめて、細い身体にしがみついた。お前にそう言ってほしくて、歩いてきた今までだった。

「…パフェ、おごってくれるっていうから」

肩を強張らせていた妙が、ゆるやかに力を抜いて銀時の胸に身体を預ける。ふふ、とやわらかい笑みがこぼれた。

「いくらでも食べていいですよ」

やはり子どもをあやすように、妙の手が背中をとんとんと優しく叩く。年齢と立場が見事に逆転しているように思えて、銀時は不服そうに唇を尖らせた。

「…お前さぁ…身体、大丈夫なわけ?」
「え?」
「昨日…いや昨日って言わねえか?とにかくこっち戻ってくる前、倒れたじゃん。すげえ熱だった」
「ああ。はい、もうすっかり元気です」
「じゃあ薬効いたんだな」
「薬?」
「そう、解熱剤」
「わたし…そんなの飲んだかしら?」
「俺が飲ましてやったんだよ」
「銀さんが?わたしを起こして?」

にやりと口角を上げ、妙の身体を離した。きょとんとした瞳が自分を見つめている。

「いいや、こうして」

言って、その薄い唇に自分の唇を重ねた。最後の夜、うなされる彼女に口移しで薬を飲ませた。熱を奪えることをこっそりと願いながら。
唇を離し、その目を見つめる。

「待ってたよ、ずっと」

笑いながら流れた妙の涙が、これ以上ないほどに美しく、そして、愛しかった。





わたしたちの同じ春






ニーナ(2017/8/11)



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