いつだったか手当てをしていた夜、彼の背中にある古傷に触れたことがあった。大きくはないが、深かっただろうと予想できる傷だった。欠損を修復しようと皮膚が盛り上がり、その部分がつやつやと張っている。引き寄せられるように傷に触れた。指でなぞり、そっと頭を預けるようにしてもたれかかると、彼の体温と鼓動が感じられた。痛いですか?そう聞くと、彼は痛くないと言った。痛くないし、いつ、誰につけられた傷かも覚えていない。そう言って、傷痕に触れていないほうの妙の手をとり、とてもやさしく撫でた。節くれだった大きな手に似合わないほどの繊細な動きに、とても緊張したことを覚えている。お前はきれいだな。彼のその言葉は、妙に恥ずかしさと惨めさを覚えさせるのに十分だった。傷のひとつもない手。身体。そんな奴に自分の苦しみを見せるわけがない。心を預けるわけはない。そう言われているような気がした。

そんな夜が、あったのだ。






嘘と夢






「なに、それ」

銀時は皮肉っぽく鼻で笑った。手元の本をまたぱらぱらとめくり始める。

「もういい、って何だよ」
「何って」
「俺はもういらないってか」
「そんな事言ってないじゃない。今は怪我の状態も落ち着いてるでしょ。皆さんと合流したほうがいいんじゃないの?」
「んなもん自分で判断するっつうの。それとも何?邪魔だってこと?それってすげー自分勝手」

わざと剣のある言い方をする彼に正面から向き合わず、妙は軽くかわすように肩をすくめる。

「そりゃあ、まあ、わたしが一番可愛いのは自分ですからね」
「とにかく俺はまだ出ていかないから」
「そう」
「そのからくりに詳しい奴?探しに行くなら勝手に行けば?」

苛立ちを隠そうともせず、当て付けのように眉間にシワを寄せる。その仕草に若いな、と思いかけて自分も同い年だったことを思い出した。やはり未来からきたなんて話すべきではなかった。実際に源外を訪ねても良かったが、時計が関係している限り自分がここを離れるのは危険だ。それがいつ起きるのかわからないのだから。彼を巻き込まないためには一刻も早くこの家から出ていってもらうことが現時点での一番の方法だが、どうやら本人にそのつもりはないらしい。そういう人なんだと、自分だって最初に言ったはずじゃないか。坂田銀時はぜったいに仲間を見捨てない。そんな馬鹿な男なんだ。

「…なあ」

本の最後のあたりを開きながら、銀時は妙を見る。その表情がまるで子どものように見えた。

「包帯、かえて」

ぱたんと片手で本を閉じてテーブルの上へ置くと、妙の返事を待たずに自ら諸肌をぬぐ。出会った時とは随分態度が違うじゃない。妙はそう思いながらも黙って彼の隣に座った。薬箱はテーブルに置いたままだった。身体を自分のほうへ向かせ、結び目をとって、さらさらとほどいていく。包帯は肩とわき腹と背中を通過するので、巻くときも解くときも抱き込むような姿勢になる。まるで幼い子どもを腕にいれてるようだ。

「ねえ」

古い包帯を全て解いたところで、何か思い当たったような顔をした妙が手を止める。

「ちょっと、後ろ向いて」
「は?何で」
「いいから」

背中に怪我なんかないけど、と訝る銀時は、しかし言うとおり後ろを向いた。

「…」

いくつか傷痕がある。小さいもの。大きいもの。古いもの。新しいもの。だけど、あの傷はなかった。あの日。愚かなわたしが彼の痛みに触れようとした夜。その背中にあった傷は、まだこの青年にはない。

(このあたり、だったかしら…)

なんの傷痕もないこの場所に、いつか誰かの殺意が入り込む。それは痕になり、そして、あの夜に繋がるのだろうか。思うと胸が詰まった。

「…お姉さんさ」
「なあに」
「黙って一人で物思いに耽るのやめてくんない」
「え?」

なにそれ。言い回しがおかしくて思わず笑った。確かに、何も言わないくせに意味ありげな行動をされれば面白くないだろう。今度こそ新しい包帯を巻くために、妙はもう一度こちらを向くように言う。しかし銀時は黙って背を向けたままだった。

「?銀さ…」

ふいに手をとられ、ぐいっと引き寄せられた。わざと力加減もしないような粗っぽい仕草に、身体が強ばる。あの夜、あの人がわたしの手をなぞったものとは全くちがっていた。

「ちょっと」
「やめろ」
「…」
「重ねるな」
「な…」
「今ここにいるのは俺だ」

何を言ってるの。当たり前でしょう。笑って言いたかったのに出来なかった。心を暴かれたことに動揺し、どこか後ろめたさに似た気持ちが沸き上がる。

「俺はアンタの知ってる銀さんじゃねえよ。同一人物だとしても代わりはできない」

銀時は強く言い切ると、掴んだ手を更に引き寄せ顔を近づけた。

「やっ…」

反射的に顔を背け、彼の胸を押し退ける。はっとして視線を銀時に向けると、冷たい瞳がそこにあった。

「優しい銀さんはアンタにこんなことしないってか?」

ハッと揶揄するような笑いを吐き出す。息苦しい沈黙の後で、やがて解放された手はじんじんと痛かった。

「…包帯、しますね」

姿勢を変えてくれそうにない銀時の正面に、妙は自ら回り込んだ。憮然とした表情にため息を飲み込み、構うことなく慣れた手つきで処置を再開する。
そのあとは軽はずみに言葉を発することが出来ず、重苦しい空気が続いた。何も言えなかった。銀時特有の勘の良さを既に持ちながら、しかし鋭くも歪みの少ない幼さが残る彼に、妙は何を言えば良いのか知らなかった。


異変が起きたのは、日が傾いた頃だ。


遠くの方で音がしたのだ。金属がぶつかり合うような甲高い音。複数人が走る足音。そして怒鳴り声。何事かと妙は思わず窓へ近づく。

「バカ」

ぐん、と手を引かれ、そのまま身体ごと壁に押し付けられた。目の前に銀時の胸があった。

「あっちから見られたらどうすんだよ」

そう言いながら慎重に外の様子を伺う目は鋭く光っていた。緊迫した不安に、妙は無意識に彼の着物を掴んでいた。

「…たぶんどっかのゴロツキ同士がやり合ってるだけだな」

そう言いながら、外から死角になるよう部屋の隅に腰かける。手を引かれた妙も銀時に身体を寄せるようにして座った。

「すぐどっか行くだろ。面倒だから立ち上がるなよ」

その指示に妙はこくんと頷いた。そうか、と思う。気まぐれに窓を覗けぬほど、この時代は危険がそこらじゅうに転がっている。声をひそめて外の音を探りながら、銀時は、なあ、と言って玄関の辺りを顎でしゃくった。

「あの時計」
「え?」
「何か関係してんだろ?」
「…え」
「昨日と違うじゃん」
「…気づいて、たの」
「そりゃ、あんなでけえ時計が一つから二つになってりゃ嫌でも気づくだろ」

妙はぽかんとして、銀時のしかめっ面を見た。気づいていたの?軽く混乱していた。あの時計の変化については自分以外には認識されないものなのだと勝手に思い込んでいた。それはひとつ目の時計が現れた時点で、この男は変化に気づいていない様子だったからだ。しかし実際はふたつ目が現れた事に気がついていたと言う。つまり最初は単に見ていなかっただけという事だ。何故早く異変を言ってくれなかったのか、と的外れな腹立たしさが沸々と込み上げてくる。あれが関係していると気づいていたのなら、源外を探しに行くという妙をおかしいと思ったのかもしれない。次に何かが起きた時、もしも妙自身が時計の側を離れていたら、もう二度と未来には戻れないかもしれないのだから。頭に鈍痛があった。夜だからだろうか。急に肌寒くなって、身体が小さく震えた。身体のだるさを抱えながら、しかし自分のすべき事がじわじわと頭の中に浮かんでくる。

(さむい…)

自分の身体を抱きしめるようにして腕をさする。しばらくその場でじっとしていると、やがて周囲の足音や怒鳴る声が徐々に遠のいていった。張り詰めた空気が少しずつ緩んでいくのがわかる。しかし妙の耳には鼓動がどくどくといやに煩かった。目を細めて注意深く外を伺う銀時が、そろそろ行ったな、と呟いた。

「銀さん」

静かに顔を上げる。頭が痛い。いたくて、重い。舌にのった声もまた、鉛のように重かった。

「…出てってください」

空はすっかり暗くて、わたしたちはとても近くで見つめ合っていた。言葉を受けた彼の目は少しだけ大きくなった。

「…は?」
「もうここから出てって」
「なに、急に」
「全部嘘だから」

床についた手に力を入れて立ち上がる。最初の言葉を吐き出すと、そこからは案外もう何も思わなかった。ペラペラと勢いよく言葉たちが躍り出ていく。

「今までのは全部ウソ。当たり前でしょう。タイムスリップなんて、そんな事あるわけないじゃない。全部作り話。だって、ほら、まさか信じると思わないじゃない」

嘲るように笑って壁に手をつきながら歩いた。硬い床に座っていたので足が痺れていた。

「…嘘?」
「ええ、そうよ」
「何言ってんの」
「あなたこそ何を言ってるんです。よく考えて。おかしいところはいっぱいあるでしょう?この家だってそう。こんなところに無人の家があって食料があって水もあってなんて…どう考えたって都合が良すぎるでしょ」
「じゃあアンタが俺の事知ってたのは?それにあの本。あの発行日は何なんだよ」
「身元なんて調べればすぐわかるだろって、あなたも言ってたじゃない。本だって、細工をすれば簡単よ」
「何のために」
「…あなたを陥れるため」
「…」
「あなたの懐に入り込んで、あなたの大切なものを奪うため」
「…」
「でも、もうやめた。もう面倒くさい。あなたの事なんか何も知らないし、興味もない。ほら、ねえロマンチックでしょ?未来のあなたを知ってるの、なんて。ロマンチックで、とても陳腐。飽きたわ。もう疲れた」

頭の痛みはどんどん酷くなっていった。膜に覆われたように自分の声が反響している。視界が膨張したようにいびつに見えた。目の奥が熱い。

「だからもう出ていって」

自分でも苦しい言い分だとはわかっていた。こんなことを急に言い出したって、この人が信じないことも。それでも見え透いた嘘をつく。それが本物に見えるまで。
ああ、だめだ。頭がぐらぐらする。身体が重い。目に写るソファが膨らんで、やがてぐにゃりと折れ曲がった。地面が抜けたように足に力が入らなくなる。

「ちょっ、おい…っ!」

焦ったように銀時が妙へ手を伸ばす。その動きがとてもゆっくり見えた。ねえ銀さん。あなたを、わたしだって守りたいよ。頭が痛くて、目が熱くて、涙がうかぶ。意識を手放したあと、ひとつだけ夢を見た。本当にひとつかどうかはわからないけれど、覚えているのはひとつだけだった。仰向けで寝ながら胸の上で手を組み、真っ暗闇をゆるやかに落ちていく。その途中で誰かがわたしにキスをした。冷たい唇だと思った。そんな、夢。

目が覚めたとき、そして時計は三つに増えていた。扉の上にかけられた、からくり時計。

別れがすぐそこに迫ってきている。





ニーナ(2017/5/30)



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