シーソーで遊ぶ二人の女の子。そんなやさしいタッチの装丁。閉じた本はソファの隅でしずかに眠っていた。

物語は、終わったのだ。

朝の光が顔を照らす。それが眩しくて妙は目を覚ました。その光は窓を通して直接照らしていたわけではない。何かに反射してこちらへ向かっていたのだ。決まっていたように、目を開けてすぐにそちらを見やる。至極当然のようにそこには時計があった。立派な柱時計。玄関扉を挟んで、ふたつ。

(ああ、)

息を吸い込む。ああ、やっぱり。驚きはあまりなかった。どこかで予感していたことだった。やはり、あのときの時計だ。一定の時間が過ぎると現れるらしい。例えば一夜明けるごとにひとつずつ、という具合に。ならば明日は恐らく奇妙な仕掛け時計が現れるはずだ。それらが揃えばまたあの音が鳴るのだろうか。そうすれば自分は戻れるのだろうか。しかし、もし仮に再びタイムスリップが起きたとしても、元の未来に帰れるのかなんてわからない。更なる過去や、未知の世界へ連れていかれたら。考えるだけでゾクリと悪寒が走る。タイムトラベラーになりたいわけではない。それに、あの懐中時計。あれだってどう考えても不自然だ。

(もう、どこにもないけどね…)

妙はソファから足を降ろすと、時計の正面に立った。澄ました顔をして、まるで最初からここにいましたよとでも言いたげな二つの時計が憎たらしかった。どうしてこんな面倒なことになったのかしら。朝から重い頭を和らげるようにこめかみを抑える。視界に入ったドアノブを掴み、引いて、外に足を踏み出した。

(ちょっと散歩でもしよう)

見上げた空が、ひどく懐かしいものに思えた。空気が胸に染み渡る。それどころでなくてあまり気にしていなかったが、戻る前と同じで季節は春らしい。少し肌寒いが、花や木がいきいきと芽吹いている。こんなに大変な時でも、自然は知らぬ顔で生きていると思うと、どこか理不尽な気持ちになった。

(まあ…そりゃ知らないわよね)

周りは草木ばかりで、他に住宅らしきものも人の気配もなかった。この小さな森の中にある家は、たった一つだけなのではないか。まるで仙人か何か、架空の生き物の住まいなのではないかと思えてくる。さらに歩き進めるとなだらかな坂があり、その下の方、遠くにやっと家が見えはじめた。それもいくつか立ち並んで、ある程度栄えている事がわかる。てっきりどこかの村の奥深くかと思っていたが、意外と街が近いらしい。その時、あれ、と思った。生まれた違和感はどこか懐古的だった。目を凝らし、やがて小さく口が開く。

えっ、と無意識に声が漏れていた。







過ぎたはずの場所





ギイ。立て付けの悪いドアの音が響くと、ちょうど出ようとしていたらしい銀時と鉢合わせた。

「うおっ」

勢い良く飛び出そうとしていたのか、衝突を避けるように身体がのけ反っている。

「あら、銀さん。どこか行くの?」
「いやアンタが…っ」
「わたしが?」
「あ、…や、何でもない」

不服そうな顔で寝癖のついた頭を掻きむしった。ああ、と思い当たった顔で妙はバタンと扉を閉める。

「わたしがいなかったから心配して探しにいこうとしてくれたのね」
「はっ!?ちげーし自惚れんなよまな板ぁあああっ!痛い痛い痛い!」
「えー?なんですかあー?よく聞こえなーい」
「いーってえ!アンタどこにそんな怪力があんだよ!」
「いちいち大袈裟ねぇ。女の子の力なんてたかが知れてるじゃない」
「俺も最近までそう思ってたよ。でもほっぺたビリビリいってんだけど。ねえ、ちぎれてない?」

ふう、と息を吐く。よかった。普通に話せてる。

「ごめんね」

そろり、と今度は優しくその頬を撫でた。彼は一瞬びくっとしたが、妙の真剣な目に何も言えず固まった。

「心配かけて」

素直には言えなくても、探しに行こうとしてくれていたことはわかる。

「少し散歩をしていただけなの」
「…ああ」
「あのね、」
「うん?」
「近くだった」
「え?」

驚くことに疲れているのか、いやに落ち着いている自分に苦笑が漏れた。こういうのって麻痺してしまうのかしら。

「街が見えたの。それを見て、反射的に思った。ああ、知ってる、って。たぶん、そう。この森、わたしの家の近くだわ」
「え…マジ?」
「マジ」

例えば家族で紅葉狩りをする時。或いは寺子屋で課外授業をする時。街の外れにある小さな森に来ることがあった。街を見た景色が記憶の中にある景色と重なって、ぴったり合わさった。合わさってしまった。銀時が慎重に口を開く。

「親…子どもの頃に死んだっつってたよな」
「え?」
「いるんじゃねえの、今なら」
「…」

彼の言いたい事はわかっていた。自分だって考えた事だ。母上は、きっともういないだろう。だけど父上は恐らくまだ。あの街へ降りたら会えるかもしれない。そう思うだけで胸がぎゅうっと苦しくなった。会いたい。それはもう、どうしようもなく。会って、抱きついて、全てを預けたい。許してほしい。大丈夫だって、お前は正しいよって言ってほしい。でも。

妙はゆるく微笑み、頭を振った。

「いいの」
「…」
「もう会えない人に会うのはずるいよ。新ちゃんにも悪いわ」
「弟、か?」
「ええ。それにほら、子どもの頃のわたしと会ったら大変でしょう?なんかドッペルゲンガー的なことが起きるかも」
「何だよそれ」
「ふふ。だから、いいの」
「…」
「大丈夫よ」

何かを言いたそうにして、銀時はまた髪の毛をかき混ぜた。その手を宙にさ迷わせ、やっと妙の肩へ降り、静かに引き寄せる。彼の腕の中は父のように逞しくはなく、だけど高い体温は似ているなと思った。
もっと遠い場所に飛ばしてくれれば良かったのに。どうしようもなく遠く、そうしたら潔く諦められるのに。

「平気だよ」
「…」
「大丈夫」
「うん」
「銀さん」
「なに」
「ありがとう」

忘れていたけれどここに桜も見に行った事がある。母と父の手を握り、地面に落ちた桜ばかりを眺めていた光景が脳裏に浮かぶ。どうしてわたしはまたこの場所で、あの春を生きているのだろう。もう手に出来ないと思っていた、大切な人のいるこの世界で。



−−



「銀さんがマンガ意外持ってるとこ初めて見たわ」

今日は出ていく気がないのか、昼からも彼はだらしなくソファに座って妙の本を手にしていた。とても活字を読んでいるとは思えないスピードでページをめくっていく。

「バカにすんなよ」
「まあ読んでないなら意味ないけど」
「読んでますぅ」
「どこが」
「セリフだけ」
「何、その反則技」
「随分とタイムリーな話だな、これ」

さすがにタイムスリップの話だということは理解したらしい。まさしくアンタにぴったりの本じゃん、と銀時は真面目くさった顔で言った。そうだ。娯楽で読んでいた物語が、皮肉にも現実になるなんて思ってもみなかった。

あの物語は結局、妹が死なずに済む世界を見つけて終わった。

妙は窓の近くに行って、森を見つめた。その最後は、しかし完全なるハッピーエンドとは言い難い。最終章に向かうまでは、姉の奔走や、姉妹の日常、両親や彼女たちの過去が描かれていた。しかしある世界でそれは変わる。妹が言ったのだ。お姉ちゃん、タイムスリップしてるのね、と。
実は妹もタイムスリップの能力があり、姉の死ぬ未来を変えるために奔走していたのだ。姉が妹を助けた先には、そのあとで必ず姉が死んでしまう。姉が死ぬと妹は過去へ戻り、どうにかそれを食い止めようとする、その繰り返し。姉が感じていた彼女を邪魔する力は、妹が姉を思う気持ちだったのだ。いくつかの世界を過ぎて何度も絶望を味わった妹は、そうして気づいてしまった。わたしたちは、同じなんだ。自分が瀕死の重症を負った世界で、朦朧とする意識の中、起こるはずの姉の死の力は働かなかった。そうか、自分が死ねば姉は死なない。そしてその世界がねじ曲げられた事で、姉が同じようにタイムスリップをしていたことにも気づく。
シーソーに乗った子どものように、二人の未来は互いの力によって上下していたのだ。一方が死ねば一方が生きる。なぜ?わからない。でも、もしかしてタイムスリップの力をどちらも持っているからでは?妹は泣きながら言った。

そうして姉妹が考えついた、ふたつの道。

どちらも死ぬか、死ぬまでもう二度と会わずに生きるか。後者は効果があるかはわからない。試しながら生きていくしかない。どうする?彼女たちが出した答えは、それでも互いに生きていてほしいというものだった。二十歳の誕生日を終えた二人は文字通り別々の道を歩んでいく。そんな、哀しいラストだった。

(誰かを思う心…か)

それを読了して、妙は涙した。いつもならば単なる感動として泣けたかもしれない。しかし今は、運命という便利な言葉の理不尽さに涙がこぼれた。仮にタイムスリップの原因が彼女らのように互いを思い合う気持ちだとしたら、妙の場合、どう考えても銀時が相手なのではないかと思えた。

(でも、一体何を?)

物語のように彼が死んだわけでもない。それどころかタイムスリップする直前まで、出来事らしい出来事は何もなかった。何かを止めたい、或いは変えたいなんて思いはなに一つない。そもそもあの物語とは状況が全くちがうのだ。目を伏せて、唇を噛みしめる。妙は銀時に事情を話した事を後悔し始めていた。咄嗟の事とは言え、このままだと彼は自分の側を離れるタイミングを見失うのではないだろうか。坂田銀時とはいっても、この時代に生きる彼は私とは無関係だ。それに、と時計へ視線を向ける。このまま一緒にいたら、次に何かが起きたとき彼を巻き込んでしまうかもしれない。

「ねえ、銀さん」

それだけは避けなければいけなかった。呼びかけても本から目を離さない彼に、妙は世間話でもするように言った。

「ある人に会いに行こうと思うの」
「ある人?」
「ええ、からくりに詳しい人。作ったりもしているわ。何かわかるかもしれない」
「…どこにいんのか知ってんの?」
「たぶん」
「たぶんって」
「私の知ってるところに今もいるなら」
「…」
「だから、」

柔らかな銀色の髪の毛が、彼の目にかかっている。その色が、わたしはずっと前から好きだった。

「もういいよ。ありがとう、銀さん」

好きだったの。



ニーナ(2017/5/15)



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