呆れるほどの回復力は、若さも相まって更に高いらしかった。朝起きると正面のソファに彼はおらず、ケロッとして台所に立っていた。その姿に妙はほっと息を吐く。ああ、よかった。顔色も悪くないし、無理をしている訳ではないらしい。それだけを確認して音を立てずにリビングへ戻る。

「…朝飯」

と、そのとき不意に浮かんだ声は、銀時のものだった。

「食う?」

振り向くと、気まずげに視線を逸らした青年が頬を掻いていた。

「使ったんですか?ここの食材」
「え?あ、ああ…。床下に色々あったから」
「わたしも昨日見たけど、大丈夫かしら」
「大丈夫って?」
「賞味期限きれてたり」
「そんなんいちいち気にしてらんねえよ」

わたしの手厚い看病にはあんなにも警戒したくせに。そんな意地悪を言ってやろうかと思ったけれど止めた。痛みに苛立って当たっただけで、本気で傷つけようとした訳ではない事を、妙は知っていた。

「ねえ」
「あ?」
「あなたって、いくつなんですか」
「え?歳?」
「ええ、聞いてなかったから」
「十八…だけど」
「…ふーん」

頷きながら妙は今度こそリビングへ戻った。含みを持たせたようなその目に銀時は何だよ、とぼやいていた。
ソファに座り、天井を見上げる。ふうん。十八か。同い年、か。しかし不思議とどこか自分よりも幼いように思える。私よりもずっと多く、過酷な経験をしているはずだ。無条件に護られる立場ではなく、否が応にも自立せざるを得なかった。そういう意味では私よりもずっと大人だろう。一方で、日々戦場にいて気の休まらない生活の中で育った彼は、誰かに心を開く事が難しいのかもしれない。今では上手く隠しているけれど、まだ十八の彼は苛立ちや警戒心が身体の外へ出てしまう。そうやって周りや自分を傷つけてしまうのかもしれない。年相応なその振る舞いに、戸惑いもあるがどこかむず痒い気持ちになって妙は苦笑をした。それにしてもまさか同い年のあの人に会うなんて、ね。眠れば元に戻っているかと少しは期待したけれど、やはり無駄だったらしい。何故こんな事になったのだろう。何か意味があるのか。そもそも戻れるのか。ううん、と唸りながら視線を落とすと、ある部分で止まった。あれ、と思う。

(あんなところに…)

玄関扉の横に時計があった。あんな大きな時計、あっただろうか。手当てに夢中で気づかなかったのか。疲労で周りが見えていなかったのか。
大きな柱時計が堂々とそこにあった。

針は8時を過ぎた頃をさしていた。




時計がわらう夜





銀時の用意した朝食を済ませ、何となく時間をすごしている頃、妙は先ほどの違和感をそれとなく聞いてみた。ねえ、あんなところに時計なんてありましたっけ。視線を促すように、扉の隣に置かれた大きな箱をちらりと見やる。

「時計?あー、あったんじゃね?」
「…そう」

確信はない。本当に始めから時計はあったのかもしれない。いや、そう考えるのが自然だ。時計がいきなり生えてくる訳でもないのだから、昨日なかったものが今日はあるなんてことはあり得ない。だけど、残念ながら今いる状況は普通ではない。何が起こるかわからなかった。突破口になるなら些細なことにも注意しておかなければいけない。

(確かに昨日は混乱していたから気づかなかったってことも…。ああ、でも)

昨日、この家に入った時から、わたしは時間が知りたかった。今が何時なのか気になっていた。時間が知りたい場合、たとえ混乱していても無意識に時計を探すように思える。ただ単純に自分が見落としていただけなのだろうか。それに、何かが引っかかる。あの時計って、たしか、あの時の…。

(あの時…?)

あの時って、いつ?軽く目眩がした。あれは、タイムスリップした時だ。過去に来る前の、あの。はっとして立ち上がる。そうだ、どうして忘れていたのだろう。靄がかかったように過去に戻る前の景色が曖昧にぼやけていた。記憶が消えていたという訳ではなく、その出来事自体が頭の隅に追いやられていたような感覚だ。まるで表に出てこないように隠されていたみたいに。だけど、あんなに衝撃的なことをどうして?ダメだ、わからない。考えるほどに頭がぼうっとする。

「…い、おい!」
「えっ?」
「何やってんの。顔色悪いけど」
「ああ…いえ」

いつの間にか頭を抱えていたらしい。右手が額を押さえていた。

「寝とけば?」

ぶっきらぼうに言うと、銀時は羽織を来て、玄関へと向かう。

「どこへ?」
「ちょっと出てくる」
「あまり無茶しないでくださいよ。あなた怪我してるんだから」
「怪我してない日なんかねえよ」
「そうかもしれないけど…」
「じゃあな」
「あっ…銀さん!」

名前を呼ぶと彼は不思議そうにこちらを見た。思いの外大きな声で引き留めてしまった事を誤魔化すように妙はむりやり笑みを作る。

「あの…朝ごはん、美味しかったです。ありがとう。いってらっしゃい」

その素直な言葉に、銀時は虚を突かれたようにぱちぱちと瞬きをした。

「…おお」

ギイ、と押した扉はやがてバタンと音をたてて閉まった。もうあの人は帰ってこないかもしれない、と妙は思った。あれくらいに回復したのなら仲間の元へ戻ることも出来るだろうし、その方が安全だ。今の彼にとって自分は仲間でもなんでもない。助ける義理もない。それで良い。これはわたしの問題なんだ。
ふと隣に立つ柱時計を見やる。焦げ茶色の大きな時計だ。時刻はもう11時になっていた。あの時の異常な音と光について思い出す。騒音と眩しさにひたすら耐えて、気づけばあの茂みにいた。思い出すだけで目眩がする。もしもこの時計がタイムスリップを起こしたのだとしたら、無闇にここから離れないほうがいいのだろうか。覚束ない足でソファへ向かう。でも、あの時はたしか…。

(確か時計は三つあった)

どうして、今はひとつだけなのだろう。やはり無関係なのだろうか。あの時は、店の扉の両隣に柱時計が一つずつと、真上にからくり時計が一つ。計三つの時計があったはすだ。カチッと音が鳴り、振り向くと全部が12時を指していて、そのあとすぐに凄まじい音が…

「…違う」

妙は小さく呟き、ソファに置いていた手提げ鞄を引き寄せた。ただ一つ元の世界から持ってきた荷物だ。ごそごそと中身を探る。違う。時計は三つじゃなかった。

「ない」

少ない荷物の中に、それはどこにもなかった。あの時、妙の手の中にあった、入れた覚えのない懐中時計。落としてしまったのだろうか。詰めていた息を吐き出して項垂れた。手がかりが掴めるかと思ったのに。微かな光は嘲笑うようにするりと手の中を抜け出していく。
とん、と何かが手に当たった。本だ。双子の姉妹の、そうだ。タイムスリップの話。妙はそれを持ち上げ、自然と栞を挟んだページを開いていた。
両親がおらず、ずっと二人で生きてきた姉妹の、二十歳の誕生日にそれは起きる。妹が階段から落ちて死んでしまうのだ。世界が崩れるような絶望を感じた姉は、妹を諦めきれずにある力を使う。彼女にはタイムスリップをする能力があったのだ。しかし彼女が過去へ戻って原因を回避しても、妹の死は防げなかった。何故、と嘆く彼女はもう一度過去へ戻る。それを何度も繰り返す。結果はいつも同じだ。一日の行動をまるごと変えようが、外にいようが、家にいようが無駄だった。死因が変わる事はあっても、死そのものを避ける事はできない。そして、何度目かの世界で彼女は気づく。自分が妹を助けたいと思う気持ちを、何か大きな力が邪魔しているのだと。それが何かを探ろうとするところで最終章に入っていた。
妙は文章を夢中で追った。純粋に続きが気になること、そして、もしかしたらタイムスリップについて何かわかるのではと淡い期待を抱きながら。

バタン。

ドアの閉まった音が耳に入り、妙はやっと本から顔を上げた。頭が痺れたように時間の感覚はあまりなかったが、時計を見ると昼はとうに過ぎていた。

「え…っ」

目が合って狼狽えたのは銀時のほうだった。

「え?」
「な…泣いてんの?」
「へ?あ、ああ…ちょっと本、読んでて」

本?と復唱した彼は妙の手にあるそれを見て、呆れたように息を吐いた。

「なんだよ、紛らわしいな」
「どうしたんですか?」
「どうしたって?」
「え?」
「何かおかしいかよ」
「あ、えっと…何でもないです」

どうして帰ってきたんですか。ついポロっとそう言ってしまいそうになった。妙は胸の前で手を握り、静かに鳴る鼓動を抑えた。

(かえってきた)

(帰って、きたんだ…)

帰ってこないことを覚悟していたのに、その姿を見るとどうしようもなくほっとしている自分がいた。妙の考えていた事が何となくわかったのか、銀時は言い訳をするように口を開いた。

「あー…まだ怪我治ってねえんだから仕方ないだろ。あんま無茶すんなとか言うし、仲間のとこ遠いし、ここしかないじゃん。この家俺が見つけたんだから…良いだろ、別に…帰ってきても」

早口に言うと、次は意地悪げに片眉を上げて、つーかさ、と続ける。

「俺が仲間連れてきてアンタを拘束するとか思わなかったわけ?」
「え?」
「連れていかれて拷問されたりとかさ」
「何それ。そんな趣味があるんですか」
「ねえわ!変態みたいな言い方すんなよ!」
「そんなこと思うわけないでしょう」
「なっ…何でだよ。アンタちょっと楽観的すぎんじゃねえの」

なるほど、そんなふうに考えるのか。タイムスリップのことだけで精一杯で、この世界の誰かに危害を加えられることなんて思い付かなかった。それも、この男がわたしを捕らえるなんて、そんなこと。

「だって銀さんはわたしにそんなことしないもの」
「…何だよ、それ。どんだけ信用してんの?」
「別にそんなんじゃないけど」

何故かつまらなさそうな顔をしている彼の手に、何かがあるのに気づいて妙は首を傾げる。

「なんです?それ」
「団子」
「え?」
「食後のデザートに…って、昼飯くらい作っていてくれよ」
「ああ、すっかり忘れてて。ごめんなさい、もうこんな時間だったなんて」
「忘れんなよ」
「それにしてもお団子なんてあったのね」
「売ってるとこにはな」

今ご飯の用意しますからね。言いつつ妙はぱたぱたと台所へ向かう。その後、披露した料理の腕前に銀時は驚愕して顔をひきつらせていた。缶詰や非常食のようなものばかりなのに何故こんなことになるのか、と目を白黒させる。結局、こんなもん食えるかと罵倒した彼は鉄拳をくらい伸びてしまったため、二人が食事にありつけた頃にはもはや夕食に近かった。

夜、ふと時計に目をやると、長針は2を、短針は9と10の間をさしていた。それがまるで笑みを浮かべた大きな口のように見える。丸く白い顔に、口だけが浮かぶ奇妙な生き物のように。





ニーナ(2017/5/7)



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