銀時と妙


「あああっつ…」

昼間の太陽が容赦なく部屋の温度を上げていくのを、ただひたすらに耐えていた。暑くて何もする気が起きない。眠ろうにも眠れない。銀時はため息を吐き、ソファに腰掛けて低い天井を見上げた。夏の昼は長い。仕事がない日は特に。”強”にした扇風機が必死に風を送ってくれているのも虚しく、腰や背中や腕などの、ソファに面した部分から次々と熱が湧き出てくる。もううんざりだ。安っぽい風鈴が、カラン、とこれまた安っぽい音を出した。窓の辺りから部屋が溶け出してしまいそうだ。窓のサッシのあたりから、ほら、どろーって。

ピンポン。

バカな想像をしているとちゃちな電子音が鳴った。

(…嘘だろ)

銀時は玄関の方向に目を向け、顔をしかめた。インターフォンを鳴らすということは新八や神楽ではない。つまり来客ということになる。この真っ昼間から仕事などしたくない。こんな時に外に出たら、それこそ一瞬で溶けてしまうかもしれない。もしくは焼き焦がされてしまう。それ以前に出迎える行為すらもめんどくさい。瞬時に居留守を決めた銀時は、玄関とは逆方向に顔を背けた。

(気づいてない聞こえてないオレは何にも見えてない)

ガラガラガラ。応答がないことを確かめると、玄関先の人物は扉を開けた。躊躇いのない開け方だった。銀時は頭をまた玄関の方向に向けて、うげ、とまた顔をしかめる。

「いるんじゃないですか」

快晴の空を背負った女が、呆れ顔で立っていた。見慣れた、見飽きた顔の女だ。

「…なんか用」

はあ、と息を吐き、妙は下駄を脱ぐ。遠慮のない足取りで廊下を進んだ。それでもぐったりとソファに脱力したままの男に、さらに呆れ返った顔で見下ろした。

「お客さんが来たって言うのによくもまぁそんなだらしない格好でいられますね」
「依頼人以外は客じゃねえよ」
「チャイム鳴らした時は誰だかわからなかったでしょう?依頼人だったかもしれないじゃない」
「…うるせぇな。出ようと思ってた時にお前が無断で開けたんだろ」
「絶対ウソよ。居留守しようとしてたでしょ」

あっさりと見透かされてしまい、舌打ちしながら顔を背ける。

「ねえ、神楽ちゃんは?」
「定春の散歩」
「じゃ新ちゃんは?」
「買い物」
「この暑いなか二人はちゃんと動いてるのに…銀さんは何してるんですか」

じろりと睨んで飽きもせずまた溜息をつくと、妙は台所へと消えた。しばらくして戻ってくると勝手に正面のソファに腰掛ける。

「んで、なんの用なんだよ」
「ちょっとおすそ分けにと思って」
「おすそ分け?」

視線を妙に向ける。銀時とは対照的に、すっと背筋を伸ばして座っていた。

「九ちゃんに、柳生家行きつけのステーキ屋さんに連れてってもらったんです。そこで出てきたロースハムがすごく美味しかったから、お土産に買ってきたの」
「へえ。サンキュー」
「…神楽ちゃん帰ってくるまで待ってます」
「あっそう」

ふーん、と、どうでも良さそうにしながら唇を突き出す。どうせこの女のことだ。神楽のいないうちに俺が平らげてしまうとでも思ってんだろう。信用ないよなあ。俺をなんだと思ってんだ。
面白く思っていない銀時を気にもせず妙は口を開く。

「ていうか何ですかそのTシャツ」
「あ?」
「やきそば命って…」
「ああー、海の家やったときの」
「ふうん」
「ちなみに新八はフランクフルトで神楽はかき氷な」
「いつもの着流しは?」
「あんなあっついのずっと着てらんねえよ」

いいながら、ぱたぱたとTシャツの裾を扇ぐ。黒地に白の江戸文字で書かれた”やきそば命”。この軽い布地すらも暑苦しい。正面を見やると、いつものように着物姿の妙がいた。バカじゃねえの。なんでこんなクソ暑いのに分厚い帯なんか腰に巻いてるんだろう。心底不思議に思ったけれど、言ったらセクハラになる気がして言葉を飲んだ。
会話が途切れて沈黙した部屋に、ぶーん、と耳障りな羽音がした。

「うっわ」
「なんです」
「蚊、いる」
「まあ…夏ですからね」
「お前連れてきただろ。さっきまでいなかったもん」

言ってるそばから背中の辺りで掻痒感があった。腕を回してでたらめに掻きむしると、ぷっくりと皮膚が膨らんだ部分がある。見えないけれど、刺されたての赤い皮膚が想像出来た。海に浮かぶ離島のような、いびつな形。掻くと一瞬爽快感があるが、その後すぐにまたむずむずと痒い。扇いだ時に入ってきたのだろうか。じゃあ音が聞こえた時にはすでに刺されていたのだろうか。

「刺されたんですか?」
「うん」
「蚊取り線香しましょうか?」
「うん。あと、あれ、薬も」
「はいはい」

言って妙は立ち上がる。押入れを開けたり、薬箱を開けたりと彼女が動き回っている間も、痒みはどんどん増していく。妙が戻ってくると、蚊取り線香のにおいが漂ってきた。白い煙が渦巻きの緑から細く静かに上がっていく。

「ほら、銀さん」

こと、と蚊取り線香を床に置き、妙はソファに腰掛ける。しかし先ほど座った場所と位置が違う。正面ではなく、銀時のとなりだった。

「背中、だして」
「…は?」

彼女は上半身を銀時の方へと向けた。右手には液体タイプのかゆみ止めを持っている。

「いや、自分でできる…」

あ、と思った。刺されたのは背中だ。掻くのは何とかできるが、刺された皮膚のピンポイントに薬をうまく塗れる自信はない。攣って悶絶する姿が容易に思い描けた。

「ほら、はやく」
「…」

黙って妙に背を向け、Tシャツを上まで捲りあげる。黙って待っていると、ヒンヤリとした感覚が背中にあたった。スポンジ部分が押し当てられ、ぐるぐると円を書くように薬を塗られる。

「まったく何をいまさら恥ずかしがってるんですか」
「べつに恥ずかしがってるんじゃねえよ」
「じゃあ何」
「…」

言えばまたセクハラになる気がして黙った。だってほら、男と女がふたりきりの部屋で肌に触れるなんてことはあまりに危ういではないか。普通の男女ならそうだろう。しかし、自分たちはある意味普通ではないのかもしれない。薬の蓋を閉めても、Tシャツを元に戻しても、妙は銀時のとなりを立たなかった。白い煙がゆらりと揺れて、それがもやもやと胸の中を曇らせる。無性に、晴らしてしまいたい衝動に駆られる。

「なあ」

暑い。背中が、まだかゆい。刺されていないはずの首までかゆい。なんでこの女は自分のとなりにいるのだろう。なぜこんなに近く、こんなに、遠い。

「お前って俺の事どう思ってんの?」

へ?とマヌケな顔をして妙がこちらを振り向く。

「どう…って」

戸惑った表情の彼女を見て、しまった、と思った。暑さや、掻痒感や、女の呑気さや、それによる苛立ちから口が滑ったのかもしれない。慌てて取り繕おうとするが、何を言っても不自然になる気がして口籠ってしまった。
不思議な、曖昧な間柄だった。近いと思えば遠く、遠いと思えば近い。その不安定な関係がたまにひどくもどかしいと思う時もあった。しかし心地よい時も、同じくらいにあった。核心に迫ってはいけない、柔らかく脆い何かだったのだ。

「わたし、は」

おずおずと紅い唇が開く。頬はさくら色に染まり、見上げた瞳は不安げに揺れている。どきりとして思わずその表情に見入った。声がひとつも出ない。

「好き…ですよ」

頭を強く殴られたような感覚があった。強く、重く、衝撃的な感覚だった。殴られたあとみたいに、ぐらぐらと目が回る。朦朧とする意識の中、思わず手を伸ばした。

その時だった。

勢いよく開く玄関扉の音が響く。びくっと、おかしいくらいに肩が揺れる。二人同時だった。

「ただいまヨー!あっちーい!」
「ただいま帰りましたー!あれ?姉上来てたんですかー?」

快活な声がして、銀時は無実を訴えるようにパッと両手を頭の高さに上げた。妙は慌てて立ち上がり、ぱたぱたと二人を出迎えに走る。行ってしまう。いや、いい。引き止めるな。引き止めてどうする。

(どういう、意味だったんだ…)

銀時はまるで銃でも突きつけられたように硬直したまま両手を上げていた。新ちゃん、神楽ちゃん、お土産のハムがあるから仲良く食べてね。玄関の方からそんな声が聞こえてくる。神楽の興奮する声にかき消されたが、妙の話し方は動揺しているふうではない。帰るんだ、と思った。帰ってしまうのか、あんな爆弾を落としておいて。子どもたちとの談笑もそこそこに、彼女は万事屋を後にしたらしい。丁寧に戸が閉まる音がした。

「ただいまーって…銀さん、なんでそんな格好してるんですか」
「あ?…ああ、」
「ていうか銀ちゃん、顔赤いアルよ?」
「えー夏風邪ですか?」

嫌そうな新八の声を聞きながら、ふいに蚊取り線香のにおいが鼻をかすめる。蚊に刺されただけだ。と、ちいさく呟いた。

「は?蚊?」

怪訝そうな声には返事をせず、妙が持ってきたハムの紙袋が揺れているのを見つめた。中身は来て早々彼女がきちんと冷蔵庫に入れている。からっぽの紙袋だ。そろそろ薬が効いても良いはずの、本当に蚊に噛まれた背中が無性にむず痒い。会いたい。ぽろっと心が本音をこぼす。言葉に出してもいないのに、銀時はとても狼狽した。そうか、おれは、あいつに会いたいのか。

「あ、アネゴ、荷物忘れてる」

神楽の言葉に、きっかけをもらったようにやっと手を下ろすことが出来た。迷いなく素早く立ち上がり、一歩も動けないと思っていた足を踏み出す。妙の忘れた黄色い巾着をひったくると、スタスタと廊下を進んだ。玄関を出る時には半ば駆け足だった。戸を引くと白い太陽が待ち構えている。暑くまぶしい真夏の午後だった。


ニーナ(2016/8/31)


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