神威と妙
ザアザア降りの雨が昨日の夜からずっと町中を叩いていた。
雨は次の日の朝になっても、
昼になっても、
止むことはなかった。
(カビでも生えそうね)
妙は部屋の隅を見た。窓の外で雨音がうるさい。空気の入れ替えをしなければとずっとおもっていたのだけれど、どうしてわたし、よりによって今日来てしまったのだろう。窓なんて開けられないじゃない。雨が入って、部屋が濡れてしまうじゃない。乾いた空気も通せずに誰もいない万事屋は電気を付けたって暗かった。せめて掃除でもしておこう。思って押入れを開ける。掃除機の音は雨よりずっとうるさかったけれど何故か気持ちは軽くなった。
「うん、綺麗になった」
妙はにこやかに笑い、誰に言うでもなく言った。
「また、来ますから」
返事がなくても言葉を綴った。
「今度は空気の入れ替えしますからね」
そうしなければここにあった人の気配がひとつもなくなってしまいそうだ。
雨がふる。
なにもかも流してしまう。
どこか遠いところへ連れてってしまう。
妙は軽く頭を振って、電気のスイッチを消した。
「おネーサン、ここの人?」
立て付けの悪い引き戸を閉め、階段を降りようと手摺を持ったとき、後ろから声をかけられた。振り向くとにっこり笑った青年が、身軽にも手摺の上でしゃがみこんでいる。
(だ、れ?)
さっきまでいなかったはずなのに。いつのまにここまで来たんだろう。その現実味のない光景にゾクリと嫌な冷たさを感じた。
「いいえ」
不審に思いながらも問いかけに答える。完全なる笑みは冷たさすら感じられた。やけに白い頬に、細い肩。赤い髪は綺麗に編まれている。
「そうなの?でもここから出て来たじゃない。鍵まで閉めてたし」
「…身内なだけです。ここの主が留守にしてるのでちょっと掃除にきたんです」
なるべく愛想良く振舞おうとするも、彼の抱える怪しさがどうしたって妙に警戒心を持たせる。なんだろう。この人、笑ってるのに笑っていないみたい。
「なにか用でしたか?」
もうしばらく留守にするため依頼なら今は受けられないことを手短に告げた。そっかぁ、残念だな。と言った声はちっとも残念そうではなかった。ねえ、それよりさ。ニコニコと相変わらずな笑顔で不躾に妙を指差す。
「身内ってさ」
「…」
「もしかしてあのお兄さんのカノジョ?」
ひゅっ、と風を切る音がした。答えるよりも先に男が妙のすぐ近くに降り立った。まるでうさぎがぴょんと跳ねるように。雨の音に紛れて、どこかで警報が鳴っている。危険だ。はやく、離れなきゃ。
「おネーサンが傷ついたらさ」
至近距離の白い顔が陰った。やばい。笑った瞳のスキマから狂気がにじみ出ていた。逃げないと。行動に移す前に、パシッと素早く二の腕を掴まれた。
「あのヒト、悲しむかな」
「…っ!」
強い力が腕を圧迫する。痛い。指が食い込まんばかりだ。折れないようにギリギリのところで止めているらしい。つうっと冷たい汗がこめかみを通過した。唇を噛み、何とかそれに耐えながら男の顔を見た。笑っている。愉快そうに、にこにこと。むかつく。無性に腹が立った。何なのよ、この男。いったい誰なの。痛い。とんでもなく。だけど、そんなことよりこの男に見くびられるほうがよっぽど不快だと思った。息を吸い、ふう、とゆっくり吐き出す。
「…随分とまあ卑怯なのね」
「ん?」
「そんな精神的に追い詰めるような方法でしか攻撃できないの?」
笑顔なら、こっちだって専売特許だ。口角を上げて目を細める。そこに軽蔑の眼差しを乗せた。
「あなたが手を汚してわたしを痛めつけたって、何ともないわよ。あの人は」
「…ふうん」
ぱ、と腕が解放される。腕全体の感覚があまりなかった。
「おネーサン、いい女だね」
「あら、どうも」
「俺に乗り換えない?退屈させないよ」
「言っときますけど、わたしあの人の女でも何でもありませんから」
「そうなの?じゃあ話は早いね。一緒においでよ」
雨がふっている。
ザアザアと、地面を叩いて何かを急かしているような、
鼓舞しているような、
不安を掻き立てるような、
そんな音が、昨夜からずっとうるさい。
「嫌よ」
帰ってきて。
「アナタとなんか一緒に行かない」
はやく。
「わたしはここで待っていないといけないの」
怪我していても、腕がなくても、足がなくても、怒らないから。待ってるから、ずっと。
「置いて行かれたのに?」
「…は?」
「きみ、一人だけ見捨てられて置いて行かれたのに?健気にずっとここで待つの?それってさ、」
ははっと声を上げて笑う。まるで邪気のない子どものような声だった。
「すっごく無様」
離された腕の痺れがじんじんと肩まで広がる。これは意地だった。わたしはこの男に負けてはいけない。彼らが帰ってきた時の日常を、そしてなにより自分の存在意義を守るためにも。そうよ、わかってる。無様で滑稽な人間だわ。だけど、これだけは命がけで守らなければいけなかった。妙は動きの効く方の腕を上げて男の頬へ手を伸ばした。ぴたりとそこに触れる。
「…なに?この手」
おそろしく冷たい肌だった。生きていないみたい。哀れなものを見る目つきで、男を見上げる。内緒話のために顔を寄せる。震えてはいけない。今からプライドをかけたはったりをかますのだから。雨音に消えそうな、しかし確実に届くような声で囁いた。かわいそうなひと。気づいていないの?
「置いて行かれたのはあなたのほうよ」
ニーナ(2016/9/15)
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