新八と妙


今朝はやけに肌寒かった。新八はふと障子に目をやり、見えない空を思い浮かべる。今日の天気は一日曇りだと情報番組のアナウンサーが言っていた。目線を手元に戻し、茶を啜る。小さな物音を立て合いながら二人きりの朝食は、いつも通り、今まで通り、静かにすすむ。新八は鮭の身をほぐした。妙はたくあんに箸をのばした。ちらりと上目で彼女の様子を伺う。姉は今日も綺麗だ。完璧すぎるほどの笑顔で、そして、どこか危うげだった。微笑みを顔に貼り付けることでまるでなにかを覆い隠しているようだと生まれてからずっと共にいた新八はそんなことを思う。いつも二人だった。ずっと一緒だった。これからだってずっと二人一緒だと思っていた。だけど、そして、そうではないことも本当は知っていた。

「美味しいわね、このお漬物」
「お向かいさんにもらったものですよ」
「まあ、じゃあ手作りなのね。今度お礼しておかなくちゃ」
「あの、姉上」
「なあに?」

いつもの完璧な笑顔に、僕は言葉に詰まった。言わなければいけないことがあるのに。この人の前では、いつまでたっても自分はただの幼い弟だ。

「…今日は、お仕事ないんですよね」
「ええ、久しぶりにお休みなの」
「何か予定はあるんですか?」
「特にはないけど…買い物にでも行こうかしら」
「あのね、姉上。…さっき、電話がありましたよ」
「あら、だれから?」

薄くも、やはり笑顔で静かにごちそうさまでした、と箸を置く。質問したにもかかわらず答えを待たずに彼女が立ち上がった。その手が障子を引くと廊下の冷気が居間に入ってくる。やっぱり今日は冷えるわね。振り向いて笑った顔に、僕はきちんと笑顔を返せただろうか。だれから、だなんて。わかっているくせに。新八もまた箸を置いた。姉は逃げている。とても必死に逃げている。いつも二人だった。いつも一緒だった。彼女が逃げるなら、僕も逃げるべきだろうか。姉弟で手をとり、共に逃げ去るべきなのか。新八は一度きつく目を閉じ、ゆっくりと開いた。ちがうだろ。姉上が逃げようとするならば、掴んでひっぱって支えられるのは、僕しかいない。今、それをすべきなのは僕だ。さみしくても、かなしくても。

妙が何かを思い出したようにひとつ手をたたく。

「そうだわ。この間、箪笥の整理をしていたら写真がいくつか出てきたの。新ちゃんたらまだほんの小さくてとっても可愛いかったわ。あとでゆっくり見ましょう」
「姉上」
「新ちゃん覚えてないでしょ。あれぐらいの頃、新ちゃんわたしと結婚するって言ってたのよ?僕が姉上を守りますなんて言って」
「姉上」
「ついでにアルバムの整理しましょうか。久しぶりに父上と母上の写真も見たいし」
「電話がありましたよ。姉上に会いたいって」
「ね、そうしましょう。ちょっと待ってて。すぐに持ってくるから」

早口にまくし立てる彼女の肩をそっと掴む。ぴたりと動きを止め、ゆっくりとこちらを向いた。逃亡していたところを捉えられたかのような目で妙は新八を見た。許して、おねがい、許して。そう言われているような気分になる。咎めるつもりは、これっぽっちもないのに。

「僕はね、姉上のことが大好きですよ。だから姉上が決めた人なら誰だって受け入れます」
「何、言ってるの」

ふい、と妙が顔を背ける。

「何の話?新ちゃん、何か勘違いしてるんじゃないの」
「姉上、いつまでそうするつもりですか。自分の気持ちを無視しないで下さい。僕は、」

ぎゅ、とその細い肩を掴む手に力が入った。彼女は唇を噛みしめる。

「僕はそんなみっともないあなたを見たくない」

弾いたようにこちらを向いた。ぱくぱくと口を開けては閉じ、何かに溺れてしまいそうな必死な顔が新八に助けを求める。

「いや…いやよ。わたし、ここにいる。結婚なんかしないわ。わたしはね、新ちゃん。あなたとこの家があればそれでいいの。どこにも行かないの」
「姉上だってあの人が好きなんでしょう」
「ちがう…っ」

ちがう、ちがうわ。
妙は縋り付くように新八を見上げ、ふるふると首を横に降った。その様子を、とても可哀想だと、僕は思った。どうして彼女はこんなにも誰かを好きになることを恐れているのだろう。どうしてこんなにも動くことを拒否するのだろう。だけどそうしてしまったのは僕自身じゃないか。

「わたし、玉の輿なんていらないのよ。恋だってしたいと思ってない。好きなんかじゃ、なくて…わたし…」
「姉上が自分の幸せを掴まないと、僕だって自分の人生を歩けない」
「…っ」

姉上、もう辞めましょう。互いのためと偽り犠牲にし合うのは。自分の人生と向き合わずに依存し合うのは。

「ずるいわ…。どうしてそんな酷いことを言うの」
「僕たちは自分自身を怠けていたところがある。姉のため、弟のため、親の、家のためって言い訳を繰り返して何かを諦めるフリをしながら、本当は逃げていたんですよ」
「…それの、何がいけないっていうの」
「このままでは僕らはどこにも行けない」
「どうしてこのままじゃいけないのよ」
「あなたがあの人に惹かれてるからです」

ちがう、とはもう言わなかった。唇を噛み、瞳を伏せる。もしかしたら僕は初めからわかっていたのかもしれない。二人が惹かれ合うことをどこかで気づいていたのかもしれない。

「自分の気持ちに嘘をつき、見ないふりをして、安全な場所でいつまでも閉じこもっているつもりですか?父上や母上が、それで喜ぶと?」
「…、新ちゃん…」
「姉上。僕はもうあなたを守れない。あなたを守るのは僕じゃない」

妙が新八の着物をつかむ。見上げた瞳が濡れていた。小さいな、と思った。小さくて、こんなにも細い。この腕に何度僕は救われて、守られてきたんだろう。もう僕はあなたより高い場所のものを取れる。あなたが手を引いてくれなくたって歩いていける。

「姉上だって、もう僕を守ろうとなんかしなくていい。家を守ろうとしなくていい。自分の幸せのためだけに生きていいんです。」

離れるのは怖い。

変わるのは難しい。

それでも僕たちは逃げてばかりはいられない。父と母にもらった命を自ら閉じ込めてばかりでいられない。幸せになろうとするのは、生きている者の義務だ。もう幼い約束を貫けないことだってわかっている。

ああ、だけど

離れても、変わっても、僕たちは姉弟だ。家族だ。それだけでこんなに強いつながりがあるじゃないか。

「大人に、なってしまったのね」

妙は目尻からひとつ涙を落とした。手が震えている。声だって震えていた。

「大きくなってしまったのね、わたしたち」
「ええ」
「はやく、早く大人になりたかった。そうすればいくらでも新ちゃんを守れるって、いつまでも一緒にいられるって思ってたから」
「ええ」
「でも、違ったのね」
「…はい」
「あんなに待ち焦がれていたはずなのに、こんなの皮肉だわ」
「喜ばしいことですよ」
「でも、かなしいの」

うつむいた姉が僕の腕の中で泣いている。姉上。姉上、ねえ、あねうえ。ぼく、

「覚えてますよ」

しゃくりあげるような泣き声で彼女は返事をする。なにを?

「覚えています。姉上と結婚するって言ってたの。僕は姉上を守りたかったから。あなたのことが何よりも大切だったから」

これからずっと自分が姉の一番近くにいるのだと何の疑いもなく思っていたあの頃。どんよりと曇った空を見た。まるで僕たちを覆い隠すみたいな雲だ。たたたっ、と、どこか懐かしい音が聞こえる。子どもの軽い体重が、廊下を駆ける音。新八の目線の先で、幼い自分と姉がぴょんと縁側に降りて追いかけっこをしている。甲高いふたつの笑い声が重なる。たしかに、あの頃ぼくたちはいつも二人一緒だった。手をつないで、手をひっぱって、その力だけを頼りに歩いてきた。瞬きをすると新八の目からも涙が落ちてゆく。同時に幼い姉弟がふわりと消える。消えた。ぼくたちは大人になったよ。だけど、きみたちは確かにそこにいた。そのことを絶対にわすれない。新八は心の中で強く願った。どうか今日が終わるまで、この人を僕の姉だけでいさせてください。今日だけは、僕たち互いを守り合いながら、昔を想ったって、ねえいいでしょう。

見降ろした姉上の頭頂部に、僕は静かな口付けを落とした。


ニーナ(2016/4/24)


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