例えばの話だけれど初恋がいつかと問われれば、俺はいつものごとく冗談でかわして、もしくはへらへらと嘯いて、笑って、ごまかして、そして逃げるだろう。銀時は安物の湯のみにほうじ茶を入れた。自分ともう一人の、二人分。真剣に答えろと言われても困ってしまう。初めて関係を持った女の顔も名前も思い出せないような人間だ。真面目に答えられるはずがない。時代が時代だったし、きっと町娘だとか同年代の少女ではあり得ないだろう。ただ、その相手に恋心を持っていたかと聞かれればはっきりと答えられる。否、だ。
「お前、初恋ってどんなだったの」
湯のみを置くと同時に正面に座る女に声をかけた。どうやら今日は許しが出るまでこの部屋に監禁されるらしい。
「…なんですか、急に」
唐突な質問に眉を歪めて妙は言った。下の店では子供たちが張り切ってパーティの準備をしている。そんな歳でもないんだがな、と苦笑するも、嬉しくないわけではない。ただどんな顔をして待っていればいいのかわからないのだ。
「いや、別に。なんとなく?」
なんで疑問形なんですか、と言った妙の頬が心なしか赤い。彼女は一応、俺が外に出ないための見張り役だ。
「いたじゃん。あの万年笑顔のウザい兄ちゃん」
「ちょっと、ウザいとか言わないでくれます」
「なー、あいつ昔からあんなだったの」
「あんなって…まあ、昔から明るい人でしたけど?」
ずずっとほうじ茶を飲んだ。しけたせんべいに手を伸ばす。
「で、どーいうとこが好きだったの」
「別になんだっていいでしょ」
「いーじゃん。減るもんじゃねえし」
「減る気がします。綺麗な思い出とか」
「意外とああいう熱血系に弱いわけ?」
「熱血、かしら」
「男らしいカンジ?」
「ていうか…憧れみたいなものですよ」
「憧れ?」
「そう。あの頃はたくさん門下生がいて、子供の私からすればみんな大人に見えたけれど…その中でも兄さんは特別だったの」
妙は湯のみを両手で持って何気なくその中を覗いていた。照れているのか頬の赤らみはそのままで、いつもより少し幼く見える。特別、とその口から漏れたとき、ひくりと銀時の頬が動いた。
「強くて楽しくて優しくて…何でもできるスーパーマンみたいだった。子供ながらに憧れてたんですよ」
「…ふうん」
「でも、そうじゃないんですよね」
そんな銀時に妙は気づくはずもなく先をつづける。
「あの人も、他の門下生たちも、それから父も…子供の私から見たらすごく大きくて何からも守ってくれるような存在に思えたけれど、そうじゃない。彼らより強いものはあったし、敵わないものもあって、余裕の持てない時だってあったはず。悲しくてしょうがない時もあって、でも、それでも笑うのは私たちを不安にさせないためだったと思うんです」
今なら、わかるのになあ。と呟いた声が寂しげだった。何も知らないままに大人や周りに守られている。子供とはそういうものだ。成長した時にやっと気づくのだって決まっている。憧れが幼い恋であるならば、歳上の人間にそんな感情を抱くのは至極当然だろう。ならば、俺は?もしも子供の頃に彼女と出会ったならば、恋をしただろうか。今の、この感情は、だって憧れとは違う。
「じゃあさ、今は?」
「いま?」
「もし今もこの街にいたら、あいつのこと好きになるの?」
へ、と妙は素っ頓狂な声を出した。きょろきょろと目を泳がせて口を引き結ぶ。それでも銀時は沈黙を破ろうとはしなかった。
「い、え」
「…」
「きっと…あの人は憧れのままなの。大事な人だけど、たとえ今ここにいても、私はたぶん他の人を好きになる…と、思います」
伏し目がちだった妙の視線がゆっくりと自分を捉える。胸が、鳴った。どこからか甘い匂いがして、銀時は自分の生まれた日を思い出した。いつもこの時期はこの甘い匂いが漂っているのだ。似合わないと思う。自分には似合わない。でも、
「銀さんは」
嫌いじゃない。
「銀さんの初恋は、どんなひと?」
生まれた日を祝おうとバレバレのサプライズをする子供たち。それに協力する街の奴ら。面倒くさい腐れ縁の友人。からかうみたいに祝いの言葉がかけられる。酒を飲んで宴会をしたいだけだろう。でも嫌いじゃないんだ。この匂いが漂う季節。おれは一つ歳をとる。ソファを立ち、窓の外を見る。わざと軽い口調で返した。
「すっげえ美人」
「あら、メンクイだったのね」
「うっせえなァ。何とでも言えよ。あと、そーだね。うん、やさしい女だな」
窓の外ではどこかの子供たちが走り回っている。銀時は顔をほころばせた。優しくて強くて、たまに一人で泣いてるんじゃないかと心配になる。まったく無様だよな。この歳で初めて知るなんて。
「いまでも好きなんだ」
と、その時、ガラガラっと勢いよく戸が引かれた。振り向くと赤髪の少女が顔を出す。神楽だ。
「アネゴー、ちょっと手伝って欲しいネ。あ、銀ちゃんはそこから動いちゃダメヨ!」
「へーへー。わかったわかった」
肩をすくませて少女の忠告に適当な返事をする。ふと、妙を見ると黙ったまま座っていた。神楽を振り返ることもせず。アネゴ?再度呼びかけられてやっと気づいた様子だった。
「あっ…ええ。ごめんなさい、今行くわね」
慌てて湯のみから手を離し、立ちあがる。
「じゃあ、銀さん。ちょっと出ますけど、どこかお酒飲みに行ったりしないで下さいよ」
「ああ…」
立ち上がった妙の笑みがどこか切ないような気がして、俺は手を伸ばしそうになる。この間だって思わず腕を掴んでしまった。時折彼女が儚く見えて、咄嗟に捕まえてしまいたくなるのだ。その衝動が近頃強くなってきている気がする。ほんと情けねえな。
「銀さん」
「あ?」
「楽しみにしてて下さいね。今日はご馳走ですから」
「…あんま張り切んなよ」
「ふふ、嬉しいくせに」
「うるせえ」
得意げに笑う彼女はいつもの妙だった。ほっと胸を撫で下ろす。泣いているんじゃないだろうか。我慢しているのではないだろうか。寂しいのではないだろうか。そう思う度、捕まえて守ってやりたくなる。子供のように純粋でもなければ、大人らしく器用でもない。憧れじゃなくて、きちんと欲しくて、だけどうまく言えずに足踏みしている。俺の初恋は、そういう恋だった。
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