銀時と妙


「なあ俺が浮気したっつったらさァ…お前、どうする?」

パチン。足の爪を切る音に紛れさせて放った言葉に、妙は一瞬動きを止めた。表情は見えない。彼女は居間で洗濯物をたたみ、自分は縁側で爪を切っていたからだ。言ってしまったことを瞬時に後悔する。床に広げた昨日の新聞紙に浮気男への報復がノンフィクションで載っていた。その女のあまりの恐ろしさに口が滑ったのだ。なあ、お前ならどうする?正面座って茶飲んでる時に思いついた話題じゃなくて良かった。顔を合わせてこんなこと言えねえ。浮気の後ろめたさなんかじゃなくて、自分たちは恋仲であることすら曖昧だからだ。変な緊張感で危うく深爪しそうになる。前言撤回しようかとも他の話題に逃げようかとも考えたが、妙が何と返すのかほんの少し気になって出来なかった。一応、付き合ってはいるはずだ。言葉にはしていないが互いに一定の距離を守っているし、他人にからかわれても否定しない。結婚しないのかと聞かれることも多くなった。それに、恋人じゃないとできないこともしている。口元を緩めてパチン、また爪を切った。

「何です。好い人でもいるんですか」
「ちっげーよ。たとえば、の話。言っとくけどしてねえからな」
「そうね。とりあえず火あぶりかしら」
「ひっ…」

ゴン、と爪切りを落としてしまった。さすがに違うわ。火あぶりって。しかもとりあえずって。頬をひくつかせているとクスクスと彼女の笑い声が返ってきた。

「うそよ」
「は?」
「そんなこと、するわけないでしょう?」

妙はたまった洗濯物を淡々と片していく。

「わたし、犯罪者にはなりたくないもの」

冗談っぽく言ってみせた。その姿にどこか不透明な感情が芽生える。何故だろう、彼女といるとそれを感じることが時たまあるのだ。不透明でどろりと身勝手な感覚。

「遊びなら見ないふりをするし、本気なら私が引きます」

そうしてその時、俺は不機嫌になる。

「て、いうか。あなたが浮気できるとは到底思えません。きっと誰かを好きになったら手を出す前にわたしに言うわ。たぶん痛そうな、苦そうな顔をしてね」
「…」
「その時は潔く引きますからご心配なく」

ふふ、と笑って畳み終えたタオルをひとつポンと叩いた。何だよ、それ。湧いてきた不透明な感情は案の定イライラに変わった。今もきっとあのきれいな笑顔を浮かべているのだろう。完璧な、嘘みたいな笑顔。その顔が容易に想像できて、そのことにまた苛ついた。何で、お前はいつもそうなんだよ。

「…むかつく」

自分の発した声が硬かった。胸で生まれた怒りがつっかかって滑らかに声が出てこない。突拍子もない言葉に、妙は意表を突かれたような声を出した。

「え?」
「何でそんなに簡単に諦められんの」
「だって、しょうがないじゃないですか」

ごく当たり前のように言う。柔らかく、だけどしっかりとした口調だった。しょうがないだってさ。なんて便利で卑怯で悲しい語彙なんだろう。

「ひとの気持ちなんてどうしようもないもの」

しょうがない。どうしようもない。そんな言葉たちを、お前は今どんな顔をして言ってるんだ。そうやって色んなものを諦めて、手放して、それでも笑ってきたのか。おれもそのひとつなのか。思うとやりきれなくなる。

「どうしようもないから、お前は俺が他の誰かに惚れても許すのかよ」
「許すとか許さないとかじゃないわ。誰が誰を想おうと勝手でしょう?そうね。少し、寂しいけれど」
「許さねえよ」
「…え」
「俺は許さない。お前が俺以外の奴に惚れたら許さねえよ。諦めきれねえ。どうにかして縛り付けるよ。誰にも渡したくないし、何処にも行かせたくない」
「…」
「他人の気持ちはどうしようもない。他の誰かを好きになってもしょうがない。そうかもしれないけどなァ、それで済まねえのが人間だろうが」

何でお前はそうやって線引きをするんだよ。一緒に笑って、一緒に過ごして、無茶を叱って、だけど必要以上は踏み込まない。去ってしまうのはしょうがないと諦めてしまう。いや、きっと傷つかないために始めから覚悟を決めているのだ。だけど、ほんとうは、と拳を握った。本当は自分もそうだ。諦めが良くて去る者を追わないのは臆病だからだ。この上なく怖がりだからだ。だけど、追って欲しい。そんなことを思った。もしも血迷って自分が彼女の前から去ろうとしたら全力で止めて欲しい。そんなことを考える自分は本当に我が儘だと思う。妙の後ろ姿はさっきと少しも違わない。相変わらず凛と背筋を伸ばして座っている。だけど洗濯物をたたむ手は止まって、膝に置かれている。ああ、そうだ。こいつはこういう女だ。自分とよく似ている。

「縋れよ、もっと」

ああ、俺は。恥ずかしいし子供みたいだけど、そうなんだ。俺は、この女に執着して欲しい。俺が浮気すれば火あぶりでも何でもいいから怒ってほしい。よそ見してたら殴ってでも軌道修正してほしい。お前に必要とされることが俺の原動力だというのに。

「もの分かりの良さなんていらねえよ。わがままでいいよ。理不尽でいい。ちゃんと掴めよ。怒れよ。許すなよ。笑って、しょうがないなんて言うなよ。」

後ろから腕を引いて抱き寄せる。頭を胸にきつく押し当てた。頑なにうつむいた顔は見えないが恐らく涙は流していない。眉間に皺をよせて口を引き結んでいるのだろう。彼女は嘘と我慢が得意だ。そんな特技はいらないのにな。体重を預けないところがまたこいつらしい。それでも引き剥がそうとはしない。馬鹿ね、と息のような声が漏れた。

「…後悔、しますよ」
「あ?」
「わたし、しつこいですから。泣いたって許してあげない」

くい、と顔を上げて彼女がこちらを見る。怒ったみたいな、でもどこか安心したような複雑な顔。うん、俺やっぱお前が好きだ。

「おう、望むところだ」



ニーナ(clap log)



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