銀時と妙


雪の降っている夜だった。

自分のものか相手のものかも分からぬ血をその上に落としながら、男は足を引きずり歩く。単独行動中の闇討ちはかろうじて返り討ちにしたが、それなりの傷を負ってしまっていた。こんな間抜け、あいつらにバカにされるな。強がって苦笑してみるも足に受けた傷が熱を帯びはじめ、痛みに意識が朦朧になっていく。見知らぬ家の塀に肩から凭れかかればどさりと鈍い音がした。ずるずるとそのまま腰を下ろすと冷たい雪が尻に当たる。

「…だあれ?」

星も月もない夜だった。
雪の白も自分の銀髪も黒く染まるような夜だった。
視界に映ったのは敵でも仲間でも、もういない恩師でもない。

「お侍さん、怪我をしてるの」

人形のように切りそろえられた前髪の下で、その少女の瞳だけがつよく輝いていた。



ーー




もう随分前からどこでも寝られるようになったと思っていた。冷たく硬い廊下でも、野外の木の根元でも、知らぬ町の路地裏だって、どこでも寝られると。しかし、違ったらしい。

(布団だと、うまく寝れない)

布団に横たわると何とも居心地が悪い。沈みきれずに浮上する意識がそばにいる誰かの気配を察知する。眠れないのなら眠らなければいい。俺はまぶたを開き、人の気配、まだ十にも満たぬような少女の姿を確かめた。どうかしている。知らない家に入り、手当てをされて、その家の布団で寝ているなんて。どうかしている。俺も、コイツも、この家の人間も。

「…嬢ちゃんよぉ」

せっせと俺の着物を畳む小さな生き物がぱっとこちらを見る。本当に日本人形みたいだな。さらさらのきれいなおかっぱ頭に整った顔立ちは器量の良さを思わせるが、どこか無機質な印象を与えた。常にたたえた微笑みすらも嘘くさい。俺が捻くれている証なのだろうか。

「父ちゃんと母ちゃんは?」
「ええと、いません」
「は?いま一人か?」
「いいえ、弟が寝ています」
「弟って…子供しかいねえのかよ」
「ええ、まあ」
「は、なんだそれ。このご時世に。知ってるか?いま、戦争中なの」

夜中に外に出て知らない人間を家にいれる子供と、そんな子供を残して出かける両親。楽観的なその家族に苛立ちを覚え、思わず皮肉をぶつける。

「はい」

しかしそれはすぐに後悔に変わった。

「知っています」

少女の真っ直ぐな瞳はきちんと理解しているものだった。世の中で何が起きているか。そのうえで彼女のそれはひどく澄んでいる。強い視線に一瞬息を飲み、苦しくなって目を逸らした。

「お侍さんは戦争に行ってるんですか?」
「…ああ、そうだよ」
「人を殺すのは、こわいですか」
「怖くねえよ」
「じゃあ殺されるのは?」
「怖くない」

嘘じゃなかった。これももう随分前から、というか恐怖していた時期があったかすら覚えていない。怖くなかった。殺すのも殺されるのも何も感じない。ただ仲間が死んでいくのは辛かった。しかし、今はもうそれすらも。

「知ってるか?人間の心がどこにあるか」

天井を見上げ、何気なく木目を追う。

「心?」
「うん」
「胸だと思います」
「なんで?」
「だって嬉しいことがあると温かくなるし、悲しいことがあると…」

少女の言葉が途中で途切れ、俺は横目で彼女を見る。虚空を見つめるような目が一度悲痛に歪み、俺の視線に気付いたのかはっとして慌てて苦笑した。

「痛く、なるから」
「…」
「間違えてますか?」
「いや、俺もそう思う。本当のことは、知らないけど。でもさ、」
「はい」
「心は凍らせたんだ、おれ」
「凍らせる?」
「そう。心は、心臓は凍らせることが出来んの」

覚えている。あの日、あの瞬間から、俺の心臓は凍ってしまった。

「そうすればもう何も感じない。すげぇラクだよ。人を切り裂く感覚も、生温い血の不快感も、殺す恐怖も殺される恐怖も、それから仲間の死の辛さも、なにも感じない。無駄な感情に動揺することもない」
「でも、…心臓が凍ったら、人は死んでしまいます」

少女の小さな手が胸で握られている。まるで自分の心を守るように。

「そうだよ」

俺は嘲るように笑った。

「死んでる。とっくの昔に、おれは死んでるんだ。身体が生きてるだけなんだよ。だから、おれは…」
「お侍さ…」
「やめろ。その呼び方」
「…っ」
「お前は人殺しの手当てをしてるんだよ。何がお侍さんだよ。笑えるっつうの。俺を助ければ死ぬ命が増えるだけだってーのによぉ」

こんな戦争なんになるんだ。命が減っていくだけなのに、その先に何を勝ち取り、そしてそれは失った命に値するものなのか。こんな人間が存在して何になる。おれはもう死んでいるというのに、どうして世界は続くのだろう。明日も明後日もその次も、うんざりするほど毎日は押し寄せてくる。戦争が終われば、おれは死ねるのか。いつになれば、おれは心と身体を一致させられる。もういい加減ラクにしてくれよ。
その時、ひゅうっと冷たい風が髪を揺らした。ふと見ると襖が開いていて、真っ暗な庭がその間から顔を覗かせている。隣で座っていたはずの少女は、いつの間にか俺の頭上に立ち、両手を水平に上げていた。次の瞬間、小さなその手のひらから何かが落とされる。顔に、首に、そして胸に、その何かは染み込んでいく。

「つ、めてっ…!」

雪だった。柔らかく冷たいそれは、やがて水になっていく。

「てめっ…何すんだよ!」

この状況を作り出した張本人を睨みつけると、彼女は布団に手をつき、座り込んでいた。うつむいて俺の顔を覗き込む。

「つ、…つめたい、でしょう!?」
「…」

縋るような目だった。赤くなった小さな鼻が泣きそうであることを知らせている。泣きそうなのに我慢している。こんな小さな子供が。

「雪は、冷たいでしょう?とても冷たいと、痛くなるでしょう?」
「何言って…」
「凍っていないからよ!」
「…」
「凍っていないし、死んでなんか…ないでしょ?しっかりしてよ…!そんなこと、言わないで…」
「お、い…」

俯いて俺を見下ろす小さな顔が、痛みに歪んでいた。黒髪のおかっぱ頭が俺の鼻に届いてしまいそうだった。

「戦争なんて終わるよ…いつか、ちゃんと、終わる。生きてるじゃないですか、あなた」

ぽたり、水滴がまた頬に落ちる。

「終わったら…ぜんぶ元通りになればいいのに」

だけど今度は冷たくなかった。冷たいどころか温かかった。落ちたのは少女の涙だったからだ。

「みんな帰ってきて元通りになればいいのに」

悲痛な叫びを聞いた俺は、胸に痛みを感じていた。心臓が、心が、痛いと泣いている。ああ、そうだ。雪は冷たいし、涙は温かい。おれは見苦しいほどにまだ生きている。

「死なないで、どうか」
「…」
「死のうとしないで…ください。おねがい。この戦争が終わったら、お侍さん、ちゃんとお布団で眠れるから」
「…っ」
「終わったら、ここで今度は美味しいもの食べさせてあげるから、だから…」
「…わかった」
「だから、死なないで」
「わかったよ」

ぼやけた視界に、彼女の顔が揺れる。無意識に手を伸ばし、その後頭部を引き寄せて額をくっつけていた。
いま、この世の中で、何も失くさずに生きることは難しい。それでも生き続けていくのなら、彼女が幸せに暮らしていける世の中になってほしい。彼女の失うものが、これからはもう一つもなくなってほしい。無責任な依怙贔屓を生まれて初めて願った。だって、死なないでくれ、なんて頼み事、初めてだったから。

(この戦争が終わったら、)

(どんな世界になるだろう)

想像もつかない、想像もしたくなかった未来に想いを馳せてみせる。明日からまた悲惨な毎日が始まるだろう。うんざりして投げ出したくなることもあるだろうし、まだ当分布団ではよく眠れないだろう。それでも、この心臓は熱く脈打ち血液を身体じゅうに送り続けているのだから。凍ってなどいないのだから。彼女の生きるこの世界で、せめて自分も生きていよう。泣き疲れて眠ってしまった子供に布団を譲り、明けきらぬ夜の街を後にする。せっかく手当てしてもらったのだからあまり動かしたくはないが、仕方なくゆっくりと仲間のいる場所へと、おれは歩き始めた。最後まで彼女の名も聞かず、自分の名も名乗らず、その屋敷の表札さえも見ないまま。それはまだ戦争の終わっていない時代の話だった。






ニーナ(2015/7/19)


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