パソコンを開くのは久しぶりだった。公式のホームページはあるけれど、個人のブログはないのでパソコンや携帯のネットを使うこともあまりない。意識せずとも自分の評価や噂をそこかしこで目撃してしまうため、妙には昔からインターネットを利用する習慣がなかった。久しぶりに開いた検索サイトのネットニュースには志村妙についての報道が載っている。『志村妙 熱愛に言及?』とのタイトルがあり、開いてみると映画の試写会での妙の姿が映し出されている。
記事を一通り読むとパソコンを閉じ、ソファから立ち上がった。昨日の事がすでにニュースになっているのね。というより、あの囲み取材の数時間後にはネットに上がっていたのだろう。紺色のカーテンを開けると、雲の隙間から光が差し込んでいた。さっきまで雨だったのにいつのまに止んだのだろう。白く薄い光が降り注いでいる。見下ろしても、今はもうあの街は見えない。夜にだけ開く、あの優しい店はこの部屋からはもう見えない。
百万馬力の晩ごはん
その日は、初めて声優を勤めたアニメ映画の試写会だった。スーツ姿の男性との写真が週刊誌に載ったばかりの週で、心なしか大人たちはピリピリとしている。報道陣たちには質問は映画関係のみと釘を刺されていたようだが、隙あらば聞き出そうと意気込んでいる様子が窺えた。妙はいつも通りの笑顔で映画のポスターの前に立つ。共演者と共に報道陣に囲まれ、いくつかの無難な質問をこなしていった。
「キャラクターとの共通点はありますか?」
「そうですね、頑固なところは似てるかなあ。でも思い立ったらすぐ行動ってところは私にはないですね」
「今回初めて声優に挑戦されたとのことですがいかがでしたか?」
「アニメに合わせて演じるのはすごく難しかったです。でも皆さんの演技を見習って、キャラクターに魂を込めるようにと思い切って演じました」
隙あらば。あわよくば。そう思っていたのは報道陣だけではない。妙自身、きっかけを探していた。この場所で話すしかないと思っていることがあった。取材も終盤だ。早く見つけないと。
「今回の映画は夢を追うという物語ですが、皆さんには何か夢がありますか?」
その質問を共演者たちが答えていくのを横目に、ここしかないと覚悟を決める。最後に妙の順番がやってきた。
「わたしは…」
マイクを向けられて目線を上げる。
「ありきたりかもしれないですが、感動を与えられるような女優になることです。5、6年ほど演技をさせてもらってるんですけど、恥ずかしながら本気でそう思うようになったのはここ最近なんです」
記者が微笑みながら相槌をうつ。彼の声が頭の中で蘇った。単純に感動した、ってそう言ってくれた素っ気ない声。誰かが自分を見て感動するなんてこと、役者をやっていながら考えた事もなかったのだ。そこで初めて、わたしは仕事に真摯ではなかったことに気づいた。ああ、わたしは今までずっと自分の安らぎのためだけに演技をしていたのだと。
「これからは、そういう人のために演技がしたいって思います。」
そしてここからが本番だ。気づかれないように息を吸って吐いた。
「それから、これもありきたりですけどお嫁さんはやっぱり憧れますね」
何気ないように言う。その一言に大人たちの目の色が変わった。記者たちはラッキーだと前のめりになり、関係者は取材を終わらせようと近づいてくる。そのどちらにも負けないように、妙はにっこり笑って次の言葉を続ける。
「レンジャーとかライダーとか、そういうヒーローのお嫁さんになりたいなって小さい頃思ってたんです。そう思っていたことも最近思い出して。わたし弟がいたからか戦隊ものが好きでなんですよ」
ふふ、と冗談っぽく笑うと同時に、これ以上取材を続けないように関係者たちが間に入った。
「そっ!それは…」
「はい!ありがとうございましたー!これにて終了させていただきます」
報道陣から守るように関係者は役者たちをはけさせる。スタッフにも共演者にも申し訳なく思いながら妙は笑顔のまま背筋を伸ばした。
案の定、ネットニュースには試写会での取材の内容とともに志村妙の熱愛を匂わせるような記事が載っていた。ニュースにもならないような発言。冗談で言ったことだ。しかし大きなスキャンダルもないこの時期に、週刊誌に載ったばかりのタレントのその言葉はネットニュースに載せるくらいの価値はあったのだろう。娯楽としての憶測。次のスキャンダルが出るまでのつなぎ。それでいい。きっとこれで週刊誌の記事の印象も薄れるだろう。
『〜との発言があり、戦隊ヒーロー出身の俳優と熱愛もしくはアピールをしているのではないかとの憶測がとんだ。また、今週男性と二人でタクシーに乗り込む写真が週刊誌に載ったが、事務所は友人の一人だとコメントしており真偽の程は定かではない。どちらにしても恋に目覚めた(?)清純派女優に目が離せない。』
まだ慣れない、新しい部屋の窓にもたれて景色を見る。ぶ厚い雲から差し込む光。あれ、なんていうんだっけ。天使のはしご?合ってるだろうか。むかしの人はきれいな名前をつけるものだ。自然と笑みがこぼれていた。がんばろう。今ならきっとどこへでも行ける気がしていた。背中についた羽を、今なら広げる事ができる気がしていた。
二年後、秋。
イベントは盛り上がっていた。様々な仮装をした人々の視線の先には野外ステージでトークをしているタレントの姿。女優の志村妙だ。彼女もまた魔女の仮装をしている。定番の黒い衣装にホウキにとんがり帽子。イベントを主催する菓子メーカーのCMで着ているものだ。イベントも終盤に差し掛かり、司会者がハロウィン限定のチョコレート商品の紹介をしているところだった。もちろん限定商品はパンプキン味。秋とはいえ、もうすぐ11月。布の薄い衣装でも寒さを感じさせないように妙は堂々と胸を張った。
(え…?)
そのとき。何気なく見た人の群れ。ちら、と銀色が光ったような気がした。それがいつか出会った人のものによく似ていて、妙は思わず目で追いかける。
「はい!では以上でトークイベント終了でーす!ありがとうございました!」
司会者の声に、はっとして笑顔を作り直す。最後に挨拶をして、人々に手を振った。不自然にならないようにさっきの銀色を探すも、見当たらない。妙はステージから降りた。急に鼓動が大きくなって、耳の中に心臓があるんじゃないかと思った。
(い、今の髪の毛って、)
(もしかして…)
違うかもしれない。だいたい髪の毛ですらないかもしれない。今日はハロウィンのイベントだ。仮装で銀髪のカツラをかぶる人だっているだろう。でも、止まらなかった。舞台袖で待っていたマネージャーの腕を掴む。
「お願いします!とっても会いたい人がいるの。会えるかもしれない。今、似てる人がいて…。お願い、追いかけさせて!」
頭を下げた。今日はもう仕事はないけれど、こんなに人が多い中飛び出したら騒ぎになるに決まってる。でも、お願い。会いたいの。自分から会いに行く決心はつかなかったのに、彼が近くにいるかもしれないと思ったらもう止まらなかった。会いたい。
ぎゅっと目をつむり、頭を下げ続けると、ふわり、肩に何かがかけられる。ゆっくり顔を上げると、いつものキビキビとした仕草で、マネージャー自身のコートを妙にかけていた。
「そんな格好じゃマズイでしょ。いろいろと」
ほら、腕通して。言われるままにコートに腕を通す。ファスナーを上まで上げて、魔女の衣装は瞬く間に隠された。とんがり帽子とホウキを奪って代わりにニット帽を被らせる。
「はい、行ってらっしゃい」
妙の肩を掴むとくるりとひっくり返す。ぽん、と背中を押した。こっちは何とかしておくから、と言いながら。
「い、いいんですか?」
「つべこべ言わずさっさと行く!」
「…っありがとう!」
前を向き、走り出した。スタッフの方たちに見つからないよう下を向きつつ早足で人を掻き分ける。
(どこ?)
魔女に小悪魔にと定番のハロウィン仮装から、アニメや芸人のコスプレまで様々な衣装の人たちが群がっている。みんなお祭りに夢中で、地味な妙の姿に注目する人はいない。今日は土曜日だから夕方でもこれだけの人が集まっているが、日が暮れたらもっと酷いだろう。
「あっ」
いた。顔は見えないけれど、銀色の髪の毛。すぐに近づける距離ではない。妙は見失わないよう、懸命に追った。
こんなに人混みの中に入るのっていつぶりだろう。こんなに走り回るのだって、いつぶりだろう。息が切れそう。汗が滲んでるのに、耳が冷たい。
「さ、かた…さんっ」
夢中で後を追って階段をのぼる途中、思わず声を出した。待って、置いてかないで。ねえ、わたし頑張っているよ。あの日から今日までずっと、自分の演技を探して奮闘してる。空回りになることも、独りよがりになることもあったけど、辞めることはしなかった。それが、どうしてかわかる?
「きゃっ…」
その時、死神のような格好をした集団にぶつかり、バランスが崩れた。うしろには、上がってきたばかりの階段があった。
(落ちる…っ!)
ねえ、どうしてかわかりますか。今日までずっと必死に頑張ってこれた理由。弟の支えがあったから。演技が好きだと気づいたから。たくさんの人に感動してもらいたいから。そして、あなたに見ていて欲しかったから。
落ちる瞬間は、景色がスローモーションのように感じた。このままでは階段に転げ落ちてしまう。身体が固まって動かない。覚悟してまぶたを固く閉じ、次の瞬間、ズサッという鈍い音が聞こえた。
(…あ、れ?)
痛みは、感じられなかった。一瞬の出来事だった。腕を引っ張られるような感覚。次に支えられるような感触。恐る恐る目を開くと、妙の身体の下に誰かがいた。
「あの…」
やっとのことで声を出すと、その人はこちらを見た、と思う。というのもその人もまた仮装をしており頭と顔がすべて覆われたマスクをしているので視線がどこにあるのかわからないのだ。
「あ、ありがとうございます」
放心したままお礼を言う。その衣装は赤いスーツの本格的なヒーローだった。
「あの、」
腕を掴む。あの銀髪の人は見失ってしまった。ここまで追いかけたのに。だけど、そんなことはもう頭から飛んでしまっていた。どうしてそう思ったのだろう。自分でもよくわからない。
「さ、坂田、さん…?」
倒れ込んだ男女を見る人は多いけれど話しかけてくる人はいない。目の前のその人からくぐもった笑い声が聞こえた。
「何でわかんの?」
ヒーローから聞こえるその声は、紛れもなくあの人だった。さっきまで銀色の髪の毛を追っていたのに、それをあなただと思って追っていたのに。
「なんでそんな格好…」
「だって今日ハロウィンだし」
「そ、それにしては立派すぎませんか」
「仕事で行ったヒーローショーで借りたんだよ」
「ヒーローショーって…」
「つか依頼してきたのはそっちだろ?」
依頼。そうだ、わたしは彼に依頼をした。本当に『何でも屋』を始めた彼に。たまたま通りかかったあの店の上の部屋。大きく掲げられた何でも屋の看病は、引っ越し前にはなかった。だから調べて、匿名でメールをしたのだ。『助けてヒーロー!お腹がすいたわ!』そんな馬鹿げたメールを。イタズラだときっと受け流されるだろうと思いながら。
「ヒーローはヒロインのピンチに駆けつけるってお約束なの」
にやり、マスクの下で笑ったような気がした。なんだか負けた気分になり、でも嬉しくて、妙は彼の首に腕を回して抱きついた。で、なにがお望みですか?そう聞く彼に即座に答える。
「お登勢さんの料理が食べたい」
「そっちかよ」
笑いを含んだ声で彼が言った次の瞬間、妙の身体は宙に浮いていた。
「ひゃっ」
「かお、上げるなよ。ばれるから」
それを聞き、思わず上げそうになった顔を慌てて彼の首筋に埋める。今日がハロウィンで良かった。お祭り騒ぎの街では、コスプレヒーローにお姫様抱っこされた姿は普段の街より目立たない。もちろん冷やかす声は聞こえて来るが懸命に顔を伏せて耐え続けた。
「ほい、これ被って」
やっと降ろされたかと思えばバイクの後ろのシートに乗せられる。手渡されたのはフルフェイスのヘルメット。これでまた顔を隠せってことか。
「しっかりつかまれよ」
ぎゅっと腰に捕まると、バイクは大きな音を立てて走り出した。今のこの状況をまだ信じられなくて、まるで夢でも見ているみたいだと思った。ちょうど暗くなりはじめる仮装パーティーの街は浮世離れしていたせいかもしれない。妙はヘルメット越しに空を見上げた。
ーー
ー
「どうしたんだよ」
「いや…あの、やっぱり、開店にはまだ早いんじゃ…」
「大丈夫だって。いなかったら中で待ってればいいだろ」
「でも、」
「いいから早く」
ヘルメットをかぶったままの格好で、妙は今あの店の前に立っている。戸に手をかけたとき、自分が緊張していることに気づいた。あれから二年もたってしまった。彼女はわたしのことを覚えてるだろうか。身体は悪くしてないだろうか。わたしは、ちゃんと成長しているのだろうか。失望されないだろうか。ぐるぐると心配事が頭の中を占領していくのに、いつの間にか戸を引いていたようだ。ガラガラと拍子抜けするほどそれは軽い音を立てていた。
「いらっしゃい」
先ほどまでのネガティブな考えは一気に消え去っていく。登勢は、あの時とまったく変わらない姿で笑っていた。そして、
(なんで、これ…)
カウンターにはたくさんの料理が置かれていた。まるでパーティでも始まるみたい。
「あんたらいつまでそんな格好で突っ立ってるんだい?早いとこ席つきな」
「お登勢さん…」
「あんた随分遅かったじゃないか。親子丼と豚汁食い逃げされたかと思ったよ」
ヘルメットとその下のニット帽を外すと髪の毛が顔にまとわりついた。じれったく耳にかける。
「な、なんですか。この料理…」
「そこの男が死ぬほど料理用意しとけっていうからさ」
ばっと坂田のほうを振り返るとなおも顔がマスクに覆われていた。
「だって、腹が減ったって依頼したじゃん」
また料理に視線を戻す。きんぴらごぼうにポテトサラダに唐揚げに鯖の味噌煮にブリ大根に揚げ出し豆腐まで。それから白ご飯とお味噌汁が一人分、いつもの妙の席に置かれている。ふふ、と笑い声が漏れた。
「こんなにたくさん食べきれないですよ」
「そりゃあ困るね」
「じゃあ今日は他のお客さんも、わたしの奢りです。もうすぐ常連さんたち来るでしょ?」
「好きにしな。あんたの料理だからね」
「お登勢さん」
「なんだい」
「ありがとう」
「うん」
ふわりとした笑みを妙にやった登勢は、さてと、と呟いてカウンター内から出てきた。
「二人とも。あたしちょっと出るから店番頼むよ」
「え?」
「どこ行くんだよババア」
「早くから料理作らされて疲れてんだよ。常連もまだ来ないだろうし一服してくる。すぐ帰るからさ。よろしく頼むよ」
「あ、おいっ」
坂田の声をひらひらとかわして登勢は本当に店を出て行ってしまった。急に静かになった店内で、とりあえず妙はコートを脱ぐ。何その格好。と坂田が魔女の姿を目の当たりにして言った。
「お菓子メーカーのイベントだったんですよ」
不思議な気分だ。わたしは芸能人で、この人は一般人で、そのことを知っていて、そして二年ぶりの再会だ。事実を羅列しただけなのに、とても不思議な気持ちになる。この二年間、わたしはちゃんと頑張っていただろうか。二年前のスキャンダルの時期を思い出した。思惑通り、他のニュースが出るとすぐに忘れ去られた些細なスキャンダル。あのとき、わたしは。
「本当に何でも屋さん始めたんですね」
「うん」
「儲かりますか?」
「んなわけないだろ。赤字も赤字。でも過労死するよりマシだわ」
「ヒーローショーの助っ人までするの?」
「しますとも。何でも屋だからね。っつっても悪役ばっかだけど」
「あら、じゃあこれは?」
「だから借りただけ」
「わたしがヒーローって依頼したから?」
「そうですよ、お客様」
「ねえ、坂田さん」
「ん?」
「スキャンダルが出たとき、わたしね、囲み取材でヒーローのお嫁さんになりたいって言ったんですよ」
あの時のことを思い出しながら、ふふっと笑いを零した。わたしは一体何を言いたいんだろう。
「知ってる」
はあっと大きなため息をつき、彼はやっと衣装の頭部を外して横の席に置いた。ああ、やっと顔が見れる。蒸れた頭に風を送るようにくしゃくしゃとかき混ぜていた。しかしその手がだんだん乱暴になり、最後には髪の毛をむしりそうな勢いだった。
「あの、ちょっと、坂田さん?」
声をかけると頭を抱えるみたいな姿勢で、彼のかきむしるような動作が止まった。
「…あのさァ、」
「はい」
「あんまり一般人のおじさんをからかうのもやめてもらえる?」
「は?」
あまりに弱々しい声に思わず彼の顔をのぞき見る。
「二年もずっと悩んでんだけど」
拗ねたような、文句でも言いたそうなそんな目。でも、その瞳がすべてを語っていた。じくりと締め付けられるような感覚が胸に生まれる。
(ああ、)
いつからなんだろう。街の雑踏で彼がわたしを見つけてくれたとき?それとも初めて出会ったとき?もしかしたら彼が海でわたしの撮影を見たときかもしれない。
(わたし)
いつからかわからない。だけど少なくともこの二年間、妙の中のヒーローは坂田だった。何かピンチがあったときでもきっと彼が助けてくれる。そんなふうに勝手に頼りにして、でもだから今まで以上に思い切って仕事が出来た。様々なことに挑戦出来た。投げ出さずに続けて来れた。
(このひとが好きだ)
いま、この瞬間、この人の視界にはわたししか写っていない。いま、わたしの存在は彼の前でだけ在る。今だけは、わたしはわたしに戻れる。そんなことを思った。芸能人ではない、ドラマの主役でもない、世界にただ一人の志村妙に。
「なあ、」
頭を抱えていた彼の手が、急に外されてまともに目が合った。何か思い出したような顔だ。あのさ、と彼は微笑みながら優しく呼びかける。
「見てたよ、ずっと」
「え?」
「お姉さん頑張ってた。ちゃんと」
妙は目を瞠った。不意打ちの言葉だった。たくさんのことが思い出される。二年の間のこと。辛いことも嬉しいこともごちゃまぜに蘇る。そうして次にここで過ごした短い日々のことが思い浮かんだ。あの日々は、とても大切な時間だったのだ。
「大丈夫だよ。偽物なんかじゃない。お前は本物だ」
それを聞いたとき、妙の瞳からは涙があふれていた。頬を伝い、顎を伝い、ぽたぽたと膝へ落ちる。空気を吸うたびにしゃくりあげるような息が漏れた。綺麗な涙ではなかった。上手な涙ではなかった。でも、ただ、自分のためだけの涙だった。
「おかえり」
坂田の声に、嗚咽を抑え、泣き笑いになりながら返す。
「ただいま」
「あと、おめでとう」
「へ…なにが」
坂田が握りしめた右手を妙の顔の前に差し出す。ぽんっと手を広げると花が出てきた。手品で良く見る、あのちゃちな造花だ。
「誕生日」
ぱちぱちと濡れた瞳で瞬きをして、妙は今日がハロウィン当日、つまりは自分の誕生日であることを思い出した。もちろん弟やマネージャーやスタッフから祝いの言葉をもらったし、ファンからもメッセージや手紙をもらっていた。でも、今までの目まぐるしい出来事で頭の中から吹き飛んでいたのだ。
「あなた、魔法使い?」
いいや、と苦笑しながら坂田が花を差し出す。
「ヒーローのほうがいいんだけど」
その一言に、妙は笑った。彼の右手が差し出す造花を受け取る。今までもらったどんな花束よりも嬉しいと、そう思った。あーあ、と脱力して目の前の料理に視線を移す。
「久しぶりに走って泣いてってしてたらお腹すいちゃった」
「ムードぶっこわすね、おねーさん」
「ヒーローですよ」
「え?」
「坂田さんは魔法使いじゃなくてヒーローです。わたしだけのね」
え、今のどういう意味。と彼が言うのを無視してパチンと両手を合わせた。
「いただきまぁす」
登勢や常連客が来るのを待てずに妙はご馳走に箸をつける。その言葉は、もう孤独を連れてこない。やさしい味の懐かしいご飯は、妙に安心を与えるのだった。きっと明日も頑張れる。味噌汁を飲み下しながら、そう思った。
ニーナ(2015/3/20)
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