たとえば、ピカピカに磨かれた透明のガラス板に四方を囲まれているイメージ。わたしは、空も海も街も人も自分も遠くて途方に暮れている。前後と右左をぴったり囲んだガラスはじりじりと狭まり、私のスペースを奪っていく。このままでは押しつぶされてしまうというのに、わたしは笑い続ける。だってそう台本に書いてあるのだから。きっとそのうちぺしゃんこになってしまうのに呑気に立ち尽くす。だって外はこわいから。外に出なくても全て見えるから。それならここにいても問題ないじゃない。ああ、そうか。手が届かないんじゃなくて、わたしは手を伸ばそうともしていないんだ。あのガラスは、すぐに割れるほど薄く、容易く登れるほど低いというのに。

わたしを閉じ込め続けていたのは、わたし以外にいるわけない。





最後の夜の豚汁





その写真を見たとき自分が写されたものだとは、すぐに認識できなかった。夜の繁華街でスーツの男性がタクシーに乗り込もうとドアに手をかけている。よくよく見れば、その車には既に女性が座っていた。真正面からではないので見えにくいが、確かに妙の姿だ。あの日の、銀時と妙だった。背中に嫌な汗が伝う感覚がした。

「…これ」

目の前に座るマネージャーのただならぬ雰囲気に状況が良くないことを悟った。どういうことなの。静かな声がかけられる。

「今日、送られてきたのよ。来週載るわ」
「そんな…」
「どういうことなの」

もう一度尋ねる。じっと目を見据えられて妙は思わず目を伏せた。

「付き合ってるの?この人と」
「ち、違います!」
「本当のことを言って」
「本当です!付き合ってません」

何故、よりによって彼と一緒の姿を撮られたのだろう。ばかだ。あんなに人通りの多いところで、誰か見ててもおかしくないじゃない。いつも他人の目を気にしていたくせに、あの時は、

「絶対に、ありません」

あの人しか見えなかったから。

「この人は…よく行くお店の常連さんで、この日たまたま困ってるところを助けてもらっただけなんです。送ってもらっただけなんです」

彼以外なにも見えなかったから。

(だけどそれって)

「…本当に、なんでもないの」

(まるで恋でもしてるみたい)

そんなわけ、ないじゃない。一瞬浮かんだ馬鹿な思い付きを打ち消す。妙はマネージャーの目を見つめて真剣に伝えた。沈黙の間も、一度も彼女の目を逸らさなかった。

「…わかった」

しばらくして、ふう、と彼女が息をついた。写真に目をやる。男の顔はうつむき加減で、しかも目元には黒い線が引かれているため特定される事はないだろう。しかし、あの日の彼の同僚達ならわかってしまうかもしれない。

「初めてのスキャンダルだから少し覚悟はしないといけないかもしれないけど、何もないなら堂々としていればいいわ」
「…はい」
「週刊誌が出たら事務所のホームページからコメント出すから」
「はい」
「まあ、見失ったのか知らないけど後を付けられてなくてよかったわ」

申し訳なかった。自分の軽率さでたくさんの人に迷惑をかけてしまう。マネージャーにも会社にも、そしてあの人にも。

「妙」

いつの間にか唇を噛み締めていた。かけられた声に妙は目を上げる。

「大丈夫だから」
「…え?」
「そんなに心配しなくても大丈夫」

写真を封筒に仕舞った。それを持って彼女が席を立つ。

「あなたの事はちゃんと守る。少しくらいスキャンダルがある方が女優としても前進するはずよ。…ねえ、妙。あなたって昔からもの分かりのいい子だった。精神力が強くて責任感もあって真面目で優しい。だけど、」

ぽん、と肩に手を置かれた。

「少し自分を責めすぎる。それからあまり弱音を吐かないのも良くない」
「で、も…」
「そんなんじゃ、いつかダメになるわ」
「…すみません」
「謝らないでいいの。その代わり今後十分注意すること」
「はい。ありがとう、ございます」

よし、と笑って肩から手を離した。その笑顔はいつも私に安心を与える。今までどれだけこの人に助けてもらっただろう。芸能界に入った頃から面倒を見てもらっている。ドアノブに手をかけて部屋を出ようとする彼女が一度振り向いた。あ、それから、と。

「もしも本気で好い人が出来たら報告すること。できるだけ応援するから」

その言葉に、妙は返事も出来ずに閉まるドアを見ていた。後悔や自責の念はもちろんあるが、少し心が軽くなった。力を抜いて椅子の背に持たれる。そうは言ってもケジメはつけなければいけない。目をつむって天井を仰いだ。

今日、久しぶりに登勢の店に行こう。



ーー



「遅くにすみません。まだいいですか?」
「久しぶりだねぇ。いらっしゃい」

妙が仕事を終えて店を覗いた頃、他の客はすでに誰もいなかった。登勢の声を受け、いつものカウンター席に座る。出された熱いおしぼりで手を拭いた。

「何にする?」
「ええと、親子丼とそれから豚汁、ありますか?」
「ちょっと待ってな」
「はい。あの、お登勢さん、わたし」
「何だい?」

早めに言ってしまいたかった。このままいつも通り過ごせば言えなくなる気がしていたからだ。はやく楽になりたいという、自分勝手な甘えが生まれる。

「わたし…明日引っ越す事になって。今までみたいに来れなくなったんです。」

決めた事だった。怪しまれる可能性が残るなら、この場所にはいるべきでは無い。食器を取り出すために背を向けていた登勢が振り向き、驚いた様子で口を開く。

「また急じゃないか」
「ええ、お世話になりました。さみしくなります」
「いや、あたしは何もしてないけど」
「そんな事ないです」

ふるふると頭を振った。この場所が妙にとってどれほど安らぐものだったか彼女は知らないのだ。

「あの日、お登勢さんが声をかけてくれたあの日、何だかすごく疲れてたんです。前までは疲れた時も弟が家にいるって思えば気が楽だったんですけど、情けないことに一人になると寂しくって疲れも倍になってるような気がして」

伝えたかった。あなたがどれだけわたしを救ったか。

「でも、あの日お登勢さんがお惣菜を分けてくれて、他の誰でもないわたしに分けてくれて、その上すっごく美味しくて。ほんとうに嬉しかったんですよ、わたし」
「そんな大層なことはしてないよ。あれだって残りすぎて困ってたんだから」

彼女は少し淋しそうに笑った。笑うと目元のしわが深くなる。料理を出す手にもしわがある。しみも傷の痕もある。そういう生きた証が妙は好きだった。ちゃんと生きてきたという、それは証拠だ。

「ごちそうさまでした。今まで、たくさん。ほんとにおいしかった」
「馬鹿だね、改まって…。ほんのすこしの間じゃないか。それに、その言葉は今日の晩飯食べてから言いな」
「…そうですね」

それから登勢と取り止めもない世間話を続けた。その時間が妙にはとても大切だった。お待たせ。しばらくして親子丼と豚汁が妙の目の前に置かれる。鶏も卵もつやつや光ってとてもきれいだ。いただきます、と言って箸をとった。まずは豚汁に口をつければ、生姜が効いていて温かさが体中に染みる。

「また暇があれば来るといいよ。銀時ともいいコンビだったし」
「そうかしら。でも絶対にまた来ます。忙しくなるから、すぐには難しいけど」
「ああ、待ってるよ」
「あの…」
「ん?」
「坂田さんは今日はもう帰られました?」
「いや、今日はまだ来てないね。最近は残業が多いとかって帰りも遅いみたいだけど…」

登勢が何気なく扉のほうへ目をやった時、図ったようにそれは開いた。

「まだやってんのか?何か作って…って、ああ…」

銀時だった。
疲れているのだろう。目の下に少しくまができている。

「…こんばんは」
「コンバンハ」
「この子と同じのでいいかい?」
「ああ、頼まァ」

彼もまたいつもの席ににどかっと座る。

「そろそろ転職なさったほうがいいんじゃないんですか」
「いや、マジで」
「過労死しますよ」
「いや、ホント」

ネクタイをゆるめながら大袈裟なため息を吐いた。そこから会社の愚痴を話す彼はかなり饒舌だ。あれ以来会っていないというのに、先日の話は出してこない。配慮してくれているのかもしれなかった。登勢と銀時の掛け合いを見るのもこれが最後だ。最後かどうかはわからないが、確実に今までみたいに二人を見て笑うことは出来ないだろう。しばらくして妙と同じメニューが銀時の前に出される。もう店じまいらしく登勢はのれんを外すために店先へ出た。

「坂田さん」

この人ほんとうに美味しそうに食べる。そんなふうに妙は思った。

「ん?」

わたしはその姿を見るのが、たぶん好きだったと思う。

「お話があるんです」

変な空気になってしまわないよう、自然に言ったつもりなのに、何故か声が低くなった。登勢が店の中に戻り、割烹着をはずす。自然な動作だった。

「銀時ィ。あたしゃ先寝るから戸締りよろしくね」
「あ?…おう」
「え、もう戻られるんですか?」
「ああ、もう年寄りは寝る時間だ。どうせいるのは客というより身内だし」
「遅くまですみません。お勘定さきに払いますね」

かばんに伸ばそうとした妙の手を登勢が制する。

「次、来たときでいいから」

静かに言って、登勢は妙の手を撫でた。妙は何も言えずにいた。じゃあね、おやすみ。と笑い、彼女は店を出る。がらがら。扉が閉まってから気づいた。わたし、ごちそうさまも言い忘れてる。だってまだ食べ終わってないもの。妙は自分の食事に視線を戻した。半分以上、それは残っていた。

「…で?なに、話って」

はっとして振り向くと、いつの間にか食べ終えていた銀時がつまようじに手を伸ばしていた。ちょっと食べる速度が速すぎやしないだろうか。妙は豚汁を持ち上げた。具だくさんだ。豚肉と豆腐と大根と人参とゴボウとあとこんにゃく。それから生姜。ひと口すする。おいしいなあ、と思った。参ったな。おいしいものというのは、誰かが自分のために作ってくれたものというのは、身体に染み込んで骨も肉も心も柔らかく解きほぐす。弟のおいしいご飯があるときは、そんなことに気づきもしなかった。妙はそっと口を開く。

「この間は、ありがとうございました」

またなくしてしまうのか。また出会えるかな。そんなご飯に。カウンターの席って結構便利だ。顔を見ないで話ができるのだから。

「ああ、うん」
「わたし、言ったじゃないですか。子供の頃に始めたことが今の仕事になってるって」
「うん」

ひとつ息を吸う。彼は何て言うだろう。

「仕事、芸能関係なんです、一応」

部屋にテレビもなかったからこれからもわたしを見ることはないかもしれない。それでいい。ああ、そういえばこの子昔近くに住んでたなって、もし何かで見かけたらそう思うかもしれない。それでいいの。

「一応、ね。ドラマとかCMとか出てるんですよ。すごいでしょ?」

わざと明るい声が出てしまう。はぐらかしたいけど、わたしは謝らないといけなかった。

「それでね。…それで…」

この人に謝らないといけない。
わたしのせいで迷惑をかけてしまうこと。面倒なことになってしまったら、許してくれないかもしれない。妙は箸を握りしめた。

「どうした?」
「…ごめんなさい」
「なんだよ」
「写真をね、撮られたの。マヌケですよね。あんな大通りでドレスなんか着て、目立つに決まってるのに」
「って…あの時か?」
「そうです。本当にごめんなさい。週刊誌に坂田さんの姿も載ってしまうの。顔はあまり写ってないし、本人特定は難しいと思うけど、あの時一緒にいた方々には気づかれてしまうかもしれません。巻き込んだりして、本当にすみません。万が一嫌がらせとかイタズラとかあれば言ってください」
「俺は別に…つかお前は大丈夫なの」
「ええ、まったく問題ないです。事務所も対応してくれるし。それに、」

この人は、すぐにわたしを忘れるだろうか。わたしはどうだろう。すぐに、忘れるのだろうか。

「それに、もう引越すので」
「…は?」

銀時は思わず妙の方へ顔を向けた。

「なに、それ。写真のせい?」
「写真のせいっていうか、また撮られたら面倒ですから。でもそれ以外にも理由はあるんですよ。弟は出てった訳だし、もう少し手狭で事務所近くに越したいって思ってたところだし。あとちょっと変な人に住所知られたみたいで、このままだとなんか気持ち悪いし。だから…」

この人の、減らず口とか気だるげな目とかたぶんすぐに忘れるんだろうな。

「だから…今までありがとうございました。迷惑かけて、ごめんなさい」

白いみたいで少し銀色の珍しい髪の毛も、それに触れてみたいと少しだけ思ったことも、きっとすぐに忘れるんだろう。妙は彼から目をそらした。沈黙が苦しいと思ったのは久しぶりだった。
俺さ。しばらくして銀時がやっと口を開く。彼もまた視線を戻したのを横目で感じた。

「おれ、お姉さんのこと見たことあるよ」
「…え?」
「一年くらい前。兵庫の方の海で」

妙はまた彼の方を見た。銀時は今度は視線をくれなかった。内ポケットからタバコを出して、火をつける。見たことがある。一年前に。なにそれ。そんな話、だって一度もしなかった。頭が付いていかない。唖然とする妙をよそに銀時は構わず続けた。

「出張先が関西だったっつったじゃん?そん時も営業でフラフラでさ、さみーし腹減ったしボロボロだったわけよ。海の近い街で、坂を下ってたら何人か人が見えてさ。何となく見てたら、カメラとか機材とか色々あって撮影らしいってのが分かったんだ。何かわかんねぇけどちょっとした人だかりもあったし、華やかな世界の人間がいるんだろうなって思ったんだよ」

(なんで…)

「そん中に女優かタレントか知らねえけど、ベンチコートみたいなやつ着てる女の子がいて、周りは騒ついてたけど俺は知らなかった。何せ忙しかったからさ、たぶん見たことはあるんだろうが頭の中にその子の情報は一つもなかった。実際に見ても、あーいいな、可愛いな、それだけで人生楽しいんだろうなって思うくらいだったよ。」

(なんで)

「でも、いざ撮影が始まる事になって、その子がコートを脱いだらノースリーブのワンピースだったんだ。1月か2月の夕方だぜ?しかも裸足で浅瀬に入ってた。ちょうど夕日が水平線に落ちる綺麗な場面だったけどさ、俺マジで馬鹿じゃねえのって思ったんだよ。そいつ、さっきまで寒そうにしてたってのに撮影に入ったらまるで冷気なんか感じてないみたいに笑ってたんだ。海の冷たさも、今が真冬だって事も打ち消すみたいに」

(わたしのこと知ってたの?)

「演技するってことはそういう事なんだろうけど、なんか普通にびっくりしてさ。なんつーの。なんか、本気でやってんだって思った。演技の上手い下手はわかんねぇけど馬鹿みたいに本気で命がけで演じてるんだって思ったら、すげえなコイツって、単純に感動した」

確かに、一年前海で撮影をした。春用のCMのものだった。春だって海なんか入らないけど、そんな理屈はあまり重要ではない。季節や温度を我慢するなんて当たり前だ。だって、演技なんだもの。冬を、春みたいに演じるのが仕事だったんだもの。
ねえ、見ていたの?出会ってたの?もう、一年も前に?そんなの知らない。わたしが彼に、一瞬でも感動を与えることが出来たというの。

「それが、あんただった」
「…なんで…」
「何が」
「ずっと…知らないふり、してたんですか?」
「別に知らないなんて言ってないだろ」

得意げに笑みをこぼした。屁理屈だ、そんなの。わたしは馬鹿みたいに必死で隠していたのよ。言わなかったのは、初めて会った時にわたしの気持ちを汲み取ったのかもしれない。
坂田はタバコの灰を、トンと落とした。

「見てるから」

身体が、胸が、熱かった。生姜が効いているのかもしれない。

「ちゃんと見てるから」

目が、心が、熱かった。銀時の声が優しく響く。

「頑張ってんの知ってるから」

妙は、また何も言えずにいた。手元を見る。今日もやさしいご飯がそこにあった。

「…坂田さん」
「ん?」
「ありがとう」

大丈夫だと思った。不安が薄れてゆく。この味と、今の言葉を胸に自分は進んで行ける。そう思った。

「今度は演技だけで感動させてみますから」

タバコの煙を吐き出す。返事はなくても彼が笑っていることを妙は感じとることが出来た。

その日はふたり、会話も少ないまま夜は過ぎて行った。


ニーナ(2015/3/6)



もどる
TOP
















×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -