女の子が背中についた羽を広げようとしている。明け方のような薄い光の中、その横顔は希望に満ちていた。『きみはどこへでも行ける』明朝体で書かれたキャッチコピー。大学のポスターだ。ぼうっと眺めながら正面のカフェでココアをすする。視線をドラッグストアに移せばアイシャドウの宣伝ポスターに自分の顔があって、隣の席にいた人の開く雑誌に自分のインタビュー記事があった。あのインタビューではどんなことを聞かれただろう。どんなふうに答えただろう。すでに思い出すことができない。きっとどこかで言ったようなことを似たような笑顔でこたえている。わたしはどこにも行けないな。そう思った。ココアの上に乗ってる生クリームをぐるぐる混ぜる。アイシャドウを綺麗に乗せたあの私に、雑誌の中で微笑むあの私に、言われてる気がする。あなたはどこにも行けないよ。本気で生きることをしないのだから。守られていたいくせに窮屈だと嘆く諦め半分の人生。そんな卑怯な人間に翼なんて与えられるわけがないじゃない。

そうだね。

わたしはどこへも、行けない。




インスタントのお茶漬け




きらびやかなパーティは夜遅くまで続いていた。今までいくつものヒットを生み出し、ドラマ化や映画化も多くされてきた小説家の先生の還暦祝いだ。妙は昨年ドラマ化された作品に出演し、今夜のパーティに招待されたが大物の人が多くて気が引ける。化粧室から出るとひとつ小さなため息をついた。

(あー、今日も食べそこねたなあ)

近頃、収録が長引いたり、打ち合わせがあったりとなかなか登勢の店に行けていなかった。仕事も忙しく時間に余裕がない。お弁当も他の店の料理も美味しいけれど、仕事の気が抜けない為に味わうことだとか、くつろぐことだとかがうまく出来ずに疲れは溜まる。

「疲れてないかい?」

化粧室の前の廊下で声をかけられ、伏せていた視線を上げる。咄嗟に笑顔を作った。

「ええ、楽しんでます」
「それはよかった」

四十代ほどのその人はたしか、ドラマの脚本家だ。一緒に仕事をしたことはないが有名なので名前は知っている。今日はマネージャーがいない為、失礼な対応をしないかどうか心配だが今のところ大丈夫だろう。

「いやあ、うれしいな。僕会ってみたかったんだ、志村妙さん」

彼は妙の肩を舐めるように見て、にっこり笑う。悪寒がしたのは気のせいだろうか。たぶん、気のせいではないけれど、気が合わない人なんていくらでもいる。いちいち嫌悪感を示したり予防線を張ったりしてはキリがない。妙もまたにっこり笑った。

「ありがとうございます。私もです」
「本当?嬉しいなあ」

赤い目尻を下げて何気なく手を重ねる。妙は笑顔を続けるが、わかりやすく鳥肌がたった。

「よかったらさ、」

据わった目。油っぽい肌。酒臭い息。意識し出してしまうとすべてに身体は拒否反応を示す。

「このあと二人でどこかへ行かないかい?」
「え、」
「ほら、仕事のことも色々話したいし。このあいだの映画の感想も伝えたいんだ」
「いや、ちょっと…」
「本当にファンなんだよ。君には期待しててね。別に何もないんだよ?」

下心はない、仕事の話なんだからそんなこと思うほうがいやらしいのだと訴えるような言い方。知らないうちに妙の顔はこわばり、身体も後ろへ引いていた。ね、だからそんなに警戒しないで。そう言いたげな目。

「…すみません、わたしこれから用事があって」
「これから?もう夜だけど」
「マネージャーに呼び出されてるんで」
「僕がうまく言ってあげる」
「でも」
「来年のドラマ、主役したくない?」
「…は?」
「僕が指名したらすぐに決まると思うけどなあ。今が大事な時期でしょ?仕事が減っていくか、それとも増えていくか。これからの芸能生活を左右するものは才能の他にもあるでしょ。何なら知り合いの監督の映画、口利きしてあげてもいいし」
「それって…」

枕営業しろってこと?彼はにやりと笑う。そんなことって本当にあるんだ。きもちわるいとは思うが、どこか他人事のように感じる自分がいた。

「みんな通る道なんだよ。決めるのは君だけど、悪い話じゃないと思うなあ」
「いえ、わたし」
「ああ、じゃあ送るよ。僕、君の家知ってるんだ」
「…え?」
「知り合いの作家がね、君と同じマンションなんだ。だから道はよくわかるからさ、安心して」

うわ、それは、すごく嫌だな。そう思った。もしも家で待ち伏せなんかされたら。噂がたってしまったら。握られたままの手にも、嫌悪しか感じない。それでも妙の顔は笑みを作ろうとしている。うまく出来ずに頬がひくりと震えた。

「すみません。わたし、事務所へ行くので」

今度はハッキリと告げる。はやく終わらせたい。これ以上一緒にいては自分が何を言い出すかわからなかった。握られた手を外し一礼する。背を向けて会場の方向へ歩き出した。頑なに受け入れない姿勢に、男は大きくため息をついた。

「君さあ」

馬鹿にした笑みを含んだような声だ。

「もうこの仕事以外は出来ないってわかってるのぉ?」
「…は?」
「小さな妬みや失敗やマンネリで栄光は容易く壊れるものだよ。今はいいかもしれないけど、ねぇ…そのまま鈍感なままで続けられると思う?どんどん新しい人間は出てくるんだよ」

一瞬、めまいがした。男の声は妙に吐き気を与える。

「この場所を失ったら君は何もない。今さら他の仕事だって、顔が知れてるわけだし、なかなか難しいだろうねえ。今の立場だってね、君一人の実力で与えられてると本気で思うかい?」

ふらふらとおぼつかない足取りで妙に近づき、その姿を追い越していく。最後に、ふん、と鼻で笑った。

「どうせ君には何もないんだ。媚びを売ることくらい、覚えたほうがいい」

会場のドアが開き、閉じる。

(そんなこと、)

もう帰ろう。妙はそう思った。パーティに戻る気力はなかった。帰る旨を伝えるため、受付に向かう。

「すみません、少し気分が悪くなったので、申し訳ないですが帰らせていただきます。先生によろしくお伝えください。」
「かしこまりました。大丈夫ですか?」
「ええ、ありがとうございます」
「顔色がよろしくないようです。今タクシーを呼びますね」
「いえ、」

(そんなこと、わかってる)

「大丈夫です。本日はありがとうございました」

頭を下げるとまためまいがした。一刻も早くこの場所から出たい。受付横の鏡に自分の姿が映る。細い身体が纏うのは黒いドレスにファーコート。絵にはなるけれど、虚しさだけが胸にのこった。わたしは傷ついたのだろうか。触られた事とか、誘われた事とか、侮辱された事とか、そんなことはどうでもいい。知らないうちに雨が降っていたらしい。大通りで止めたタクシーに乗り込んだ。

”どうせ君には”

雨が窓を打つ。暗闇に写った顔には表情が見えない。心が疲弊していた。

”何もないんだ”

目がまわる。この女の人は誰だろう。何を思っているのだろう。あんな男の言葉で調子を崩してしまうのが本当に嫌だった。だけど止まらなかった。自分でこの道を選んだというのに。
ぼうっと街を眺めると、流れるように人々が笑ってる。どうしてその中にわたしはいないのだろう。信号待ちでサラリーマンの集団が目に付いた。楽しそうに盛り上がって、次の飲み屋でも考えているようだ。中には女性もいて、酔っているのか男性の腕にしがみついて歩いている。(ああ、)すぐにわかった。(何でいるの)はねた白い髪の毛。よく着ているダークグレーのスーツ。破棄のない笑顔。猫背ぎみの姿勢。ダメだった。見つけてしまったら、もう、ダメだった。何でいるの。気づいた時には妙はタクシーを降りていた。

「坂田さん」

届くわけない。妙のいる場所から大きな車道を隔てて向こう側の歩道に彼はいるのだから。雨がまぶたに落ちる。さかたさん。もう一度呼んでみる。車が遮る。雨が降る。人が笑う。こんなところでわたしの声なんか届くはずがない。

「たすけて」

気づかないで、気づかないで、気づかないで。ねえ、おねがい、気づいて。矛盾した自分の心が滑稽だった。雨粒が見えるくらいに時がゆっくりと過ぎる。遠くにある白い頭がこちらを振り向いた。気づいた銀時は驚いたように目を見開き、妙の姿を捉えている。彼女の顔は泣き笑いのようになっていた。同僚に短く言葉をかけて、銀時が信号を渡ってくる。ああ、どうしよう。本当に気づいた。残されたサラリーマンの集団は、不思議そうに銀時の背中を見ているようだった。腕を組んでいたあの女性も。だけどもう妙にはなにも見えなかった。銀時以外の人の顔がぼやけていた。

「なに、やってんの」

頭上に声がかけられる。いつものあの軽い声だ。馬鹿みたいに安心する。ああ、わたし、傷ついてたんだ。何も言えずにうつむいていると、銀時はくるりと背を向けてタクシーを止めた。

「送る」

後部座席に並んで座ると、彼は黙ったまま窓の外を見た。

「…あの」
「あー?」
「お登勢さんのところは、もう閉まってますよね」
「うん、もう寝てるだろうな。何、腹減ってんの」
「…わからない」
「わからないって」
「帰りたくないの」
「…は?」

ドレスの裾をつかむ。黒いラメが静かに光っていた。

「なんで。何か、あったのか?」

彼が顔を覗き込む。でも、やっぱり何も言えなかった。怖かった。このまま帰って一人きりになれば、考えてはいけないことを考えてしまいそうで。自分のしたことを後悔してしまいそうで。この道を選んだことを、後悔してしまうのだけは嫌だった。自分が怖かった。横でため息が漏れる。

「じゃあ、俺んち来るか?」

その声に妙はゆっくり顔を上げた。ネオンと雨で輝く町とは対照的に、タクシーの中は薄暗かった。

ーー



「はい、どーぞ」

この間たまごやきを出した時みたいに、妙の前に茶碗と箸を置く。登勢の店のまさしく上の階に銀時の家はあった。もっと乱雑なのかと思えば、案外片付いている。というより物が少ない。居間の真ん中に現在座っているこたつと、壁沿いに本棚があるくらいだ。

「お茶漬け?」
「腹減ってんだろ」
「そういうわけじゃないですけど」
「あ、そ。じゃあいらないの」
「いりますよ」
「いんのかよ」
「…テレビもないんですね、この部屋」
「ああ、壊れてから買ってない」
「そうなんですか」
「どうせ見る時間ねえしな。早く食えば?」
「あ、はい。いただきます」

インスタントのお茶漬けだった。いつぶりだろう。一口食べると懐かしさに胸が躍る。そうそう、あられが美味しいんだ。向かいに座った銀時が漫画を読みながらささっと食べ始める。妙のコートと、銀時のジャケットがハンガーにかけられていた。雨を少しでも乾かすためだ。

「あの、」
「ん?」
「良かったんですか?お友達」
「別に。もう帰るつもりだったし」
「でも腕組んで歩いてたじゃないですか。もったいないことしましたね」
「ああ、あの子ね。酔ったらやたらと絡んでくるんだよ」

ふうん、と頷きながら申し訳なく思う。あの人はこの人のことが好きなのかもしれない。飲み会を楽しみにしてたかもしれない。

「何ともねえから、気にすんな」

面倒そうに言い放った。彼女は、この人ことが好きなのかもしれない。でも、だけど、あのとき彼は気づいてくれた。遠く離れたわたしに。きっとあのまま彼は去って行き、わたしはもう誰にも気づかれないのだろうと思った。世界には参加できないのだと、そう思った。なのに気づいたのだ、あなたは。窓の外では今も雨の音がしていた。

「…坂田さんは、ヒーローみたいね」
「はあ?」
「どうして気づいたの?」

笑ってしまう自分がいた。不安な時や悲しい時、誤魔化そうとするのか曖昧な笑顔をつくるクセがあった。両手でお茶碗を持つ。震えを抑えるようにその温度に触れ続けた。

「…なんでだろーな」
「わたし、まがいものなんですよ。だから、気づくわけないって思った」
「まがいもの?」
「そう。ぜんぶ、嘘。本当のことなんてひとつもない」
「なに、それ」
「仕事…わたし、子供の頃にね、始めたことがあって、それが今の仕事になってるんですけど」

どんな時に泣いてしまいますか?ふいにあの雑誌のインタビューのひとつを思い出す。映画が好きなので、感動シーンを見ると泣いてしまいますね。親子愛とか友情とかに弱いです。そう答えた。最近なみだもろくって、と笑った。でも、もうわたしは泣けなかった。どんなに感動しても、悲しくても辛くても嬉しくても、演技以外で涙を流すことが出来なくなってしまった。いつの間にかストッパーをかけてしまっているのだと思うけれど、それを解除する方法がわからない。これから怒ることも、笑うことも、演技でしか出来なくなるのではないだろうか。そう思うと怖くてたまらない。

「今までそれしかやってこなかったから。学校とか、友達の付き合いも、おざなりにしてその一つだけを必死に頑張ってきて」
「うん」
「気づいたら、自分が見えなくなっていました」

なにかを演じていると気が楽だった。自分じゃない”誰か”を演じていると安心できた。そうしているうちに、いつしか私は”わたし”がどんな人間だったかわからなくなっていた。知らぬ間に自分をも演じていたのだ。私はわたしを殺して”志村妙”という役を演じていただけ。だから空っぽなんだ。自分、なんてものはもうどこにもない。あの頃の写真の自分が遠いのなんて、当たり前だ。殺してしまったのだから。

「空っぽなの」

顔を覆った。わたしの顔には、ちゃんと目がついてる?鼻が、口が、耳が、ちゃんとある?どんどん自分がなくなっていく。霞んでいく。遠く、離れていく。

「わたし、もうどこにもいないの」

いつか痛みもなくなるの?ずっと痛いままなの?
翼は誰にでもある。きっとわたしの背にも。だけどわたしは飛べない。

「だから、もう、どこにもいけない」

地上を離れる勇気がないのだから。

「わたしなんて、もうどこにもいないの。辞めたら、忘れられたら、本当に全部なくなっちゃう。空っぽの抜け殻だけが残る。怖いんです。」

いまも、悲しいのに、苦しいのに、涙は出ない。そのことに悔しさと焦りが生まれる。悲しみも苦しみも、もう体外に出せないような気になる。ずっと胸の中に積もって、わたしはずっと悲しいし苦しいまま。そんな被害妄想みたいな想像をする。

「本当に?」

短い沈黙の中で銀時の声が静かに浮かんだ。妙は覆っていた手を、顔から外す。

「本当に、何もないのか?辞めたらお前は消えるのか?死ぬのか?何も残んねえのかよ」
「だっ…て」
「大きいかもしれねぇよ。子供の頃からやってること、色んなこと投げ打って今までやってきたこと辞めるのは、めちゃくちゃ大きい損失かもしれねぇよ。でも」

銀時の赤い瞳が妙を睨みつけていた。

「そっからまた一個ずつ増やしてけばいいだろ。誰に何言われても、時間かかっても、結果がついてこなくても」
「坂田さん…」
「大丈夫だよ。何もなくねえよ。空っぽとか嘘ものとか言うなよ。そんな、泣きそうなのに笑うなよ」
「…っ」
「気づいただろ。俺、お前のことちゃんと見つけただろ。お前が、本気で呼んだからだろ。まがいものなんかじゃねえよ」

口をかたく結んだ。彼の声が、この小さな部屋に響く。

「ちゃんと、ここにお前はいるよ」

憤っているような表情だった。妙は心の痛みを感じていた。だって、わたしよりもずっとあなたの方が泣いてしまいそう。

「早く、食えって。あられがふにゃふにゃになんだろーがバカヤロー」

銀時は立ち上がって、とっくに食べ終わった自分の茶碗をシンクへ持っていく。あられはすこし柔らかくなってしまったけれど、その分やさしい食感だった。台所に立ったままの銀時が水を出しながら声をあげる。

「あれだ。仕事なくしたらババアんとこで雇ってもらえばいいんだよ」

妙は息を吐き出す。想いを誰かに打ち明けるのは初めてだった。慰めにでも、彼は逃げ道を作ろうとしてくれている。それが、とても嬉しかった。

「ふふ…、そっか。それなら、安心ですね」
「あー。俺も辞めようかな。マジで向いてないんだよね」
「お仕事、ですか?」
「うん。やっぱ自由のきく仕事がいいわ。営業とか接待とか飲み会とかないし」
「何の仕事したいんですか?」
「さあ。ヒーローでもやるかな。向いてるらしいし」

冗談っぽく言う。思わず妙の口から笑みが漏れた。

「いいと思います。ぴったりです」
「本気で言ってねえだろ」
「そんなことありません。困ってる人を助けるヒーローになればいいじゃないですか。ビジュアルは…ちょっと似合わないですけど」
「ヒーローっぽいビジュアルってどんなだよ」
「爽やかだけど情熱的なお兄さん」
「真逆だな」
「真逆です」
「うっせ」
「でも、ほら、何でも屋とか似合うと思いますよ。町の何でも屋さん」
「繁盛しなさそうだな」
「ヒーローはお金のことなんかこだわりません」

口元に手を当て、くすくすと笑う。彼がもしもそんな職業に就いたなら、ほんとうに助けて欲しい時にきっと駆けつけてくれるのだろう。そう思う。たとえば遠く離れたわたしを見つけたみたいに。小さなわたしの声に気づいたみたいに。妙は視線を茶碗に戻すと、残りのお茶漬けを掻き込んだ。


ニーナ(2015/2/19)


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