銀時と妙
廊下はいやってほど寒かった。素足で歩いたりすると床の冷たさが刺さる。広い志村邸はその分あたたかさが家全体に回らない。なのに居間は暖房の空気が充満して、その温度差に頭がぼうっとなる。なにをしているんだろう、俺は。銀時は眉を歪めさせた。なにをしているんだろう、この女は。両の手のひらに畳の跡がついてしまう。感覚が麻痺したようだ。妙の漆黒の瞳が自分を見上げている。
「なんで逃げねえの」
ひくい声が静かな部屋に響いた。沸騰したんだ。ピーっと鳴ったやかんの音を思い出した。カタカタと震える蓋と勢いよく吹き出す白い湯気。あれみたいに自分の中の何かが腹でぐつぐつと煮えて、沸騰してしまったんだ。
「このままじゃ、何かされるぞ」
わかっているのか。みだれた髪が畳の上に散らばっている。覆いかぶさるように両手をついた。瞬間おどろいた表情をしたが、抵抗することもなく彼女は黙りこくったままだ。
「なあ、何か言えよ。それともなに?俺は何もしないって思ってんの?」
銀さんはそんなことするような人じゃないでしょう?妙の目が語りかけているように思えた。その事がより一層、銀時の想いを沸騰させた。耳の奥でやかんの音がまるで警報のように鳴っている気がする。俺はこいつを求めすぎているのだ。なあ、もういっそ突き飛ばしてくれよ。そう思った。殴って罵って逃げ出してくれ、これ以上ないってくらい拒絶してくれ。信じたりしないでくれ。ひとの愛しかたを、俺は知らない。
組み敷いた妙のくちびるが薄く開いた。だって、とかすれた声が言う。
「だって、銀さん、痛そうなんだもの」
すっと伸びた彼女の右手が頬に触れた。ひんやりとした体温が伝わってくる。
「痛そうで辛そうで、泣いてしまいそうなんだもの」
親指のはらで何度も撫でた。なんでだよ。いつもこの手で容赦なく殴るじゃねえか。なんでそんなに優しく触れるんだよ。なんでこんな時ばっか。なんで、なんでなんでなんで。
「そんなあなたを見捨てられるわけないじゃない」
ばかね、と笑って細い腕を俺の首に巻きつけた。じわりと視界がにじむ。頬に髪が触れる。妙のにおいがした。
「そうでしょう、銀さん」
「…っ」
嫌ってくれ。拒絶してくれ。優しくしないで、信じたりしないでくれよ。そう叫ぶ自分が次の瞬間にはまったく逆のことを言う。何処にも行かないでくれ。受け入れてくれ。見捨てないで、笑って愛してくれ。身体の中で欲望と矛盾と葛藤が煮えたぎって沸騰して溢れてしまう。さびしい。くるしい。痛くて、こわい。うれしい。楽しい。しあわせで、温かい。ごちゃまぜになった対極の想いは行き場がなくなって沸騰して溢れだしてしまう。あふれた想いは涙となって銀時の紅いひとみからこぼれた。温かい涙だった。妙の腕に抱かれてまぶたを閉じた。両手を畳から引きはがして彼女の腰にまわし、その身体をつよく抱きしめた。
このすべてが、愛そのものであることを俺はどこかで知っている。
悲しいくらいあいしてる
ニーナ(2012/3/5)
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