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世界の終わり









正面から見据えた臨也の顔は、切羽詰ったような、とにかく今まで見たこともないような顔だった。
深夜のプールサイドのコンクリートは、それでも日中の熱気を蓄えているのかほのかに温かい。
そこに押し付けた臨也の両手首が、ぎり、と鳴った。






いつものケンカだったのだと思う。
臨也が挑発して、それに乗ってわざわざ学校まで追いかけた。
犠牲になった、校庭の電灯2本とバックネット。
それから昇降口の下駄箱。
臨也が裏庭へ抜けるルートを逃げなかったら、もっと犠牲は増えていただろう。
今日日どこの学校にだってついているセキュリティは作動していない。大方臨也が何か仕組んでおいたのだろう。
裏庭を走り抜け、校舎を回り込んでプールに出た。乾いたコンクリートに水あとが散っている。
暗闇の中では、水も血液も同じように見える。
臨也が左足を庇いながら逃げていたことには、随分前から気が付いていた。たぶん、電灯を振り回したときに砕けたガラス片で切ったのだと思う。
容赦なく左足を狙えばいい。全力で追いかけて捕まえて、殴り飛ばしてやればいい。
そうは思うのに、自然と足は、臨也の走るスピードに連動していた。
プールのフェンスをひらりと飛び越えた臨也は、暗闇の中でもひときわ暗く、そのシルエットはとても優雅だった。
金網を飛ぶことなんて造作もなかったが、臨也のようにいちいち綺麗な仕草などできるはずもない。
ばりっと、両手でフェンスを破いた。

「野蛮だねえ、シズちゃんは」

1本だけ控えめに灯った黄色の乏しい街灯が、臨也のうしろに立っている。僅かな光源でも、逆光になった臨也の影は濃い。
表情はまったく見て取れなかった。それなのに、どんな顔でその言葉を吐いているのか細かく想像できる。
苛立ったのは、臨也の言葉にか、それともそんな自分の想像力か。
ぶわっと血液が頭に上るのがわかった。
フェンスの針金が来ていたTシャツにひっかかった。構わず進めば布がはじける音が聞こえる。
猛進したものの武器はない。右手を思い切り振りかぶった。
臨也は身を屈めて軌道を避けたが、左に振った右手を裏で返せば、手ごたえを感じた。
ごっ、と骨と骨がぶつかる音だ。
見れば臨也は体勢を崩し、コンクリートにうずくまっていた。
珍しい光景だった。いつだって逃げ足の速いこいつは、挑発するだけして気が付けば消えている。消化不良の怒りは発散させる目標を失ってたまっていくばかりだった。
ただ、こういう状況に不慣れなせいか、どうしていいのかわからなかった。衝動だけが先走る。
う、と臨也がうめいた。

「ざまあねえな、臨也」

それだけ言うのがやっとだった。その声も掠れて低く、消えそうに小さい。
その声を聞いて、やっと自分が興奮しているのだと気づいた。
そうだ、今俺は興奮している。
手を伸ばした。さっきの右手はどうやら臨也の下顎骨に当たったらしい。
風に揺れる漆黒の前髪を掴んだ。そのまま、後方に押し倒す。その上に馬乗りになった。
ぱちんと微かに聞こえたナイフを開く音。すかさず、両手を纏めてコンクリートに叩きつけた。
静止。
まるで世界が止まったかのような静寂が続いた。聞こえるのは、お互いの荒い息遣い。
手を縫いとめているせいで、顔が近い。
さっきまで想像でしかなかった臨也の表情が肉眼ではっきりと確認できた。

「俺を、殺すの?シズちゃん」

臨也がにやりと口角を上げた。

「それとも、食べられちゃうのかなあ。」

そんな顔して、さ。
臨也はそう言って自分のくちびるをなめた。

「てめえこそ、すげえ面してんぞ」
「知ってるよ」

いつの間にか緩んでいた俺の手をすり抜けて、臨也の左手が襟足の髪を掴んだ。お返しと言わんばかりの強い力で。
そのまま力任せに引き寄せられる。
抵抗しようと思えば、なんとでもなる。臨也の腕力なんてその程度だ。
それなのに。
べろりと今度は俺のくちびるを舐めた臨也の舌は血の味がする。
舌は何度もくちびるを往復してから、それまでの大胆さとは打って変わって静かに口内に侵入してきた。ぬるりとした感触に肌が粟立つ。
髪を掴んでいた臨也の指先は、頸椎から背骨をたどる。
臨也の手首を掴んでいた手からも力が抜けて、臨也がゆっくりと上体を起こした。
コンクリートに座っている臨也の上に跨って膝立ちをして、尚も口づけは止まない。
何度も何度も歯列をなぞって上あごをたどる。魚のように酸素を求めて口を開いて、角度を変えてまた重なる。
いつの間にか絡み合った指先。
臨也の指は華奢で骨ばっていて、そしてとても冷たかった。

「シズちゃん、知ってる?今日で夏休みは終わり。明日からまた、嫌でもこの学校で顔を合わせなきゃならない。」

臨也が上唇を吸った。ふう、と鼻から息が漏れる。
仕返しに臨也の上唇に噛みつく。ふふっと笑う声が聞こえた。

「ねえ、シズちゃん」

何が言いたいのか、本意を聞かなくてもわかっていた。
だから、ぶつけるように口を塞いだ。
この関係に変化を求めたわけじゃない。求めたのは不変だ。

「明日は、殺す」

それだけ言うと、臨也は目を丸くしたあとに、勢いよくのけ反るほどに大笑いをした。
それに驚いて、こっちが目を丸くする。

「いいね、それ。気に入った。」

臨也の端正な顔は、鼻血でも出たのか、少し汚れている。明日になれば腫れるかもしれない。
その顔がゆっくりと近づいてくる。
鼻先が触れるか触れないかのところで、ぴたりと止まって目と目が合う。
吐息が触れ合って、絡まった視線。
背中をぞわりとした感覚が這い上がった。
臨也が何を思ったのかはわからないし、わかりたくもない。
ただその瞬間に、余裕をたたえていた口元の笑みは消えた。
ごつん、と衝撃があって、自分の頭がコンクリートに押し付けられていることに気付く。
何をする間もなく、押し当てられる臨也のしんと冷たいくちびるに、やっぱり興奮した。
世界は止まっている。お互いの荒い息遣いと、粘膜が触れる音しか響かない。
この世界は終わる。
明日からはまた、この抱えきれないほどの情動ではなく刃を向い合せるのだ。


















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