50min 「そんなに警戒しなくていいからさぁ、ほら」 地面を叩く雨音が自然と発声を大きくさせる。 歩くたびにぐちゃぐちゃと鳴る靴も、ずっしりと水分を含んだ服もわずらわしい。 額に張り付いた前髪を掻き上げて、エントランスをくぐる。 「通り雨だよ。すぐに止む。」 俺がいくら情報屋なんていう仕事をしていても、化け物を部屋に上げるのは初めてかもしれなかった。 警戒心まるだしの獣のような彼は、威嚇の眼差しを弱めることもせずに、渋々と後に続いた。 ほんの気まぐれ。いつもの追いかけっこの最中に、まさにバケツをひっくり返したような雨が降り出した。既にそこは新宿で、それこそ俺のマンションまで数歩の距離だった、ただそれだけの話。 エントランスの自動ドアは暗証番号を入力しなければ開かないし、いくらシズちゃんでもそれを叩き割ってまで追いかけてはこないだろう。 だから別に自分だけ避難したって良かった。 つまり、そう、ただの気まぐれ。 「お茶とお茶請けくらいは出るよ」 笑ってそう言えば、チッと盛大な舌打ちで返された。 エレベーターに乗り込むと、彼は壁と融合するつもりなのか、左端に体を押し付けるようにしている。 俺は右端の操作盤のある場所に立っている。そんなに距離を取りたいのかと思うとほんとにおかしくて笑みがこぼれる。 促されるまま部屋に上がると、そこは驚くほどに無臭だった。スンと鼻を鳴らしながら、靴を脱ごうとすると、そのままでいいよと笑われた。 すたすたと奥へ入っていく臨也に仕方なく続く。どうせこれはあいつの気まぐれだ。油断をすればどんな目に遭うかわからない。 着いたのは風呂場だった。脱衣室に洗濯機と洗面台が備え付けられている。 洗濯機はよくテレビのCMで見かけるドラム式というやつだ。 臨也が洗濯をしているという当たり前のことさえ、リアリティを感じない。試しに洗濯機に洗剤をすくって入れている臨也を想像してみたら笑えた。 「何笑ってるの」 咎める臨也はシャツを脱ぎ捨てていた。ドラム式に投げ入れるとピシャンと濡れた音がする。 「シズちゃんも脱ぎなよ、乾燥かけてあげるから。」 言われるがままに、シャツのボタンに手をかけた。半分までボタンを外してから気が付く。 「着るもん、ねえ」 「わかってるよそんなこと、ほら、これでいい?」 臨也は洗濯機の横にある棚から1枚Tシャツを取り出して寄越した。真っ黒な無地のTシャツだ。襟のタグも脇腹のタグもない。どこで買ってんだ。 渡されたTシャツをじっと見ていると、 「一度も着てないやつだよ、」 シズちゃんって失礼だよね、と言って同じようなTシャツを被った。 何が失礼だったのかさっぱりわからなかったが、とりあえずシャツを脱いでTシャツに袖を通した。 臨也は洗濯機の蓋を締めて何か操作してから「50分」と言った。 それからさっさとそこを出て行ってしまった。 臨也が操作していたボタンの側の表示を覗き込むと、倍速の文字が赤く点灯していてその横に大きく50分の文字が点滅していた。 洗濯と乾燥が終わるまで50分かかるという意味だとようやく理解して、もしさっき臨也の言う"失礼"なことを言わなければ「倍速」ではなく「通常」だったり「念入り」だったりしたのだろうかと少し考えた。 大人しく俺のTシャツを着た彼はとても不自然だった。 とりあえずソファが濡れるのは嫌だったからバスタオルを敷いた上に座ってもらった。 テレビのリモコンを渡して、好きに見ていいと告げたけど、彼はそれを手に取って一度首を傾げてから電源も入れずにリモコンをテーブルに戻していた。 熱いコーヒーを落としたけど、彼にブラックが飲めるとは思わなかったので砂糖を探した。ミルクは生憎切らしていた。 自分のものと2つ手に持ってソファへ向かうと、彼はじっとリモコンだけを見つめて座っていた。 「どうしたの」 コーヒーをテーブルに置いてから聞くと、別に、と小さな声が帰って来た。 どうぞ、とコーヒーと砂糖を差し出す。それもじっと見つめてから、ちらりと俺の方を見る彼はきっとまだ警戒しているんだろう。 「別に毒なんか入ってないよ。」 ぷいと視線を逸らされて、ちょっとイラッとしたけど気にせずコーヒーをすすった。 彼には少しだけ小さいTシャツは肩が合わないようで窮屈そうだ。袖から伸びる腕はすらりと長く、しなやかだった。 「にがい」 彼の声に、ハッとする。カップを持ったまま彼を長いこと凝視していたことに気付いたからだ。 「お砂糖、あげたでしょ」 「1本じゃたりねえだろ」「将来は糖尿だねシズちゃん」 ざああと雨の音が響いている。夕立はまだ止む気配がないようだった。 臨也が席を立った。 苦い上に熱いコーヒーは飲めたものじゃなかったが、出されたものを残すのは心苦しかったので、冷めるまで待つことにした。 煙草を吸いたかったが、さっきの大雨でとても吸える状態じゃないことを思い出した。 窓を叩く雨音が強くなった気がする。ばらばらという雨の音と、洗濯機のごうんごうんという音がする以外は、この部屋は無音だった。 テレビのリモコンはボタンが多すぎてどれが電源かもわからない。確か17時から弟の出演したドラマの再放送があったが、電源ボタンを臨也に教えてもらうのは癪だった。 もう1度ちらりとリモコンを見る。この一番上の赤いやつがあやしいとは思うが、押してはいけないから赤の配色なのかもしれない、いや押してはいけないボタンをリモコンに配置するわけがない、でも、いや、と考えて結局目を逸らした。 リモコンなんて、電源と音量とチャンネルがあればそれで用事はだいたい済むだろうが。 そんなことを考えていたら、頭にバサっと何かをかけられる。 「髪の毛、濡れてるよ」 タオルだった。ふわふわでいい匂いがする。端っこを手に取って匂いを嗅いだ。 「だから、洗ってあるってば」 ほんと失礼だなあ、とまた臨也は言ったが、やっぱり意味がわからなかった。 床を見れば、髪から垂れた水が小さな水たまりを作っていた。 ガシガシと乱暴に頭を拭う。それを臨也は一人分開けた隣に座って見るとはなしに見ていた。 ああ、何をしているんだろうなあ。 雨宿りを提案したのは確かに俺の気まぐれだったけれど、こんなにも平穏な時間を過ごしていていいのだろうかと思う。 仕事はいくらでもあったし、昨夜もあまり寝ていないのだから仮眠の時間に宛てたっていい。それなのに、今自分はこうしてコーヒーを飲んで、テレビもパソコンもつけずにただ雨音を聞いている。 しかも、目の前には天敵である彼がいる。 「暴れないんだね」 気に障るようなことはしていなかったが、彼が大人しくここに居るというだけでもトップニュースになる。 「暴れて欲しいのか」 彼はそう言って頭にかぶっていたタオルを取った。顔は終始俯いていて怒り出す気配はない。緊張でもしているのだろうか。 ちらりと時計を見ると、洗濯機を回してからもう30分も経過していた。 あと20分か、と思う。もう、あと20分。 タオルと一緒に持ってきた菓子は、先日依頼人から貰った高級洋菓子店のものだった。 焼き菓子を3つ菓子皿に乗せて、彼の前へ差し出す。 「ここのフィナンシェ、有名らしいよ。」 「どれ」 「これ」 ひとつつまんで彼に手渡すと、彼はそれを柔らかい手つきで受け取った。そんなことにも驚いてしまうほど、彼との殺し合いが日常化していたのだと実感する。 昔は、もう少し、こういう関わりも多かったような気もした。 あまりに過去で、もう忘れてしまった。 ぴりっとビニールの包装を破く音がした。 「うまい」 ひとくち噛みついて、彼は小さな低い声でそう言った。ぜんぜんうまそうな響きはなかったけれど、ぺろりと食べ終えたところを見ると本当にうまかったのだろう。 また時計を見る。あと15分。 next back - - - - - - - - - - |