natsuno きらりきらりと揺れる水面に反射する太陽の力は日に日に増す。 きっちり1年分の汚れを湛えたプールの水は濃い緑色で底も見えない。 水かさが減るにつれて現れる壁面には確かに見覚えがある。 飛び込み台に座る静雄は、制服の裾を捲った。 昼過ぎに抜いた栓はプールサイドでからからに乾いている。 教師の言いつけを律儀に守るのは、義務感だけではなかったかもしれないと静雄は思う。 雲一つない晴天の初夏。 掃除日和とは言わないが、悪くないとふくらはぎ程までに減った水の中へ静雄は入った。 25度を越える気温でも水はひやりと冷たい。 ちゃぷんと水面に深い波紋が広がる。底は、まだ見えなかった。 中央にある排水溝は渦を巻いてけたたましい音を立て始めている。 静雄はデッキブラシを手にとった。 徐々に全貌を明らかにする25メートルのプール。とてもじゃないが、これを夕方までにひとりで掃除できる気もしなかったが、それでも静雄はブラシを底に宛てた。 ザリッと乾いた音がする。緑の苔は擦ればすぐに残った少量の水と同化した。 目洗い場の蛇口から導いたホースからは新しい水が控えめに流れている。 1コースから8コースまであるラインを目途に掃除をすることにした。壁面は後回しだ。 ザリッザリッとデッキブラシが滑る。まだ蝉は泣かない。時折吹く風が雨上がりの湿り気を持って静雄の髪を揺らした。ぽたりと一筋汗が額を伝う。 こんなことを楽しいと思うのは、おかしいだろうかと思う。 プールの東側には古びた校舎が立っており、部活動の生徒たちの声が聞こえる。 西側の細い私有道にはランニングするジャージ姿の生徒と帰宅を急ぐ制服の生徒がまばらに通り過ぎる。 静雄はプールの中で腰を折って掃除しているため、通行人からは死角だろうと流れる汗を拭うことも忘れた。 3コースまでを掃除し終えたところで静雄は曲げた腰を伸ばした。ずっと同じ体勢でいたせいか骨が鳴る。 まだまだ日は高い。弱まることを知らない日差しは静かにコンクリートを熱くした。 ふいに、ぴしゃん、と水が跳ねる音がした。 振り返る前に背中に冷たさを感じる。次いで頬に。腕に。 気持ちいいと感じて、それから不思議に思い振り返る。 そこには、初夏に似合わない黒い出で立ちの臨也がホースを片手に立っていた。 丁寧に裾をまくったスラックスも上着も黒く日光を吸収している。 その肌は白く、きらきらと輝く日差しが似合わない、と静雄は思った。 ホースの先端を親指で潰して、静雄に向ける臨也は悪戯をしかける年端もいかない子どものように笑った。 静雄は緑の苔が付着したブラシを臨也に向けてスイングする。ピッと少量ながらも飛び散る緑は臨也の脛にぴたりとヒットした。 潔癖症の気があると思っていた臨也はそれを気にする風もなく笑っている。 今度は頭を目がけて向かってきた水の軌道を避けて、静雄はプールの隅に溜まった水たまりにブラシをつけて振る。ホースには敵わないが、その水は1年分の汚れを携えている。 臨也は小さな水滴を器用に回避するように飛び跳ねた。 日は高い。ランニング中の生徒がぎょっとした表情でプール内の攻防を横目で見ている。 発揮しようと思えばできる力を静雄は出そうとは思わなかった。プールが壊れてはいけないとも思ったし、何より臨也はナイフを出していなかったから。 25メートル8コースの一般的なサイズのプールを駆け回り飛び跳ねて、水を散らして笑った。 まるで日常生活からぴったりその小さな空間だけ切り取られてしまったかのようだ。 臨也がぽいっとホースを手放すと、羽織っていた上着を脱ぐ。水で重くなったそれは脱がされるのを拒むように体に纏わりついていた。 左右の合わせをそれぞれの手でつまみ、肩を肌蹴る仕草を静雄は見つめた。無意識に過る形容詞を見なかったことにして頭の隅に追いやった。 意識を逸らすようにプールを見渡すと、駆け回ったおかげか、底面にこびりついた深い緑色はほとんど見当たらない。 座り込んで両足を投げ出していた静雄は、後ろ手をついて霞みがかった青空を仰ぐ。手元に転がったデッキブラシがからんと音を立てた。 臨也が隣に腰を下ろしたのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。 ティシャツ姿の臨也は珍しかったが、水を含んで体に張り付いたそれを見ていられなくて、目線をまた空へと戻した。 臨也も静雄を見ようとはせず、自分の足元を見つめているようだった。 視線も言葉も交わさないままで隣に居る意味はあるのだろうかと静雄は思ったが、それ以外に正しい答えはないようにも思えた。 汗が引いて、びしょ濡れになったシャツに体温を奪われる。そろそろどうにかしないと風邪をひきそうだと静雄がなんとなしに思った頃、今まで壁にもたれるようにしていた臨也が勢いよく上体を起こした。 そして、あーとも、うーともつかない声を上げてから自分の頭を両手でがしがしとかきむしる。 常にない行動に、目を見開いていると臨也はキッと視線を上げて前方を睨むと、すらりと長い腕を反動にして腰を上げた。 両手を膝について、屈んだ状態のままの臨也を少し見上げる格好で静雄は見つめる。 「俺、ほんっとに、シズちゃんのこと、キライ。」 臨也がそう言ったので、そうかよ、と静雄は視線を逸らした。 今までが6月の幻のように、霞んだ空に浸食されて消えていくようで、静雄の胸はちくりと痛んだ。 臨也が立ったせいでできた影が静雄を覆っている。その影が動いていることに気付いたときには、目の前まで臨也の端正な顔が迫っていた。 その表情がどういうものだったのか静雄にはわからない。それほど急に視界は肌色と時折揺れる漆黒の髪束で埋まった。 くちびるに触れる柔らかでひんやりと冷たい感触。それがなんという行為なのかしばらく静雄は思い出せなかった。 音も立てずに離れたそれは、反論の隙も与えず雑言を吐いた。 「シズちゃんは馬鹿だからいいけど、風邪ひいたら困るし、俺は帰るよ。」 そう言って臨也は放り投げたずぶ濡れの学ランを拾い上げると、プールサイドに上がった。 完全に見下ろされる格好になった静雄からは、強い西日のせいで逆光になっている臨也の表情を窺うことはできなかった。 じゃあね、と臨也が踵を返すのを、何も言わずに見送った。 大きな雲が通ったのか太陽が遮られ、湿った風に肌寒さを感じる。 デッキブラシを拾ってホースをまとめた。プールサイドへ上がって、用具入れに押し込む。最後に大きな栓を中に落とした。ぽこんと間の抜けた声を上げて排水溝にしっかり嵌った栓を確認する。 目洗い場の蛇口で手を洗った。腕や足に苔がついているのも落として、ついでに顔も洗った。 ふいにくちびるに指先が触れる。さっき臨也が触れた場所だった。意外にも柔らかく、そして冷たい臨也の。臨也の何が触れた?静雄はそう考えてから、一気に頬が熱くなるを感じる。 濡れたシャツがそのせいで乾いてしまうんじゃないかという程に体が熱を持った。 あれを、なんて呼ぶのかは知らない。臨也が何を考えているかなんて、知る由もないし、知りたくもない。 ただ、逆光を浴びて影になった臨也の頬は、今の静雄と同じ色をしていた。 そしてほんの数秒触れ合ったくちびるは、とても冷たくて、小さく震えていた。 それだけしかわからない。 数十分前に臨也がしたように、静雄も頭をかきむしった。 back - - - - - - - - - - |