ライン 3 ---- 一日の仕事が終わって事務所を出る。 昼の顔と違ってアルコール臭の漂う池袋の街を静雄は帰路についた。 仕事が終わる少し前からデリックの姿を見かけなかった。 それは以前からたまにあることだったので、静雄は気にも留めなかった。 部屋に戻れば、いつの間にか戻ってきているなんてこともよくあったのに、今日に限っては静雄が部屋に帰ってベランダで一服してもデリックが戻ってきた気配がなかった。 「どこ行ったんだあいつ」 短くなった煙草をもみ消して、部屋を見る。 見慣れたそこは妙に広く感じた。 吸い殻を捨てようと灰皿を見れば、煙草の残骸で溢れていたので部屋に入ってコンビニの小さなビニール袋に吸い殻をあけた。 空気を抜いて口を締める。 キッチンにあるゴミ箱に捨てようと蓋を開けると、見慣れない紙屑が何枚も入っていることに気が付いた。 一枚拾い上げてみると、それはコンビニのレシートだった。 「今日の日付…AM7:00?」 そんな時間に買い物に行った覚えはなかった。 「やわらか焼きプリン、」 商品名を読み上げてから静雄はハッとして、ゴミ箱に散乱する他の紙屑も拾い上げた。 「これも、これも、」 レシートはすべてほぼ同じ時間と商品名が表記されていた。 「あいつ、」 くしゃっと紙を握りつぶした。 それを叩きつけるようにゴミ箱に投げ入れると静雄はもうひとつの事実に気付く。 「まさか」 静雄のふたつめの願いごと。 デリックは臨也への嫌がらせを実行するために、まだ戻らないのではないか。 静雄は急いで靴をはく。 くたびれた革靴は焦っていてもすんなりと足を受け入れた。 (あいつには、俺みてえな力はねえんだ) デリックには静雄のような怪力はない。 臨也がどれほど姑息かも知らない。 デリックがいったいどういう存在なのかもまだ知らなかったが、見えている静雄は彼に触れることができた。 臨也に対して見えるようにもできるとデリックは言っていた。 もし臨也がナイフを使ったら、デリックの体は傷つくのだろうか。 わからない。わからないが止めなければと思った。 バタンと大きな音を立ててドアを閉めた。もとより施錠の習慣はあまりなかったが、鍵の存在なんて微塵も思い出さなかった。 そのまま静雄は走り出した。 ---- 終電はとっくに終わっていた。 静雄にタクシーなんて考えは到底思いつくことはできなかったが、携帯も財布も部屋に置いたままだった。 ひたすら新宿までの道のりを走った。 臨也のマンションなんて一度もまともには行ったこともなかったが、とにかく走った。 持前の勘と臨也に反応する嗅覚で、なんとかそれらしきマンションに辿り着くことができたが、エントランスで臨也の声が聞こえ遅かったかと静雄は舌打ちをした。 「よくここがわかったねシズちゃん。待ち伏せなんて、その頭でよく思いついたじゃない。」 臨也の嘲る声が聞こえる。 自分にしか使われない呼称を呼んでいることから、対面しているのはデリックで間違いなかった。 「でも、今日は特に君を怒らせるようなことした覚えがないんだけど?」 どうやらまだ刃物沙汰にはなっていないようだと静雄は胸を撫で下ろす。 それなら、デリックの好きにさせようと思った。 もし危険だと思ったらすぐに自分が飛び出せばいい、と静雄はふたりが見える位置の建物の影に隠れた。 デリックは静雄のバーテンダの服を着て臨也の前に立っている。まるで静雄そのものだ。 臨也もそれには疑いさえもっていないようだった。 「臨也」 デリックが俯いたまま呼びかける。 疑心はなくとも、いつもの静雄らしからぬ静雄に臨也も多少の違和感は感じているのか、どうしちゃったの?シズちゃんとおどけてみせた。 「てめえは、なんでオレのことが嫌いなんだ」 「…はぁ?」 臨也はあんぐりと口を開けたあとに、ひきつったように笑い声をあげた。 「何言ってるのシズちゃん、ほんとにどうかしちゃったんじゃないの?俺がなぜ君を嫌ってるからだって?ハハ!そんなの、シズちゃん、君がいちばんわかってるんじゃないのかい?」 「わかんねえから聞いてんだろ」 「ねえ、まさかそれを聞くためにここへ来たの?わざわざ?」 「いいから答えろ」 影から見守る静雄は拳をぎゅっと握りしめた。 とっくに静雄の頭の中の何かはキレている。それを必死に押さえつけた。 臨也の言う通り、静雄には臨也が自分を嫌う理由なんてわかり過ぎるほどにわかっていた。 「じゃあ教えてあげるよ。それはねえ、シズちゃん。君が、化け物、だからだよ。」 びゅうと緩い風が舞った。 サングラスさえも忘れて飛び出した静雄の目にそれはしみた。 「俺は人間を愛してる。人間のすべてを等しく、ね。だけど君は人間じゃない。だから愛せない。それだけだよ。」 デリックは言った。力や、性格がそのままでも、願いごとは叶ってるんだろう?と。 静雄のたったひとつの願いごとは、あいされることだった。 この桁外れの力を振りかざしても離れていかないひとたちがいた。この力を必要としてくれるひとたちがいた。 悪意を持って近づく輩は静雄の猛威に逃げ出す。 そういうやつは静雄にとっても要らないひとたちではあった。 けれど臨也は、悪意を持っているのに力を振るっても離れていかないのだ。 「愛していないなら、その反対はなんだ?」 デリックはじいっと臨也を見つめていた。 臨也は訝しむように眉を寄せる。 「憎悪だよ。だいっきらいってこと。わかる?」 両手を広げて大袈裟なアクションをした臨也に静雄は苛立った。 こんな問答は何べんも繰り返したことだ。 「たくさんのひとを愛していて、たったひとりを嫌ってるんだな、おまえは。」 デリックが言った。笑っている。 「オレのことは、とくべつ、なんだろ?」 「なっ、」 臨也がたじろぐ。珍しいことだった。 「ほんっと、何言っちゃってんのシズちゃん。頭どうかしちゃったの?一度切り裂いて見てもらったら?それとも」 おもむろに臨也がコートのポケットに手をしのばせた。 「今ここで、切り裂いてやろうか」 「なあ臨也」 そんな臨也の動きを封じるようにデリックが声を上げる。 「てめえはオレが暴れても殴ってもベンチを投げつけても、なんで近づいてくるんだ」 デリックは一歩前へ出た。 「なんで、離れていかねえんだ?」 もう一歩。臨也へ近づく。 臨也がポケットの中でナイフを握りなおすのがわかった。 そしてもう一歩。 「臨也、オレは」 静雄は走り出した。 パチンと軽やかな音が鳴る。臨也がポケットから出した二つ折りのナイフを斜め下に振りおろし開いた。 「今日はよくしゃべるお口だねシズちゃん、もう黙りなよ。さっきからべらべらと。おまえに何がわかるんだ。知ったような口をきくなよ。」 「わかんねえ、てめえのことなんざ、ぜんっぜんわっかんねえよ」 あと数歩でデリックの背中に辿り着くところに静雄はいた。 それなのに臨也には静雄の姿は目に入っていない。まるで見えていないようだ。 「だから」 デリックが静かに続けた。 「俺はその不確かなラインを、越えたいんだ」 臨也が目を見開いた。 デリックの真後ろまで迫った静雄も瞠目した。 これ以上踏み出してはいけない警告のラインが臨也と静雄の間にはあった。 それは暗黙のルールなのに、そのルールがいったいどういうものなのか言葉では説明できないひどく曖昧なものだった。 (だめだデリック) 静雄は反射的にそう思った。そのとき。 臨也がナイフを持っていない方の手をぐいと突き出した。 その手はデリックの体を通り抜けて静雄に届く。 胸倉をつかまれて引き寄せられる。 デリックの体が透けて、その向こうに臨也が見えた。 その目は、見たことがないほどに質実だった。 ガツン 歯と歯がぶつかる音がした。唇が切れたかもしれない。 抗議しようと臨也の唇に挟まれた口を開いた途端に舌が入り込む。 目の前に臨也の長いまつ毛が見える。それは僅かに震えているようだった。 静雄はそれに倣って目を閉じた。 唇の角度が変わり、息継ぐ間もなく塞がれる。 臨也の手は胸倉をつかんだまま、ナイフはまた地面に放り出されその手は静雄の背中に回った。 緩い拘束だった。振りほどこうと思えば突き飛ばそうと思えば容易にできる。 それをしない自分に静雄はとくに驚きもしなかった。 見えない制約を抱えたラインは既に踏み越えられてしまったのだ。 それでも最後の理性が、静雄の両手を宙ぶらりんにさせていた。 「はっ、はぁ、はあ」 どちらともなく離された唇を名残惜しく感じる暇もなく静雄は息を整えた。 「ふざけるなよ、」 臨也はこぼれた唾液を拭うと珍しく荒い語気で言い放つ。 「俺がどれだけ厳重に、厳密に引いたラインだと思ってるんだ、時間をかけて何重にも、何重にも積み重ねてきたってのに」 どん、と静雄の胸を叩く。 「簡単に越えさせてくれるなんて、」 静雄の胸を叩いた拳の上に臨也は額をとんと乗せた。 「馬鹿みたいじゃないか」 これほど感情的な臨也を静雄は見たことがなかった。 驚きもつかの間、笑いがこみ上げる。 「馬鹿みたいじゃなねえ、馬鹿なんだよ」 静雄が笑うと、臨也も笑った。 「うるさいよ、」 臨也は小さく悪態をつくと、もう一度唇を寄せた。 静雄の背後でカランと乾いた音がした。 黒いコンクリの上に鮮やかなショッキングピンクのヘッドフォンが無機質に転がった。 ---- 終電もないし、歩く気力もないと静雄が言うと臨也は泊まっていけばいいと軽く言った。 特に会話もなく、交互にシャワーを浴びてベッドにもぐった。 何をするでもなく、ただお互いの体温を分け合って眠る。 静雄は、悪くない、と目を閉じて規則的に上下する肩に顔を埋めた。 ---- ぴぴぴぴというアラーム音で飛び起きる。 目の前に広がるのは見知らぬ天井だった。 静雄はしばらくそれを眺めて昨夜のことを鮮明に思い出し、急に居心地の悪さを感じる。 衣服を整えベッドを出た。 「おはよう、シズちゃん」 ブラインドを開けた明るいリビングには身支度をすっかりすませた臨也がいた。 「水でも飲む?」 そういう臨也の言葉に頷いて、革張りのソファに腰かけた。 カタンとシンクにコップを置く音が聞こえる。 ここが臨也の部屋でそこに自分がいて、臨也がキッチンで静雄のために動いている。 それが嘘のようだったし、とにかく歯がゆい気がして、どこも痒くはないのに静雄は頭を掻いてみる。 臨也が静雄の部屋の2倍はある冷蔵庫の扉を開けた。ブーンとモーター音が聞こえた。 「シズちゃん、牛乳もあるけど、どっちが、…あれ?」 急に言葉が止まったことを訝って静雄が臨也を振り返る。 「なんだよ」 「これ、シズちゃんが買ってきたの?昨日冷蔵庫に入れた?」 「どれ」 「これ」 臨也が冷蔵庫の中を指さす。 俺が買うはずないんだけど、と臨也は首を傾げている。 静雄は仕方なくソファから立ち上がって臨也のとなりに並んだ。 冷蔵庫の中を覗くとそこには。 「やわらか焼きプリンなんて、買った覚えないんだよねえ」 しかもご丁寧にふたつ、と臨也は静雄を見る。 「なんでシズちゃん笑ってんの?そんなにプリン、嬉しかった?」 静雄は声は出さずに笑った。腹を抱えて転げまわりたいくらいに楽しかった。 そして、おもむろに臨也の頭を手のひらで包んだ。 さらさらの黒髪のさわり心地は想像していた通りだと静雄は思った。 「臨也、俺は、てめえのことムカつくけど、嫌いじゃねえ」 「ああそう、奇遇だね。俺もだよ。」 ふたりとも目線は冷蔵庫に向かったままそう告げた。 静雄はパッと臨也の頭を撫でた手を放して、冷蔵庫のプリンを取る。 「ふたつとも食っていいか?」 「ダメに決まってるでしょ」 ふたりでまた無言のままプリンを食べた。 厳重に幾重にもトラップがはられたそのラインはまるで跡形もなく踏み消されてしまったようだった。 それでも何が変わったわけでもない、と静雄は思った。 ただ、となりで屈託なく笑うもうひとりの自分がいないことが少しさみしいだけだ。 みっつの願いごとはすべて叶った。 魔法も何も使えない体当たりのショッキングピンクに、少しだけ感謝して静雄はプリンをすくった。 ---- (オレはあなたなんだぜ?マスター) ---- back - - - - - - - - - - |