夜の東側 あかくもえた空を深い藍色が侵食していく。 境目が幕を下ろすようだ、と静雄はぼんやりと思った。 ふいにタバコを吸いたくなって、胸ポケットに手をあてる前に、そういえばさっき吸ったのが最後だったことを思い出す。 その最後の一本は、味わうことなく路上に踏み潰されている。 (拾わなきゃ、) 思うが体は動かない。 くしゃくしゃになったタバコの横には、ひしゃげた標識が、重力を無視した格好で倒れている。 反対側には、それを引き抜いたコンクリの穴。 正面のビルの壁には大きな亀裂が入り、小さな振動でぱらぱらと残骸をこぼす。 通りを抜ければ、喧騒の池袋で、それなのに、この空間は不気味なほど静かだ。 聞こえるのは息遣いがふたつ。 ふと、視界の端に、上下に動く黒い物体を認める。 「まったく、無駄な体力使ったよ。」 見れば、端整な顔を歪めた臨也がため息を吐いている。 何がきっかけかも忘れるほど無意味で不毛な追いかけっこがいつものように始まり、こんな路地裏で終わろうとしていた。 「てめえが、ブクロに来るからだろ」 「だから仕事だって、言ってんでしょーが」 そういえば、追いかけはじめたのは昼下がりだったことを静雄は思い出した。 日が長くなってきたこのごろだ、何時間経ったのかはわからないが、本当に無駄なことをしたと珍しく臨也に同感する。 結局、お互いの体力が尽き、どちらともなく振り上げていた道路標識とナイフを下ろした。 ついでに腰も下ろせば、立ち上がるのも億劫なほどに疲れているのを実感する。 息が整いはじめると、不本意ではあるがこの疲労感はまぁまぁ悪くないとお互いに思っている。 くだらないことに、ふたりはこれを何年も続けているのだった。 「あーあ、幕が下りたね。」 「あ?」 「ほら、夕日が夜に食いつぶされた。」 臨也が空を見上げながら言う。 その横顔は、変わらず整っていて、静雄はじっと見つめてしまう。 それは静雄の臨也にしか発動しない癖でもあった。 臨也がこちらを見ていないときだけ、じっと、それこそ穴でも開きそうなくらいに見つめるのに、臨也が振り向いた途端にそれは逸らされる。 「てめえとおんなじこと考えたなんて、屈辱だ」 「・・・こっちのセリフだよ。」 地面に座ったまま、ビルの壁に背中をもたれる。 まだ肌寒い風が吹き抜けた。 カチ、と臨也が指のつめを弾く音がする。 静雄はこつんと壁に後頭部を押し付けた。 高校からの長い付き合いとは言え、まともに話をしたことなどはなく、目が合えばケンカばかりを繰り返してきた。 ただたまに、今日のように不自然に沈黙が訪れることがあった。 どちらも何も話さない。話すこともない。 ただ、となりにいるだけの時間。 不思議なことに、この時間への不快感をお互いに感じたことがない。もちろんそれを口にしたことなどはないのだけれど。 カチカチ、と臨也の形のいいつめが鳴る。 「シズちゃん」 静寂をやぶるのはだいたい臨也だった。 臨也がしゃべると静雄は大抵イラつくので、なるべくなら心地いい沈黙がいつまでも続けばいいのにと思う。 なんだよ、と声をかければ 「呼んでみただけ、」 なんてことを言って笑うので、やっぱり静雄は少しイラつく。 チッと舌打ちを鳴らして、空を見れば、数分前の橙の存在なんてなかったかのような夜が一面に広がる。 眠らない街のネオンが反射して、薄汚れた灰色の夜は臨也にぴったりだと静雄は思った。 また、ちらりと臨也を盗み見る。 綺麗な顔立ちを眺めると、静雄は、自分はこの男のこの顔立ちは嫌いじゃないのかもしれないと思う。 それでなければ、こんな癖は成立しないはずだ。 (黙ってればいいのに) 静雄はいつもそう思う。 ぺらぺらとよく回る口は、大抵余計なことしかしゃべらない。 それは静雄にだけでなく、誰に対してもそうだった。 (贅沢なんだ) なんでも持ってるくせに、すべて要らないと遮断する。 その態度が気に入らなかった。 愛されるべき容姿も秀でた才能も、誰からも求められるすべてを持っているくせに、自ら歪んだ臨也を贅沢だと静雄は思っていた。 忘れてしまえばいい。気に入らないなら、見ないふりを決め込むことなんて造作もない。 それをしないのは、時として訪れるこの曖昧で心地のいい静寂を求める理由と同じだということを静雄は知っていた。 「シズちゃんさぁ、」 また臨也が口を開く。薄く、形の整った唇だ。 そのまま静雄を見ようと振り向いたので、静雄は顔を逸らした。 「だから、なんだよ」 静雄がそう返すと、臨也は珍しく押し黙った。 静雄は臨也が逃げれば、鬼の形相で追いかけてくるくせに、臨也が立ち止まればそれ以上踏み入ってこない。 何年もそれを繰り返した。 臨也にとって、静雄ほど思い通りにならないものは他にいなかった。 (だからこそ、ここまで執着してるんだろうなぁ) 静雄は黙った臨也を訝っているが、視線は空中を捉えて、自分を見ようとはしない。 力を手に入れようとしたら、例えば弟を人質にとるとか、それこそ手立てなんて山ほどあったはずだった。 だけど今まで決定的なことができないでいる理由に臨也は目を瞑る。 (コンプレックス?冗談じゃない) 以前サイモンに言われた言葉を思い出して、眉根を寄せる。 そんな生易しいもんじゃない。 静雄は、絶大な力を持っている。それゆえに孤独だと思い込んでいる。 嫌いだ嫌いだと自分を卑下して、その度に暴力を振るう。 そのくせ、彼の周りにはひとが絶えなかった。 何度臨也が妨害してもそれは変わらなかった。 「シズちゃんは、贅沢だ」 思考が言葉になっていたことを、口に出してから気付いた。 ハっとして静雄を見ると、珍しく目が合う。 少し驚いたように目を見開いた静雄は、さっと視線を逸らしてぽつりと 「こっちのセリフだ」 と言った。 まさか返答が来るとは思って居なかった臨也も驚いてから、会話になっていないようでなっているこの状況に、フ、と笑いがこぼれる。 「何笑ってんだ」 「別に」 思い通りになったことなど一度もないし、自分のものにならないのならそんな破壊的な力なんて邪魔でしかないと目の敵にしてきた静雄と、こんなふうに過ごす静かな夜を心地いいと思ってしまっている自分。 そしてそれがいつまでも続けばいいなんて思っている自分を臨也は知っている。 その感情の名前がなんであるかも。 いつもこの時間を過ごすときに寡黙になってしまう理由は、油断するとそれが意図せず溢れそうになるからだった。 「シズちゃん、」 3度目の問いかけに、静雄は何も答えなかった。 「もう少し、ここにいない?」 もう少し、この曖昧な関係に甘んじることを臨也は望んだ。 明確な理由や言葉なら、いつでも転がっている。 それを拾い上げるのには、まだお互い未成熟だった。 「そうだな。まだ、ここでいい。」 静雄は静かな声でそう言って、臨也を見た。 その瞳は、真摯だった。 じわじわと、心臓が暖まった。 静雄は思う。 (夜に侵食される昼みたいだ) いつかこの漠然とした感情に、全身が覆われてしまうのだろうか。 それは、大きな苦痛を装って、とても甘美な響きを湛えている。 (だからこんなにも、) (だからこんなにも、焦がれるんだ) back - - - - - - - - - - |