03
ドアのチャイムが連打される中、名前は「裏切ったな」と視線で荒北を訴える。
しかし荒北は全く堪えていない涼しい顔だ。
「オレじゃねーよ?オレの彼女はイチイチ金城に報告する癖があんだよなァ」
そう言ってドアに手をかけると文字通り転がるように新開が入ってくる。
「名前!!!」
汗だくなのは駅から走って来たからだろうか。自転車は置いて来たようだ。手荷物一つ持っていないところを見ると余程急いで来たのだろう。
「来るのが遅ぇーんだヨ。おかけでこっちは溜まってんだからさっさと連れてけよ」
「私帰るなんて言ってないし」
「じゃあオレもここにいる!」
「マジでてめェら帰れ。福チャン呼ぶぞ」
早々に奥の手を出されて二人とも言い返すことができない。福富はダメだ。
「とりあえずオレ出てくっからァ話し合いしとけよ」
「お金渡す?」
「よし。そんだけ余裕あるなら話し合えるな」
軽く頭を叩いて荒北は出て行った。新開が「金?」と聞いて来たが「こっちの話」と逸らした。まぁ実際その通りの場所へ行くのだと思うが。
主のいなくなった部屋に残された二人は無言だ。新開は何度か口を開きかけてはその度言葉を飲み込んだ。
名前もこのままではいけないと頭ではわかっているが、黙って出てきた手前もあり第一声を決めかねていた。
すると新開がおもむろに頭を下げる。
「名前、本当にごめん。今回のことはオレが全部悪い」
彼が心から反省していることは顔を見た瞬間からわかっていた。だが名前が引っ掛かっていたのはそこではない。原因は彼ではないのだ。
『新開に言われてどう思った?重要なのはそっちじゃねーの?』
荒北の言う通りだ。
名前はあの時新開の欲望を受け入れた。朝起きて自分の言動に愕然とした。なぜ受け入れたのか理解できなかった。だから彼とどう顔を合わせていいかわからなかった。そして気付いたら新幹線に乗っていた。
「隼人は覚えてる?昨日のこと」
「すまねぇ。情けないけど全然思い出せない」
見ているこちらが心苦しくなるほど新開はつらそうに顔をしかめている。
聞いてみたものの記憶がないのは想定内だ。あれほど泥酔した姿は初めてだった。
しかしあれは酔った勢いだけではなく、新開が日頃抱えている欲望だったに違いない。
「思い出せなくてもいいから私の質問に答えてくれる?」
「怖いな。昨日本当にオレは何したんだ?」
「隼人が本当に欲しいものは何?」
「オレが欲しいもの?」
漠然した質問に新開が狼狽する。当然だ。だが名前は畳みかけるように続ける。
「私は隼人が欲しい。隼人の全部が欲しい。優しくて穏やかな隼人も、静かに熱を持ってる隼人も、私を惜しみなく愛してくれる隼人も、隼人の全部が好きなの」
昨夜、本当に彼が求めたものは何だったのか。
肉体的な欲望がないわけではないだろうが、もっと奥底にあるはずなのだ。
名前は新開が押し隠しているその望みを受け入れた。自分でも気付かないままに。
「隼人は何が欲しいの?」
「オレは……」
新開が逡巡する。失った記憶に手が届きそうになっている。
「私が『いいよ』と言ったことが正しいと思わせて」
「……………思い出した」
***
記憶を取り戻した新開はガクリと肩を落として両手で顔を覆ってしまい動かない。確かに行為だけを見ればそうなってしまうのも無理はない。
5分以上は沈黙の後、やっと絞り出すように話し始めた。
「酒が入ってたとはいえ最低もいいところだろ」
「でもそれが隼人の本心でしょう?」
「違っ…わないけど、それしか考えてないわけじゃないんだ」
「知ってるよ。これまでどれだけ大切にされてきたか、私が一番よく知ってるもの」
名前が新開の体を包むように抱きしめた。
『大切にする』と言ったあの日から愚直なほどにその約束を守ってきた。だからあの欲望すら違った言葉に聞こえたのだ。名前が受け入れた理由はそこにある。
「名前が好きだ。愛してる。名前が欲しい」
脳裏にいつかの青空が蘇る。
新開は目を閉じると大きく息を吐いて真正面から名前を見つめる。その瞳の色はあの時の空の色と同じだった。
「名前の全部をくれ。心も体も、これからの人生も、全部だ」
名前の左手を取って、新開はその指にはめられた銀色に口づけた。
***
「答えは出たんだな」
「うん。色々ありがとう」
「名前を連れて帰る」と新開が連絡して1時間後、荒北は彼女を連れて帰宅した。荒北は名前の顔を見て状況を察したようだった。
「今度は東京にも遊びに来てね」
「『も』って何だ。おまえは遊びに来たんじゃねーだろが」
高校時代の荒北なら怒鳴りつけられそうなものだが、彼女が隣にいるからだろうか。棘がだいぶ抜けている。
「靖友、巻き込んで悪かったな」
「悪いと思ってんなら二度と変なこと言うんじゃねーぞ」
「…名前が靖友に何を聞いたのかわかる気がするぜ」
荒北が返答に窮したことは想像に難くない。新開は苦笑しつつ、元チームメイトが受けた被害に謝罪した。
「じゃあ帰るか」
新開が立ち上がる。続いて名前が立ち上がった時、荒北がどちらにともなく声をかける。
「あんま待たせんなヨ」
まさか荒北からそんな言葉が聞けるとは思わなくて、新開と名前は顔を見合わせる。
そして新開が心得ていると力強く頷いた。右手は名前の左手を握りしめている。
きっとこの手は家に着くまで離されることはないのだろう。
寄り添って歩く道はまだ始まったばかりだ。
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