ケンカの原因と甘い香り


「絶対に謝らないからねっ」

部室にいた全員が凍りつく。それも仕方ないことだろう。何しろ眉を吊り上げて怒りをあらわにしているのはあの葦木場なのだから。
黒田がそんな葦木場にため息をついてこちらへ向かってきたところに、悠人が小声で恐る恐る尋ねる。

「あの、黒田さん。葦木場さんどうしたんですか?」
「そう言えば悠人たちが入ってからは初めてかもな」

黒田が1人頷くが悠人にはさっぱりわからない。そんな悠人を察して黒田が続ける。

「マネージャーの苗字とケンカしたんだよ」
「ケンカじゃないよ!名前が悪いんだからっ」
「世間じゃそれをケンカって言うんだよ」

葦木場が声を荒げるのは珍しい。ましてやそれがマネージャーに向けてなど想像できるはずもない。

「拓斗と唯一ケンカできる相手だからな。苗字は」
「あの天然の葦木場さんを怒らせるってスゴイですね」

悠人の呟きに黒田がニヤリと笑う。

「そうでもないぜ」
「??」

悠人が今度こそわからないと眉根を寄せる。するとそこへ今まで静観していた泉田が苦笑して葦木場の肩に手を置く。

「拓斗、苗字が来ないと困るんだ。原因はわからないがまずは迎えに行ってはくれないか」
「……」
「ならボクが迎えに行ってもいい」
「…!オレが行く」

渋々といった様子で葦木場が部室から出て行く。

「お見事だな。塔一郎」
「世話がやけるよ。で、ユキはケンカの原因を知ってるのか?」
「たぶんアレだ。今日の調理実習で作ったマフィンを拓斗に渡さなかったからだろ」
「一応聞くが、それだけか?」
「クラスの他の男子が食っちまったんだと。それがまずかったな」
「なるほど」

泉田が納得する横で悠人が怪訝な表情をしている。だが黒田はこれ以上説明をしてやるつもりはなかった。いずれわかることだ。


***

葦木場は部室を出て真っ直ぐ調理室まで来た。案の定、中に人の気配がする。少しだけためらった後、ドアを開けると予想通りの人物がこちらに背を向けたまま作業を続けていた。気付いていないわけではないだろう。葦木場が迷うことなくここに来たのと同じだ。彼女も葦木場がここに来ることをわかっていたのだろう。

「名前」
「……何」

葦木場が真後ろに立っても振り向こうとしない。黙々と手元を動かしている。

「塔ちゃんが部活に来て欲しいって」
「あ、そう」
「ユキちゃんがオレたちのことケンカしてるって」
「そうじゃないの?」

名前の淡々とした態度にそれ以上続ける言葉がないので葦木場は作業台の上を覗き見る。
カップに入れられたそれは葦木場の知る限り焼く前のマフィンだ。

「名前」
「……何」
「キスしたい」
「どうぞ」

会話の内容と不一致すぎる低い声の返答を気にすることもなく葦木場が腰を屈めると、名前が背伸びをしてくる。
唇が軽く重なって離れる。そしてまた重なる。幾度か繰り返す頃には、葦木場の手は名前の腰に回されていた。

「マフィン早く焼いてよ」
「はいはい」

オーブンにカップを運ぶ名前の口元は弧を描いている。葦木場は腰の手は離さずについて行く。

「名前、もしかしてワザとオレ以外にあげた?」
「まさか。どうしてもって言うから断れなかったの」

本心を窺うように名前の瞳を見つめるが動じない。澄ました顔で葦木場を見つめ返してくる。だから悔しくなって先程よりも深いキスを落とす。

「名前のマフィンをそんなに欲しがる奴いるかな」
「失礼な!拓斗が知らないだけで私だってそこそこモテるんだからね」
「それでも名前が好きなのはオレでしょう。オレ以外にマフィンあげちゃダメ」
「そういえば拓斗『名前のマフィンなんて欲しくない』って言わなかった?」
「あ、あれはつい…。名前だって『拓斗のために作ったんじゃない』って」

昼間のことを掘り返されてどうしてもムキになってしまう。だが名前はにっこり笑って葦木場の首に腕を回してくる。

「言ったよ。だから今、拓斗のためだけに作ってる」

チラリと見たオーブン。マフィンが焼きあがるまでまだ時間はある。部活をサボるつもりはないが焼きあがるまでは2人きりの時間を堪能したい。
オーブンから香ばしい匂いが流れてくる頃には調理室の中はすでに甘い香りで満たされていた。




prevnext

back

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -