[終] April
例えば彼が怪我をしていなくてそのまま野球を続けていたら、別の出会い方をしていただろうか。
野球を続けていた彼は今の彼とは別人なのだろうか。
考えても答えのないことだ。
しかし彼は彼でしかないから、どんな道を通ってもきっと彼に辿り着くのだろう。
***
大学に入って二度目の春。去年の自分たちもあんな緊張した面持ちでキャンパスに入ってきたのだろうか。1年生と思わしき集団を眺めながら記憶を辿る。
年度初めで人の多い構内をかき分けるように進んで行くと、よく知る後ろ姿を見つけた。
「おはよー!」
勢いよく背中に飛びつくと、その隣を歩いていた人間が名前に気付いて笑う。
「おはよう、苗字」
「おはよー金城」
「オイ」
「苗字はもう取る講義決めたのか?」
「まだなんだ。金城と同じの取れないかな?」
「オイ」
不機嫌な声が一回り大きくなるのを無視して名前は続ける。
「一緒の講義になったら遠征の時にノート貸すよ!」
「それはいいな」
「オイ、人を無視して話進めンな」
言うと同時に体をひねって引き剥がされた。頭を鷲づかみされているのは扱いが雑過ぎないかと抗議したくなる。
「何だ、妬きもちか。荒北」
「ちげェ」
「オレと苗字は友達だって何度も言ってるだろう」
「……」
「ああ、そうか。新開にオレをダシに焚きつけられたそうだな」
「…ッ!何でそれ知ってンだよ」
「福富から聞いた」
「福チャン……」
「ねぇ何の話?」
「何でもねーよ」
荒北はそう言うとスタスタと進んで行く。金城にまた連絡すると早口で告げてその後を追う。
荒北と出会ったのは去年の今頃だった。
いや、名前にとっては再会だった。
今当たり前のように荒北の隣を歩いていることを1年前の自分はどう思うだろう。
「そォ言えばチケット取った」
「何の?」
「何のっておまえ……野球だろ」
名前が隣に追いついたタイミングで荒北が鼻の下をこすりながら呟いた。照れているのかもしれない。約束を覚えていてくれた嬉しさと恥ずかしがる荒北が微笑ましくて顔が綻んでしまう。
「いつ?バイト調整するから教えて」
「ン」
携帯の予約画面を名前に向けてくる。受け取って日付と時間を確認してから、ふとメールの受信日時を見た。
「3日前に予約してるのに何で今日?」
「ンなとこ見んじゃねーよ!」
携帯を取り返した荒北の顔はなかなか酷いものだったが、よく見れば耳が赤くなっている。
「デート誘うの一つにそんなにためらっててどうすんの」
これは先が思いやられると恋愛事に鈍い自分を棚に上げて苦笑する。
「それはオレへの挑発だよな」
楽しい気持ちが一瞬で引いていくほど、その声は低く響いた。見上げると荒北が愉快そうに目を細めてこちらを見ている。ほんの少し前まで赤くなっていた姿はもう微塵もなく、名前は完全に形勢逆転してしまったのを肌で感じた。
「オレを仕掛けたからには覚悟できてンだろうなァ?」
「何の話?」
「言っとくけどこの試合ナイターだからな。試合途中で新幹線の時間だから帰るなんてさせねェし、そもそも帰す気もねェから」
再び荒北が投げて寄越した携帯を慌ててキャッチすると、画面にホテルの予約画面が開かれていた。予約されていた部屋はダブルの一部屋のみだった。いくら鈍感な名前でもこの意味がわからないはずはない。
「……ッ!?」
「オレが何て言われてるか知ってて挑発したんだろォ?名前チャンは」
金城からの情報だが、ここ洋南大学の自転車競技部でも荒北はどんどん頭角を現していると聞く。『洋南の荒北』は大学レースに出ている者の間で何と言われているか知らないわけではない。
(野獣)
これも金城から教えてもらったのだが、荒北は高校時代からそう称されているらしい。名前が初めて見たレースでの印象は間違いではなかったということだ。
「狙った獲物は逃さねーのが獣の性分だからなァ」
「それはレースでの話でしょ」
「レースをしててもしてなくてもオレはオレだろ」
「それは、そうだけど」
「だから名前はおとなしくオレに食われとけよ」
いつの間にか壁際まで追いやられていた名前に逃げ場はない。これは観念するしかなさそうだ。だが一つだけ間違っていることがある。
「靖友」
「ンだよ」
「好き」
「……ッ!?」
荒北の襟を掴んで引き寄せると、その口に食らいついてやる。驚いて動けない荒北が正気に戻るまでたっぷり10秒。名前は獣の味を堪能してから唇が離れただけの至近距離で囁く。
「靖友だけが獣だって誰が決めたの?狙った獲物がか弱い獣とは限らないんだからね」
ニヤリと笑うと、盛大にため息をついた荒北が名前の髪を一撫でする。そして少しだけ眉を下げてから、大きな手が頬に触れて再び唇が重なった。
***
初恋の相手は野獣でした。
野獣にもう一度恋をしました。
そして野獣も恋をします。
だけど野獣が好きなったのもまた……?
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