*溢れた本音
1番に部室に来たと思ってドアを開けると予想外の先客がいた。
「苗字さん」
「泉田。早いね」
3年は受験シーズンで自由登校だ。すでに進路が決まっている福富や新開はたまに顔を出してくれるが、一般受験組の荒北や苗字は久しく顔を見ていなかった。
「お元気そうでよかったです」
「受験生は体が資本だよー。泉田もちゃんと鍛えてるね」
服の上からでもわかったのだろう。苗字は満足げに微笑んだ。
「あの…今日はどうしてここに?」
「ああ。合格発表だったの。先生に結果報告にきたから部室ものぞきに来たんだ。そうそう明早に合格したよ」
「それを先に言ってください!おめでとうございます!」
祝いの言葉を言いながら新開の喜びは相当のものだろうと想像する。新開はこの恋人のことを本当に大事にしているのだ。
しかし泉田はインターハイメンバーであったにもかかわらずあまり苗字と接点を持たずにいた。その理由はあまりに幼稚で、泉田自身認めがたいものだったから。
だが今はこの部室に2人きりだ。そして彼女はもうすぐ卒業する。
「あの…ご本人を前にこんなことアレなんですが」
「いいよ。言っちゃいなよ」
「ボクに近い人たち…新開さんやユキはあなたにとても惹かれています。ボクはそれに嫉妬していました」
初めて吐露する本心だった。
高校生にもなって、ましてや伝統の箱根学園自転車部の主将となった今、そんな個人的な感情を打ち明けるつもりもなかったのに。
苗字があまりに嬉しそうな顔でこちらを見ているから……。
「取られたとか、そういうんじゃないんです。ただ、自分が憧れている人に憧れられて、自分が頼りにしている人に頼りにされる人間に、ボクはなりたかった」
単なる自分の力不足ではないか、と諌める自分がいる。だが、後にも先にもこの人とこんな風に話すのは最後かもしれない。そう考えたら口が勝手に開いていた。
「私もね、泉田が羨ましかったよ」
驚いて顔を上げる泉田に、苗字は照れを隠すように首を傾げた。
「泉田はさ、隼人から託してもらえたんでしょう?大切なもの」
苗字の指差す先にあるのは箱根学園ジャージが入ったバッグだ。
「黒田も葦木場も真波も大切なものを受け取ってる。重すぎるかもしれないけど、それを背負っていけることが私は羨ましい。どれだけ望んでも、私はそれを託されることはないんだ」
不満だったわけではないだろう。彼女は必要とされていたし、確かに必要な人間だった。マネージャーだからといって部外者扱いをする者もいなかった。選手からの信頼も厚かった。
だが、それでも叶わないものがあったのだ。
「少しだけ思っちゃったよ。私も同じ景色を見たかったなって」
「苗字さん…」
「特に泉田は1番同じ景色を見れてるんでしょう?それってさ、妬けるよね」
なぜ新開や黒田がこの人にあれほど惹かれてやまないのか。綺麗だとか、優しいとか、そういうことでないのだろう。泉田はやっとわかった気がした。
「苗字さんは欲張りですね。新開さんにあれだけ想ってもらって、まだ欲しいものがあるんですね」
「そう。私って無い物ねだりなんだ」
苗字はクスクスと楽しそうだ。
ずっと心の中でもやもやと燻っていたものが晴れていく。
自分が持っていて彼女が持っていないもの。彼女が持っていて自分が持っていないもの。
そんなものばかりなのだ、きっと。
「今日、話せてよかったです。改めて合格おめでとうございます」
「ありがとう。私も話せてよかったよ」
話せてよかった。だがもったいなかったかもしれない。もっと早く話せていたら彼女への印象は違うものになっていただろうに。
「合格されたこと、新開さんはもうご存じなんですよね?」
「まだ言ってないよ」
「はい?」
きっと今か今かと待っているはずだ。こういうのは時間が経つほど悪い考えになっていくものだから、早く伝えてあげた方がいいに決まっている。
泉田の言いたいことを察して苗字が気まずそうに顔をそらす。
「言うとさ、ちょっと面倒なんだよね」
「面倒?」
泉田が訝しんでいると部室の外でバタバタと足音がする。
「名前っ!!」
「隼人?」
けたたましい音を立てて新開が飛び込んでくる。
「何で教えてくれないんだよ!!今そこで名前の担任から聞かされて…っ!おめでとう!!」
「ありがと…う!?」
泉田がいるにもかかわらず、新開が苗字を抱きしめた。大きな新開の体に苗字はすっぽり隠れてしまう。
圧倒されてただ見つめることしかできない泉田を前に2人の抱擁は続く。腕の中で苗字が身じろぎしているが、体格差でどうにもならないようだ。
「あー名前だ」
「ちょっと、隼人離れてよ」
「無理だな。待ちぼうけしちまった」
言うが早いか、新開が苗字に口付ける。いや、単に口付けというには少し密度が高すぎた。当然だが、泉田はこれほどの熱いキスを目の前で見たことなどない。
「……っはぁ、隼人っ!」
「まだだ。どれだけ待たされたと思ってんだ」
「ここ、ぶ…しつだからっ!いずみだいる…っ」
「…泉田?」
キスされながら必死に主張する苗字の甲斐あって、新開がくるりと振り向いた。
その瞬間、泉田は状況を飲み込んだ。
「………泉田」
「はい」
「ちょっと、出てくれるか」
「はい」
「はぁ!?ちょっと泉田!そこは止めるとこっんん」
部室のドアをそっと閉める。
向こうから後輩たちが泉田を見つけて手を振っている。悪いが部員たちには倉庫の片付けからさせようと、泉田は1人頷いた。
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