01
自転車の名門、箱根学園に入学した黒田を待っていたのは野獣の罠だった。
「何なんだよ、あの人」
初対面でニオイを嗅がれて暴言を吐かれた。ただの新人いびりかと思ったら、飢えた獣よろしくゴールという獲物に執拗に食らいついてペダルを回す。
完敗だった。
「黒田くん」
今日も追いつけずにへばって寝転んでいたら、黒田の視界に綺麗な顔が入ってきた。
「はい、水分補給はちゃんとしてね」
「あざます」
慌てて起き上がりボトルを受け取りながら、荒北と同じ学年の女子マネージャーだったなと記憶を辿る。
喉を動かす黒田をニコニコ眺めるマネージャーにやりにくさを感じていると「うん、いいね」と勝手に頷く。
「黒田くんさ、この練習メニューやってみる気ない?」
強引に渡されたメニュー表を広げると、そこにはふざけているとしか思えない内容が書かれていた。
「荒北に勝ちたいんでしょう?」
その一言に顔を上げると、マネージャーが不敵に笑っていた。整った顔立ちのそれはゾクリとする迫力がある。
もう一度メニューに目を通すと、量の多さはともかく内容そのものは非常にバランスよく組み立てられていた。
「やります」
「はは。その目、いいね」
瞳の奥を覗きこまれているようだった。
入部して1ヶ月足らずのうちに、この自転車競技部の容赦のなさは身に染みて理解していた。彼女はその中でマネージャーを務めているのだ。
(すっげぇ美人だけど、この人もヤバイんだろーな)
そう直感したのに、その日眠る前に思い出したのは唇が綺麗に弧を描く苗字名前の微笑みだった。
***
「タイムまた伸びました!」
苗字が渡してきたメニューの効果は絶大だった。半信半疑やり始めたものがこんな早く目に見えた成果が出るとは思わかったので気分の高揚は半端ない。
苗字の姿を見つけて駆け寄っていく。
「あのメニュースゴイっすね」
「あれはきっかけだから。黒田がちゃんとサボらずやってるからだよ」
「…あざます」
まだまだ頑張れと叱咤されるつもりが褒められてしまい拍子抜けする。
しかも美人の微笑み付きで言われてしまったら素直になるしかない。
「あのっ…」
「苗字、ちょっといいか」
「何?」
黒田がさらに声をかけようとすると奥から苗字を呼ぶ声がする。どうやら2年の選手のようだった。
黒田も何を聞こうとしたわけではない。だがもう少し話していたかったなと惜しい気持ちになった。
「苗字さんまた記録更新しました!」
「新人戦の結果出ました!」
「メニューのことなんですけど」
黒田はことあるごとに苗字に報告へ行った。
苗字の反応は様々で、褒める、励ます、時には厳しいことを言って突き放す。その全てが黒田には新鮮で、もっと彼女の顔を見ていたいと思うようになっていた。
「何でオレにあのメニューくれたんですか?」
ある日深く考えずに聞いたことがある。
「黒田なら荒北を負かしてくれる気がしたから」
「なんスか、それ」
「黒田も持ってるみたいだから。ここの奥に、燃えるもの」
人差し指が黒田の左胸に触れる。
心臓に直接触れられているかと錯覚するほどそれは鋭い刃物のようだった。
「苗字、明日のメニューのことで相談なんだけど」
「うん、今行くよ」
呼ばれて去って行く苗字の後ろ姿を見送る。
指先から緊張が伝わっていたのではないかというほど鼓動が速い。
あの目だ。人の奥のそのまた奥にあるものが見えるかのような鋭いまなざしが黒田を捕らえて離さない
顔が熱を持っている。しかし今はその理由を考えてはいけない気がして黒田はローラー台に向かった。
***
「辞退、しちゃってもいいすか?」
絶対だと思われていた2年トップのスプリンターである新開がインターハイを辞退したのはまもなくだった。
黒田はもはや新開が別の生き物に見えた。
なぜそんな顔で立っていられるのか。これまでの練習はなんだったのか。
根幹を揺るがすような衝撃だった。
そして次に苗字はこんなこと絶対許さないだろうと思った。
黒田の知る彼女はそうだった。
(すっげぇ怒ってるだろうな)
部室の後方。ミーティングの時は選手の背中を守るような位置にいるのが常だった。
周りが騒然とする中、やはり苗字はそこにいた。
「……!」
黒田は全身が震えた。
苗字は立っていた。
怒りも悲しみもそこにはなく、ただ前を向いて立っていた。
隣で東堂が何か話しかけているが微動だにしない。
黒田はその姿がこれまでよどの苗字よりも本物に見えて、とても綺麗だと思った。
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