*名前を呼んで
「わっかんねぇ」
「わかんなくてもいいから続けて、荒北」
ノートに書かれた単語を指差しながら自分も単語帳をめくる。
口答えされるかと思えば髪をガジガジと掻いて机に向かっている。用意していた反論を飲み、真剣なその表情を見つめる。
「ンだよ」
「いやぁ本気なんだなって」
「本気じゃなくてこんなメンドクセーことすっかよ」
高校3年秋の受験生としては合格だ。本命が洋南と聞いて心配していたがまだ希望は捨てなくてもよさそうだ。
「荒北、何で苗字にマンツーマンで教えてもらってんだよ」
「アァ?」
「苗字に勉強教えてもらうとか荒北にはもったいないって話」
クラスメイトたちが荒北と名前を囲んでだべり始める。主に男子だが中には女子も混じって荒北を揶揄している。
「てめェも教えてもらえばァ?」
「いや、いい。苗字と至近距離なんて集中できない」
「ンだよ。意味わかんねェ」
「靖友は名前に教わってるのか。羨ましいな」
荒北が再びノートに対峙した時、頭上から間延びした声が降ってきた。相変わらず隣のクラスに入ってくることにためらいがない。
「だーからァ、おめーも教えてもらえばいいだろォ」
「名前は俺には教えてくれないんだよ」
肩をすくめる新開を無視して名前は荒北のスペルミスを指摘する。
新開は名前の椅子に無理やり割り込んでお尻半分で座る。体が大きいのでかなり狭い。密着度が高い。
「邪魔しに来たのかよ」
「名前に会いに来たら靖友に取られてたんだ」
「人聞きのワリィことゆーんじゃねーよ。っつーか昼休みでもねーのに来んな」
荒北が顔を上げずに悪態をつく。名前も荒北の間違った部分の解説をし始める。
「名前、今日の放課後空いてるか?」
「受験生に何を言ってるの?」
「最近オレのこと放置してねぇか」
「何か言った?推薦組」
「なぁ苗字ここォ」
クラスメイトたちは2人の態度に目を丸くしている。
確かに1人はチームメイト、1人は恋人への対応としてはあまりにぞんざいだ。しかし新開はそれくらい気にしないしめげない。
「構ってくれないとオレ溜まって死ぬ」
「聞かなかったことにしてあげるからこれ以上余計なこと言わないで」
ただでさえ密着している体がすり寄ってくる。人前、ましてや教室で新開がこんなふうにベタベタしてくるのは珍しい。
「なー名前ー」
とうとう新開が名前を抱きしめて顔を埋めてくるので教室中がどよめいた。
確かに最近模試続きで構っていなかったのも事実だが、こんな風に甘えてくるとは思わなかった。もしかすると言葉以上に限界なのかもしれない。
早々に切り上げて新開に付き合った方がよさそうだ。
「ごめん、荒北…」
「名前」
低い声が名前を遮る。
「靖友じゃなくてオレのこと呼んで」
顔があと1センチというところまで迫る。青い瞳は名前しか見えていない。
「名前」
切羽詰まって熱を持った声は名前の体を疼かせた。
我慢していたのは新開だけではなかったのだと今更ながら思い知る。
「苗字、ソイツ連れてけよ」
荒北が顎で教室のドアを指す。
平然としているが名前の内心も見透かしているのかもしれない。
「次の授業出ろよ。フォローしねェかんな」
「善処する」
こんな大勢に見られた後で授業をサボる勇気はない。だが、果たして叶うだろうか。
「荒北の邪魔だから行こう」
「また靖友のこと呼んだ」
荒北が「めんどくせーな」と呟く。
巻き付いた腕を離さない新開をそのままに名前は立ち上がる。たぶん自分の望むものが得られるまで放すつもりはないのだろう。駄々をこねる子供のようだ。
教室を出ても予想通り新開は密着したままだ。半ば引きずるように移動しているのを他のクラスの生徒たちがやはり驚いた目で眺めている。
「新開はどうしたんだ?」
途中、福富とすれ違う。どう考えてもいつもと違う2人にさすがの福富も訝しんでいる。
「福と……」
申し開きをしようとした口が冷たい手で覆われる。無骨で大きな新開の手だ。
「オレ以外を呼ぶなよ」
福富が目を見開く。
これには名前も驚愕した。新開が福富にこれほど露骨に嫉妬するとは。
後ろから抱きすくめられているので新開の表情は見えないが、きっと名前の想像ははずれてはないだろう。
福富に一言詫びて歩調を速めた。
***
いくつか知っている人が来ない教室の中から1番近い場所を選んだ。
内側から鍵をかけたのと同時に体が解放される。
名前を見下ろす新開の瞳は青い炎に見える。
ゴクリとのどを鳴らしてから、息を深く吸って口を開く。
「隼人」
それが合図だった。
新開の厚い唇が名前のそれに押し付けられた。腰と頭に手を回され、身動きすることもかなわなくなったが気にならない。この感情の嵐を全部受け入れるつもりで、名前は新開を抱きしめる。
「隼人」
キスの合間を縫って囁く。
「はや、と」
舌が入り込んできてうまく言えない。それでも名前は名前を呼ぶことをやめなかった。
新開は言葉ごと飲み込むように名前に口づけた。
何度か名前を呼ぶ時に舌を噛まれそうになっても、口内を犯し続けた。
お互いを抱き潰してしまいそうなほどの強い抱擁は、名前が新開の舌を絡み取ったところでようやく緩められた。
見上げた新開は安心しきった子供のように無防備な微笑みを見せた。
「放課後、空けておく」
「ん。そうして。もっとオレのこと呼んで」
もう一度、今度は下唇を甘噛みすると優しく髪を撫で始めた。
「もっともっと呼んでよ、名前」
甘い声は名前の耳から下半身へ届く。本能に支配されそうになったところに荒北の忠告を思い出す。
「我慢な?放課後、だろ?」
誰が言い出したと思っているのだと、文句を言おうとしたところで予鈴が鳴る。
どちらからともなく手を絡めて廊下に出た。大きな手はいつの間にか温かくなっていて離しがたい。
「隼人」
「何だ?名前」
「何でもない」
「そっか」
手がいっそう強く握られる。どうやら名前の気持ちは伝わったらしい。
もっともっと伝えたくて仕方ない。
早く放課後になればいい。
時間が早く過ぎてほしいと思ったのは本当に久しぶりで、こんな日があっても悪くないなと名前は笑った。
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