*You're my hero.〜epilogue〜


郵便受けの中に入っていた一通の封筒。
『東堂尽八様』の筆跡に覚えがある。
その封筒から中身が何かまで推察したところで、東堂はあの頃を思い出す。


***


それは誰も予期していない一言だった。

「辞退、しちゃってもいいすか?」

箱根学園自転車部は騒然となった。
先輩後輩同級生問わず批判や罵りの言葉が飛び交った。それを痛くもないという様子で受け止める新開こそ怖いと感じた。そして次に気になったのは――。

「行かなくていいのか」
「行かないよ。私はマネージャーだから」

新開を追って行ったのは福富だった。
当然追うだろうと思っていた。だが、彼女はそこに留まって、止むことのない新開への罵詈雑言を逃すまいと聞いていた。俯きもせず真っ直ぐ前だけを見据えて、口を結んでただ耐えるようにそこに立っていた。
東堂が寮の新開の部屋を訪れたのはその数日後だった。新開は驚いた風だったが、すぐに東堂を招き入れた。

「この前はすまねぇな騒がせて」
「オレはいい。オレは来年必ずゼッケンを取るからな」
「はは。頼もしいな」
「そうじゃないんだ。隼人は他にも気にかける人間がいるだろう」

ビクリと新開の肩が揺れた。

「あれから話したか?」
「…いいや」
「そうか」

東堂は彼女と同じクラスだ。部活では何でもないように振舞っている彼女が、教室でふとした瞬間暗い顔をしているのを見かけることがある。それは授業中のほんの僅かな瞬間で、東堂以外の誰も気付いてはいない。

「隼人はそれでいいのか?」
「………」
「手放すか?」
「元々オレのものじゃないぜ」
「荒北の言葉を借りるなら『このボケナス』といったところか」

2年でインハイに出てリザルトを取れたら…。
新開の望みは常に高みにあった。
しかし届かない理想ではなかった。
だからこそ溢れ落ちたものは重いのだろう。

「アイツには話せない…」

新開にとって彼女がどれだけ大きな存在か。
大切で大切で、だからこそ自分の歪みを目の当たりにした今、新開は彼女に触れることができない。
新開のこれまでを思えば彼の考えていることは想像に難くなかった。
相変わらず部活には来ない新開が再びペダルを回し始めただろうことは何となく察していた。だが彼女と新開が2人で話している姿は見かけることがなかった。彼女はいつものようにマネージャーの仕事をしていた。
気になるのは黒田が彼女にどんどん近づいていることだった。黒田が彼女に好意を持っているのは知っていたが、以前より積極的にアプローチしているように見えた。

「それ、新開の牽制がなくなったからだろ。あいつ独占欲強かったからな」

荒北が溜息をつく。言われてみれば思い当たる節がいくつもあった。
彼女が新開に呼ばれて黒田との会話を打ち止める光景を何度か見かけた。もしかすると黒田は気付いていたかもしれない。

「あのボケナスが…」

荒北の呟きは少し前の東堂の発言を肯定するものになった。


***


「まだ戻っていない奴がいるのか?」

まだまだ夏の日差しが強い日だった。
彼女の手元にあるタオルが1枚残っているのに気付いて東堂が尋ねた。
彼女は選手たちが外を走り終えるタイミングでタオルを渡す。皆、彼女がただタオルを用意していると思っているがそんなことはない。彼女はいつも過不足なくきっちり人数分を用意しているのだ。

「もう全員戻ってるよ。1枚多かったね」

珍しい間違いもあるものだと、その時はそれで終わった。
だがまた翌日も彼女の手には1枚だけタオルが残っていた。そしてその次の日も。
確信を持ったのは福富との会話だった。

「次のレースのエントリーリストをまだ出していないようだな」
「ごめん、まだ出してなかった。締切までには出すよ」
「そうか。顧問がいつも早めに出ているから心配したと言っていたぞ」

(待っているのか)

あいつを。
ひたすらに待っているのか。
そこまで考えて、そうではないと自分の考えを訂正する。

(信じているんだ。新開を)

新開は自転車を降りていないだろう。
そのことを彼女が知っているかは知らない。
だが信じているのだ。
ここに戻ってくることを。

(オレは勘違いをしていた)

新開の想いの強さは知っていた。だから聞いたのだ。手放していいのかと。
しかし彼女の方は新開自身が引き止める行動をしていない以上仕方がないのだと思っていた。黒田の想いに圧される形になっても、残念だが受け入れるしかないのだろうと。

(オレも『ボケナス』なのかもしれないな)


***


「尽八」

翌日の放課後、部室へ行く途中で複雑な顔をした新開が声を掛けてきた。

「尽八だろ?」
「何のことだ」
「昼休み、ウサ吉のところに来た」
「たまたまウサギが好きだと聞いたのでな。校内にウサギがいることを教えてやっただけだ」

昼休みが終わっても彼女は教室に戻って来なかった。その次の時間にようやく戻ってきた彼女の目は赤かった。あのウサギのように。
2人の間で何をどう話したのかは知らない。知る必要もない。
ただ、2人があの場所で話をした事実があれば十分だ。

「…ありがとな」
「言っただろう。オレはウサギがいることを教えただけだ」
「そうだな。でも、ありがとう」

それからは少しずつ2人の距離は元に戻って行った。時折見せる新開の罪悪感や後ろめたさに彼女が涙を流すことはあったが、全てを打ち明けたであろう新開から彼女が離れることはなかった。
そして秋になると新開は部活へ戻ってきた。
彼女は相変わらずマネージャーとしてそばにいた。


***


本当に偶然だった。
その日、東堂は部室の鍵当番で最後に見回りをしていた。しかし部室が以前と何か違う気がしてよくよく眺めてみたのだ。

(洗われたタオルがある)

以前は部活終わりに全て棚にしまっていたはずだ。

(補給ドリンク用の粉末が出ている)

なぜか数回分だけ置いてある。

(メンテの道具も一式……)

それは意図的に出されているにもかかわらず、東堂が注視しないとわからないくらい違和感なく置かれていた。悟られないために、常日頃から少しずつそうしていたのか。いつからだろう。それすらわからない。

(知っているんだな)

門限を無視して消灯ギリギリまでペダルを回す人間がいる。
今東堂が握っている鍵は、この後その人間に渡される。
タオルも粉末もメンテ道具も使われないかもしれない。でも必要になるかもしれない。
その時のためだけにここまでやるのか。

(万が一必要になって手にとっても、たまたまあったようにしか思えないはずだ)

どれだけの想いだろう。
彼がペダルを回すことだけを考えていられるように。
ただそれだけのために彼女はどれほどのことをしているのだろう。

「本当にオレは勘違いをしていた」

あの日、彼女は俯きもせず真っ直ぐ前だけを見据えていた。口を結んでただ耐えるようにそこに立っていた。
あれは耐えていたのではない。
覚悟をしていたのだ。
ひたすらに彼を信じ続けていくのだと。
そのために自分にできることをするしかないのだと。

(ああ、どうか……)

彼女が幸せに笑う日が訪れてほしい。
2人が当たり前に隣で寄り添う日が続いてほしい。
東堂は暗い部室の中で祈るように思った。


***


「さて、もう時効だろうな」

ポストに入っていた一通の封筒。
差出人はすぐわかった。取り出すとシンプルなデザインのカードが入っている。
日時と場所が印刷してある中に手書きの文字が添えられていた。

『友人代表のスピーチ宜しくね』

たったそれだけ。
しかし胸が熱くなる。
話したいことはたくさんあるようで、一つしかないように思えた。

「ばらしたら烈火の如く怒られそうだったから言わないでおいたが…。まさか花嫁が披露宴で怒りの形相はできんだろう」

ああでも新郎が泣いてしまうかもしれないな。東堂は独り言を漏らしながら携帯を取った。
快諾の返答と心からの祝福を伝えるために。




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