*[終]ヒーローの定義


歓声で沸き立つ中を潜り抜ける。
テントに入るとドッと疲れが出て、倒れるように椅子に腰を下ろす。

「おつかれェ」

他の人間が気を遣ってそばに寄って来ないのを無視して荒北が隣に座る。手には自分用のベプシなので、言葉に反してそれほど労うつもりはないようだ。

「優勝オメデト」
「サンキュ」

それだけ伝えると特段用事もないので2人揃って無言の時間を過ごす。苦痛ではない空間に、新開は目を閉じて体を癒す。
女子マネージャーが表彰式の時間を伝えに来たので改めて時計を見たところで、荒北が周りをキョロキョロうかがっているのに気付いた。

「靖友?」
「苗字はァ?」
「名前?名前なら他の奴のところだろ」
「優勝したのにおめーのとこには来ないわけェ?」
「ああ、来ないな」

荒北が断言する新開を訝しむ。今しがた来た女子マネージャーも名前ではなかった。こういう時は恋人の優勝をいの一番に祝いに来るのが定石なのだろう。荒北の言いたいことが手に取るようにわかる。

「ケンカ、じゃねーよな」
「ああ。ラブラブだ」
「ッゼ。古いんだよ。ンじゃあ何で来ねーの?」

もっともな疑問なのだが、果たして本当のことを言っていいものか。
しかし誤魔化したところできっと荒北には嘘だとバレてしまうに違いない。

「なぁ靖友、レースの後ってアドレナリンが溢れてねーか?」
「そりゃそうだろ」
「そういう時ってシたくならねぇ?」
「あー………」
「レースの興奮状態で、ましてや優勝してさ、そこで名前が笑って近づいてきたらオレは絶対名前を抱き潰す」

新開の真剣な表情に、荒北が頭を掻く。

「それってダメなわけェ?優勝の祝いでヤラせてくれてもいい気がすんだけどォ」

場所とか程度はあるけどな、と付け加える。
ご褒美にという考え方は確かにあるなと新開も思う。

「それならもっと後…体が落ち着いてからだな」
「今ヤリてーんじゃねーの」
「ああシたい。でもダメだ。名前はレースの興奮を収めるための道具じゃない。オレは名前を抱く時はアイツが好きだって感情で抱きたい」

体じゃなく気持ちで抱きたい。
正直、嫌がる時に抱いたことがないわけじゃない。でも名前は許してくれる。それは新開が愛情から抱いていることをわかってくれているからだと思う。

「だから苗字はレース直後のおめーのところには来ないのか」
「来ないでほしいって言ってある」
「で、苗字は何て言ってんの?」

名前の気持ちは無視した自分の都合だ。なのに名前は「わかった」と笑った。

「オレのやり方で大切にするって約束したんだ」

大切にできているだろうか。
いつだって考える。
あの日の約束を違えないように。

「新開」
「ん?」
「レースの後苗字見かけたけどな。あいつ泣いてたヨ」
「……!」
「おまえ左抜いただろ。個人レースでも左を抜いた。ちゃんと見てんだよ、そういうの。あいつはさ」
「靖友」
「ずっと待たせたんだから報告して来い」
「でも」
「小難しく考えすぎなんだっつーのォ。おめーが苗字を好きじゃねー瞬間なんてあんのかよ」
「……ないな」
「来ないでほしいだァ?そんなこと言う前にもっと伝えることあんだろボケナスがッ」

気付いたらテントの外で走っていた。
驚いた選手たちの顔も、もうすぐ表彰式だというマネージャーたちの声もどこか違う世界のようで、ただ明るく見える場所に進んでいくと会いたかった愛しい人の姿があった。

「隼人?どうしたの?」

新開の姿を認めると体調でも悪いのかと不安そうに駆け寄ってくる。光が近づいて来るみたいだった。手を伸ばしてその光を包み込む。

「名前ごめん。オレ、自分のことばっかりで…」
「え?何!?隼人?」

名前は当然戸惑っている。
普段レース後に会うことを拒む新開が来ただけでも驚くことなのに、なぜこんな目立つ場所で今抱き締められているのか全く見当がつかないのだろう。
優勝者、しかも箱学のエーススプリンターの新開はこの場所にいて知らない者はいない。
突然の抱擁にどよめきが起こる。

「優勝したよ」
「うん。おめでとう」
「オレ、左を抜いた」
「うん。見てたよ」

そうだ。彼女はずっと自分を見てくれていた。出会った時から見守り続けてくれていた。
そして新開もまた彼女を見てきた。目移りなんかする間もなく彼女だけを見つめてきた。

「走ってるところ、やっぱりカッコいいよ」
「オレが?サーヴェロが?」
「まだ覚えてるの?忘れて、それ」

忘れるわけがない。忘れられっこない。
その一言が始まりだった。
自分と彼女が初めて笑い合った日だ。

「名前、好きだ。好き…好き…」

告白した時も、初めて体を重ねた時もこんな風にたくさん好きを連呼した。
彼女に対するこの感情は、普段考えている自転車のことも仲間のことも、期待も贖罪も、全てを包み込んでしまうほど大きい。
名残惜しい気持ちで名前の体を解放する。
もうその言葉に躊躇いなどなかった。

「名前、愛してる」

幸せを噛みしめるようだ。
全身が、心が満たされていく。
「やっと言えた」と新開が微笑むと、名前の頬に涙が伝った。
涙を閉じ込めるように頬に手を添えると、新開の体温を感じようと頬をすり寄せてくる。

「名前、これからはレースが終わったらオレのところに1番に来てくれるか」
「行ってもいいの?」
「来て欲しい」

誰よりも最初に触れて伝えたい。
恐れる必要などなかった。
新開が約束を守ろうとしている限り、名前はどんな感情でも受け止めてくれる。
名前は涙を湛えたままの瞳を細めると、頬からはずした新開の手をぎゅっと両手で包み込んだ。

「ねぇ隼人」
「何だ?」
「あの日、隼人は私のことをヒーローだって言ってくれた。でもね、後悔して、迷って、立ち止まって、それでもここまで進んできた隼人は私のヒーローだよ」

いつもこの小さな手に助けられてばかりで、ヒーローになれる日はずっと遠い果てにあると思っていた。

「こんなのがヒーローでいいのか?」

絞り出した声は少し震えていた。

「強くて勇ましいのがヒーローだと思ってる?」
「違うのか?」
「ヒーローって心の中心にいる存在のことでしょう」

愛する人への想いは尽きることなく溢れてくるものだと知った。
こんなにも。
こんなにも人を愛することができるなんて。
耳朶に唇が触れるほど近くで囁く。

「名前、ありがとう。愛してる」


***


いつからと言われたらあの時だ。

よく晴れた夏のはじめ。

あの時君に恋をした。

毎日君に恋をした。

恋は愛に変わってこれからも続いていく。

これからもずっと続いていく。




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