*傘を貸してくれますか
大雪でさすがの自転車部も今日の練習は休みになった。ローラーや筋トレの室内練習も禁止されて早く帰宅・帰寮するように言われた放課後。
新開は寮の自室に戻るとやる気をなくすので居残って課題をやった。居残りがバレたら怒られるが、勉強のためだと言えばそれ程ではないだろうと踏んだのだ。
1人残って課題を終えて教室を出た廊下はやはり誰もいない。さすがの文化部も今日は帰宅令が出ているのだろう。
「……何で苗字がいるんだ?」
誰かいると期待したわけではない。空だと思って見た隣のクラスの教室によく知る姿があった。正確にはよく知る人間のあまりお目にかかれない寝顔があった。
机の上には新開と同じようにノートが広げられていて、どうやら同じ算段で居残りをしていたらしい。
(よく寝てるな)
新開が近づいても起きる気配がない、
前の席に座って屈みこんで見てもスゥスゥと寝息が聞こえるだけだ。
(疲れてんだろな。いつも色んなこと頼んじゃってるしな)
何かと頼りにされる彼女は同級生から先輩からあらゆる人間からの頼まれごとを抱えている。それを笑顔で引き受けるのを見かけるたび心配になるのだが、弱音を吐かずに向き合っている。
(もう少しだけ…)
寝かせてやりたい気持ちだけでないのは自覚している。この寝顔を独り占めしていたいのだ。
雪は音もなく振り続けている。帰れなくなった時はその時だ。鞄に入っていた文庫本を取り出して捲り始める。
雪は外界の音を吸収する。おかげで苗字の寝息がよく耳に届く。
(本の内容が入ってこない)
それでも何とか読み進めていると時折「んん…」と寝ぼけて悩ましげな声がする。その度に体を巡っていく血と戦った。途中何度か起こそうかとも思ったが、理由が自分の理性がもたなそうだからではカッコ悪すぎて諦めた。
「ん…?しん…かい?」
「起きたか?」
「何でいるの?夢?」
「夢じゃないよ」
「そっか…会いたかったから夢見たのかと思ったよ」
それこそ半分夢の中にいる苗字がもう一度目を閉じる。
再び規則的な呼吸音が始まると、新開は風船の空気が抜けたように勢いよく息を吐いた。
「ダメだろ今の。オレ試されてんの?歯止めきかなくなったらどうすんだ…!」
大きめの声で訴えたが反応はない。
だが今起きられても困る。絶対真っ赤な顔をしている。正直、下もヤバイ。
「このくらい許してくれよ」
眠っている苗字の前髪を上げて額に唇を付ける。
彼女の夢の中に自分はいるだろうか。
カッコ悪いところ見せないでくれよ、と何に対してかもわからない願いを抱いて、新開は席を立った。
***
「やっぱり新開だ」
新開が教室へ戻ると苗字が鞄にノートを入れているところだった。今度こそ覚醒したようだ。
「この本と鞄、新開のだよね?」
「ああ。ちょっとトイレ」
馬鹿正直に話してしまったが、苗字はそのまま受け取ったようで深読みしてくることはなかった。
湿気で曇った窓越しに外を見ると雪はだいぶ弱まっていた。
「帰れそうだね」
「ああ」
無事帰寮できそうなのは何よりだが、さっきの苗字の発言でいつもより強気な新開はふと思いついたことを言ってみた。
「苗字、傘貸してくれるか」
「忘れたの?」
「まぁそんなとこ」
「鞄から折りたたみ傘見えてるけど」
「バレたか」
浅はかな発言はあっさり見破られ、下心は打ち消される。
ガッカリした様子を隠しもしない新開に苗字が苦笑する。
「ねぇ新開、傘貸して?」
「…………」
「ダメ、かな?」
「…おめさんさぁほんとマジやめてくれよ、そういうの」
「貸してくれないの?」
「貸す!貸すよ!!っつーかオレ以外から借りないで」
降参して両手を挙げる。
満足そうに微笑む苗字はどうしようもなく愛しくて、またトイレに駆け込みたい衝動に駆られるのをどうにか抑える。
「苗字」
「何?」
「おめさんの寝顔可愛かったぜ」
仕返しのつもりで言ってみると、頬を染めた苗字がやはり可愛くて抱きしめたくなってしまい、新開は結局後悔することになったのだった。
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