*You're my hero.


いつからと言われたらあの時だと答える。


***


箱根学園に入学して3ヶ月と少し。高校の部活にも慣れてきて自分以外にも目を向けられるようになった。ふと気付けば、最初はたくさんいたはずのマネージャーがほんの数人に減っていた。

「寿一は気付いてたか?」
「ああ。初めは興味本位で入るが仕事がキツくて辞めるらしい」

ということは、今残っているのはそのキツくて辞めたくなる仕事をしてくれている人たちだ。内心で感謝したところで、福富の言い回しに引っ掛かりを感じた。

「誰かに聞いたみたいな言い方だな?」
「1年マネージャーの苗字に聞いた。同じクラスだからよく話す」

新開にとってはマネージャーがいなくなった理由よりも、福富とよく話す女子がいることの方が驚きだ。これまで女子からは怖そうという理由で遠巻きに見られていた福富とほんの数ヶ月で話せるようになるどころか、福富自身が“よく話す”と認めているのだ。
新開が苗字名前を意識し出したのはそんなきっかけだった。


***


よくよく見てみると苗字名前は非常に働き者だった。ただ動くだけではなく気が回るタイプのようで、上級生にも仕事ぶりを評価されていた。マネージャーに適正があるのだろう。さらに男子からは苗字が美人である要素も加わって気に入られていた。
そして事実、福富とよく話していた。福富のクラスに行くと2回に1回は苗字と話しているところだった。新開がクラスを訪ねたのを察して、福富に「新開くんが来てるよ」と教えることが何度もあった。

「そう言えばあまり話したことないな」
「苗字のことか?」
「うん。寿一は何話してるんだ?」

上級生のマネージャーを含め、ほとんどの人間が新開に積極的に話しかけてくる中、苗字はあまり近付いて来なかった。挨拶はするし用事があれば会話もする。そういうスタンスの人間もいるが、福富と話している様子はそうでもないように見える。

「ほとんど自転車のことだな。まだ詳しくないと言って聞きに来る」
「へぇ」
「自分でも勉強しているんだろう。聞きに来る度にレベルアップしているのがわかる」

その瞬間、新開は天と地がひっくり返るかと思った。福富がこれ程わかりやすく誰かを褒めるなんてことは3年の付き合いの中で経験がない。
福富にここまで言わせる彼女は何者なのだろう。
新開は苗字名前に興味を持った。


***


新開が外コースを終えて部室の裏で休憩していると、トンと背中にぶつかる音がした。振り返ると、選手の使ったタオルの山が立っていた。おそらく1年のマネージャーだろう。

「大変だな。手伝おうか?」
「ありがとう。でも大丈夫だよ。このくらいすぐだから。新開くんはちゃんと休憩してて」

大量の洗濯物が入った籠の向こう側から苗字の声がする。この山の正体は彼女だったか。
言われた通りボトルを片手に座っていると、その横の物干しに苗字がタオルを干し始めた。そして本当にあっという間に風にはためき始めた。

「たいしたもんだな」
「あはは。慣れだよ、慣れ」
「苗字さんは寿一と話してるけど、怖くないか?」
「怖い?…ああ、誤解されやすそうだよね福富くん。でも私は福富くんの走ってるところを見てるから」

走っているところを見て何がわかるのか。普通なら抱きそうな疑問だが不思議と彼女の言葉はスッと新開の胸の中に入って来た。
容姿。愛嬌。自転車を引き合いに出したから。理由としてはどれも当てはまるようで少しずつズレている。

「新開くんの走ってるとこも見たよ。サーヴェロかっこいいね!」
「………サーヴェロが?」
「………あ」

プッと吹き出す。悪気はないだろう。新開も別に気にしない。しかしそう言ってくる人間は珍しかった。

「新開くんもかっこよかったよ!…って説得力ないね」
「ああ、ないね。オレはサーヴェロが褒められた方が嬉しいからいいけど」
「それならよかったかな。次は新開くんを褒めるよ」
「そんな風に言われて喜べないだろ」

彼女と話してみてわかったのは言葉の裏表のなさだ。
なるほど福富とも話せるはずだ。
福富は人の表面だけの言葉に反応しない。
そして新開の心にシコリなく入ってきたわけもそれだろう。

「馬鹿正直って言われないか?」
「初対面でも遠慮がないとは言われる」

憮然とした態度に今度こそ声を出して笑う。

「笑いすぎじゃない?」
「いやあ苗字さんの見た目に反してその物言いは良いよ」
「そういう新開くんこそ」
「お互い様だな」

次は補給の準備だという苗字に手を振って部室へ戻る。小さな背中は今日もせわしなく動き回っている。
苗字名前は確かにいいマネージャーだ。
新開は苗字に対して純粋に人として好意を持った。


***


「あれ?寿一はいないのか?」

ある日福富を昼に誘おうとしたが教室にいない。近くにいた苗字に聞いてみると、苦笑しながら答えてくれた。

「福富くんなら日直で教員室だよ。もしかすると話の長い先生だから捕まってるかも」
「寿一そういうのから逃げるの下手だからな」
「真面目に聞いちゃいそうだよね」

教員室で福富が表情を変えず教師の話を聞いている姿を想像してしまう。苗字も同じだったらしく笑いを堪えている。

「寿一はしばらく帰ってきそうにないな。苗字さん、昼は?」
「私?これから購買に行くよ」
「なら一緒に食べないか?」

深い意味も下心も全くなかった。
単純に同じ部活の同級生と昼ご飯を食べる手軽さで誘ったのだ。だから苗字の次の質問は意外なものだった。

「新開くんって自分のことに無頓着なの?」
「何のことだ?」
「んーまぁいいや。お昼、一緒に食べようか」

含むことがありそうな顔で名前が財布を手にして立ち上がる。言及しようとしたが、苗字はもう気持ちを切り替えていたので触れることをやめた。
昼休みは中庭で部活や自転車の話で盛り上がった。わからないことは素直に聞いてくるので新開は丁寧に教えていった。福富の言う通り勉強しているらしく飲み込みもよかった。真剣に聞いてくれる相手に説明するのは思いのほか楽しく饒舌になっていった。
苗字は新開がたくさん食べるのを見て驚いた後「だからあの走りなんだね」と微笑んだ。

(ああ。見ていてくれたのか)

これまで多く話してこなかった彼女が自分の走りを見ていてくれた。
それがわかって、どうしてか胸が熱くなった。
苗字との昼休みは新開にたくさんの感情の波を作った。穏やかなようでざわつくようで。しかしどの感情も不快なものはなく、新開にとっては満たされた時間だった。


***


「新開。オマエ、自転車が速けりゃ手ぇ出すのも早いのか?」

その日の放課後。
校舎脇の水道で顔を洗っていると2年の先輩が数人連れ立って新開の前に立ち塞がった。
最後に水道を使ったため他の部員たちはすでに部室へ戻っている。多勢に無勢だ。

「苗字に目ぇ付けたのかよ」

何のことを言われているのかわからなかった新開も昼休みのことだと理解した。
そういえば苗字は美人なのだ。そういう意味で彼女を好きだという人間も多いと聞く。あまりに新開や彼女自身の容姿や周囲の評価を気にしない態度で接するものだから忘れてしまっていた。
だがそれだけではないのだろう。苗字のことはある意味きっかけだ。自転車以外の取っ掛かりができたことが彼らの背中を押した。

(自分のことに無頓着ってこれか)

新開は新入生の中では目立った存在だ。それを疎ましく思う人間も少なからずいる。
そこに苗字と仲良くしているという要素が加われば誰かしらの起爆剤になる。彼女は初めからわかっていたのだ。だから必要以上に新開と接してこなかった。

「おい、聞いてんのか?」
「聞いてます。でも同級生と飯食うのが悪いとは思わないですよ」
「開き直んなよ!」

普段なら反抗しないはずの新開の態度にカッとなったのだろう。先頭に立っていた先輩がこぶしを振り上げた。
彼女は笑った。サーヴェロがカッコイイと言った。一緒にパンを食べて自転車の話をした。
新開はそんな小さなこと一つ一つの全てがとても嬉しかったのだ。
だから彼らの言葉を否定してあの時間をなかったことにするなら殴られる方がいい――眼前に拳が迫ったその瞬間だった。

「先輩!ここにいたんですか?」

校舎の角から出てきたのは屈託のない笑顔の苗字だった。
手にタオルを数枚持って駆け寄ってくる。

「人数分用意したのに余ったから探してたんですよ」

綺麗なタオルを2年たちの手に押し込むように渡す。拒否する理由もなく彼らは黙って受け取ることしかできない。

「タオル使ってください。お話し中だったみたいですみませんでした」
「…いや、もう終わった。タオルありがとう」

それ以上何を言うこともできず、2年生たちはゾロゾロと部室へ引き返して行く。その中の一人が新開の方をチラリと窺い「さっきのことは言うな」と視線で脅してきた。
苗字はニコニコと良きマネージャーの顔で見送っている。
彼らの姿が小さくなって、残されたのは新開と苗字だけになる。

「苗字さん、ありがとな」

どう考えても新開は助けられた。

「あと、ごめん。オレ、苗字さんが言ってたことわかってなくて」
「新開くんの良いところだよ。自転車のこととか見た目とかを鼻にかけないのは。でも自覚はした方がいいかな」

弁解の言葉もない。
沈黙してしまった新開に苗字は真新しいタオルを差し出す。ちょっとだけ落ち込んでいたのを気付いたのかもしれない。
顔を埋めたタオルからは柔軟剤と陽射しの匂いがする。それだけだが、少しだけ元気をもらえた気がした。

「苗字さんはヒーローだな」

調子を取り戻した新開がバキュンポーズを向けると、苗字は困ったように肩をすくめる。

「ヒーローじゃないよ。こうなるのがわかってたのに新開くんと一緒にお昼を食べた私も悪いんだから」
「そう言えば何で誘いに乗ってくれたんだ?」

あの時彼女は途中で忠告をやめた。そもそも何かしら理由をつけて新開の誘いを断ることもできたはずだ。
深く考えず出た質問に苗字の表情が固まった。先程までズバズバと新開を説き伏せていた態度は消えて目が泳ぎ始める。新開がどうしたのかと顔を覗き込むと、意を決したように口を開いた。

「……一緒にお昼食べたかった、じゃダメかな」

したたかに上級生を追い払った彼女と同一人物とは思えないほど小さな声だった。目を合わせない代わりに、揺れた髪の間から真っ赤に染まった耳が見える。

(…………ヤッバイな)

普段のマネージャーとして動く姿。教室で福富と話している姿。新開の知るどの彼女とも違う。

(すっげぇカワイイ)

頭を撫でたい。
髪に触れたい。
頬に触れたい。

(違うな。抱き締めたい)

新開は苗字に手を伸ばした。あと数ミリで触れるかどうかのところまできて、校庭から聞こえてきたサッカー部のホイッスルの音で我に返る。
新開の心臓はレース後のように激しく動いている。
さすがにこの感情の名前は知っていた。

「苗字」

苗字が驚いて新開を見上げる。

「明日も昼、一緒に食べないか?」

新開の提案にますます目を丸くしている。
反省していないと怒られるだろうか。きっぱり断られてしまうだろうか。今の新開には彼女の反応を正確に予想することができない。

「私が女子に絡まれたら、助けてくれるんでしょうね?新開は」

そう言って彼女はイタズラっぽく目を細めた。
これだから彼女はいい。
新開にはその全てが眩しく見える。

「そうだな。その時はオレが助けるよ。オレも苗字のヒーローになりたいからな」


***


「仲良くなったのか?」

部室に戻ると福富がローラーを回していた。苗字と一緒に戻ってきたのを見ていたらしい。

「ああ。仲良くなった」
「そうか」
「寿一、苗字のことどう思ってる?」

フェアじゃないのは好きじゃない。まして相手は福富だ。

「好感が持てる。……安心しろ。マネージャーとしての話だ」
「あれ?バレてる?」
「バレないと思ったのか?」
「いいや。さすが寿一だな」

いつからと言われたらあの時だ。
ヒーローみたいにピンチを助けてくれた女の子。
真面目でしたたかで、そのくせどこか抜けていて恥ずかしがる姿はこれ以上なく可愛らしい。
温かい気持ちをくれるのに鼓動をせわしなくさせる。

そんな女の子に恋をした。




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