sputnik killer



 境界の彼方の件が終息し、一応ではあるが普通の日常に戻りつつある。
 栗山さんは記憶を失い、泉姉さんは行方をくらませ、そして俺は変なものが見えるようになったことを除いては。
 一週間程前からだ。黒い霧状の人型をしたものが、一定の距離を保ってじっと佇んでいる。それは何かを呟いているのだが聞き取れることはなく、手を出してくる様子もなかった。
 そして、どうやら妖夢でもないようだった。というのも、檻で切り裂いたり、空間ごと切り取って消滅させようとしたのだが全く効果がなく、他の異界士にはそもそも見えていない様子だったからだ。そのため、打つ手がなく放置している。
 初めこそ戸惑ったが、どんな非日常でも時間を重ねれば慣れてしまうもので、今となっては特に気にはならなくなった。
 と、言うより、単にそれどころではなくなったのだ。
 最近ローブをまとった不審な人物の目撃が報告されている。今のところ被害はないが、名瀬の管轄内で起こっていることだ。早めに対処しなくてはいけない。俺にしか見えない黒い霧のことなど、構っている場合ではないのだ。
 卒業し、当主へと就いた俺は朝から晩までローブの人物の捜索と、妖夢討伐に追われている。そんな忙しさの中では、あまりソレについて考えることもなくなっていた。
 名瀬の異界士にそれぞれ指示を出し終え、自分も捜索がてら討伐に向かおうとコートに手を通す。と、ニノさんが俺を呼んだ。

「ちょっと、最近顔色酷いけど大丈夫なの?当主だからって張り切るのもいいけど、あんま無理すんじゃないわよ」
「心配性だなぁ。それに俺、もう生徒じゃないんだから」

 そう冗談めかして返すと、ニノさんは「う゛」と苦虫を噛み潰したような顔をした後、「ちょっと前まではそうだったでしょ!」と言い捨てて踵を返した。
 姉さんが姿を消してから、ニノさんなりに俺や美月を気にかけてくれている。なんだかんだとニノさんとも付き合いが長いからか、少しの変化もバレてしまうようだ。
 これではいけないな、と内心ごちる。
 もう当主なのだから。
 姉さんはいない。
 お爺様も身を引いた。
 俺がしっかりしなくては。
 顔を上げると、目の前にあの黒い人影が俺を見下ろすように立っていた。
 今までこんな至近距離に近づいてきたことなどなかったため驚いて後ずさる。と、ぼそぼそと何事かを呟いているようだった。いつもなら聞き取れないのに、ノイズ混じりの声は確かに言葉を発している。

「お……で」

 聞いてはいけないと頭の中に警鐘が鳴り響いた。
 恐怖に駆られて踵を返し、声を振り払うように早足で扉に手をかける。その最中も影は何度もその言葉を発し続け、ノブを回す時、やけにハッキリと俺の耳に届いた。

「おいで」



**

 あれから毎日、毎朝、毎晩。それはずっと俺に「おいで」と囁き続けた。日に日に聞き覚えのある声に変わっていくようだったが、誰の声かまでは定かではない。声が鮮明になるにつれて影の色も少しずつ薄くなっているようで、人の形がある程度わかるようになってきた。
 雨合羽を着ているようなシルエットで、背は俺よりも少し高い。顔は見えず、輪郭が薄ぼんやりとわかる程度。
 だが、知らぬ相手ではないような気がする。どこかで確かに顔を合わせたような既視感と僅かな嫌悪感。
 そうして、記憶と影を照らし合わせる時間が少しずつ伸びていった。そんな俺の姿は他の人にはぼんやりしているように見えるらしく、ニノさんと美月が真剣な表情で休めと言ってきた。美月に心配された時は嬉しくて、喜びをそのまま言葉に表したが「ふざけるな」と一蹴されてしまった。
 仕事に追われ眠る時間が削られているのは確かだが、別に疲れているわけではない。かと言って、影のことをどう言えばいいのかもわからなかった。ありのままを言えば、それこそ頭がおかしくなったと思われるだろう。
 聞かれても適当に流すと、2人とも微妙な表情を浮かべた。
 そんなある日。いつものように妖夢討伐へと出た先でそれは起こった。
 妖夢を囲い、弾けた檻が青白い光の粒となって舞う中。少しばかり疲れたな、と思って立ちすくんでいると、初めて見た頃と比べて随分と黒い影が薄くなったそいつが、こちらをじっと見つめるように立っていた。
 いつものように少しだけ距離を置いて佇むそいつから、吹き抜ける風に黒色だけがさらわれて姿形が鮮明に映し出される。現れたのは、深緑色のローブを被った男のようだった。
 目を凝らして顔を確認しようとすると、風に煽られフードがずれる。その拍子に深緑の眼鏡をかけた顔の男の顔が現れた。

「お…前……」

 現れた姿に絶句する。
 忘れようもない。名瀬家を引っ掻き回し、世界を破滅へと導こうとした男。姉さんに妖夢を宿した張本人、藤真弥勒だ。
 そいつはゆっくりとした足取りでこちらに近づいてくる。いつものように「おいで」と繰り返しながら、一歩一歩確実に。
 逃げなくてはと思うのに、藤真が言葉を発する度に鋭い痛みが頭を支配して動けない。その間も、藤真はじりじりと距離を詰めてくる。

「博臣さん。ほら、こっちにおいで」

 痛む頭を抑えながら檻を張ろうと手をかざした時、その手がぬるい温もりに包まれる。藤真だ。藤真に、手を握られている。
 指の一本一本を絡めて握りこまれ、ぞわ、と悪寒が背筋を舐めた。
 視線を上げると、口端を釣り上げて笑う藤真弥勒の顔が視界いっぱいに広がり、そして。

「捕まえた」

 その言葉を最後に、俺は意識を手放した。






-------------------------------------------------------
次へ







「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -