愛と偶像、それから信仰


「  」

 白い午前の光の中で、誰かが俺を呼んでいる。彼女だ。
 風に、彼女の髪が靡いている。顔は隠れて見えない。それでも彼女だとわかる。
 彼女は、俺の名前を呼んでいた。呼ばれた名前は覚えているのに、もう声も思い出せない。遠い昔の記憶だ。

「   、 」

 声は聞こえない。それでも、覚えている。




「好きです!」

 上擦った声に、みちるは咄嗟に飛び込むようにして草かげに身を隠した。
 告白だ。その光景を見ずともわかった。女性のものだとわかるその細く高い声は、頼りなく震えていた。
 みちるは誰かに愛の告白などしたことがない。だからその言葉に込められた勇気やその他諸々の想いは計り知れないのだが、その行為が自分には計り知れないほどの感情でもって行われていることはわかる。
 すごいなあ。みちるは素直にそう感じた。そしてそれゆえにそのすごい光景をみたいとも感じてしまっていた。言うまでもなく好奇心だ。
 みちるはこっそりと顔を覗かせた。茂る葉々の隙間から彼らの姿が見える。見える、といってもみちるの視界に入るのは、告白されたであろう男の、くすんだ白いコートの後ろ姿だけであり、声をあげた女性の姿は男の向こう側に隠れてしまっていた。けれどそれだけでもみちるの気持ちを盛り上げるには十分だった。
 どきどきと高鳴る鼓動を感じながら、じっと男の背中を見つめる。あわよくば、成就する瞬間がみたい、と願いながらみちるは胸の前で両手をぎゅっと握った。
「すまない」
 それはにべもない断り文句だった。一刀両断を体現したような温度をした返事だ。それこそみちるがぎょっとしてしまうくらいには。
 いや、みちるがぎょっとしたのは、その声の持ち主を知っているからだった。みちるは思わず男の背中に目を凝らした。
「俺は既婚者だ」
「エッ」
 予想外の言葉におもわず唇から声がまろびでた。すかさず両手できつく口を塞いだが、時既に遅し。ぴくりと男の頭が動いたのが見えた。気づかれている。みちるは確信した。そして同時にこの男が、みちるの恩人(?)である大神士郎であるということも誤差なく確信していた。




 大神士郎が、絵を描いている。
 その事実が、みちるにとってはなんだか、これ以上ないくらいに衝撃的なことに思えた。
 士郎はみちるの居候先である獣協の居住スペースのリビングでカンバスに向き合っていた。手には細い絵筆と木製の丸いパレットがある。リビングには油絵の具の匂いがうすく沈んでいる。
 その光景はどこか張り詰めていて、神秘的でさえある。
「…士郎さん?」
 みちるはつい、その背中に声をかけた。つい確かめるような声になったのは、無意識のことだった。
 士郎が振り向くと、なんとなく空気が緩んだ気がして、みちるは息を吐いた。知らずのうちに息を詰めていたらしい。
「何描いてるの?」
 背後から覗き込んだカンバスには、白い女性が描かれていた。白いワンピースを着た、色の白い女性だ。髪までもが白い。顔は、靡いた髪に隠れて見えない。
 その女性が、黄金の原っぱでこちらを向いて佇んでいる。

「これ、士郎さんが描いたの?」
 上手いねえ、と言いながら顔を見上げると、なぜだかじっとりとしたじめついた視線とかちあった。何だその目は。思わず見返すと、ますます眉間に皺が寄った。
「お前は俺のことを観察するのが趣味なのか」
「へ?」
 みちるは突然のその言葉に、目を瞬かせた。士郎は「やれやれ」とでも言うようにため息をついた。
「昨日、見ていたんだろう」
 きのう。その言葉を心の中で反芻する。昨日、士郎さん。その単語が方程式となって頭の中でまっすぐに答えを導き出した瞬間、みちるの体は垂直に飛び上がっていた。もちろん、逃げるために。しかし、それを士郎が許すはずもない。みちるが駆け出すよりもはやくその首根っこを士郎が捕まえていた。その間およそ1秒。そしてフローリングの上にみちるを強制的に正座させるまでわずか0コンマ2秒の早業だった。

「で?」
「いや…そのぅ…」
 カンバスに筆を乗せる士郎の足元で、みちるは居心地悪く正座していた。士郎はみちるを力でもって押しとどめたくせに、声をかける以上には構わずにただ静かに筆を動かしている。
「見ていたんだろう」
「えっとぉ…」
「告白」
「はい…」
 逃げ場を断ち切っていく尋問にみちるは素直にうなずいた。それに、ほとんど確信をもっている士郎の視線からこれ以上逃げられそうにもなかったのだ。
「俺としては嬉々として、お前があの話を弄くりにくると思ったんだがな」
「そ、そんなことしないって!」
「…なんだ、一丁前に気でも遣ってる気か?」
「…そういうわけじゃ、ないけど」
 士郎が言っていることは、みちるの内面に関してはかなり正確だとみちる自身思った。あの告白で、単純に士郎が断っただけならそれはもう嬉々として、根掘り葉掘り話を聞こうと突撃しただろう。けれど、そうしなかったのは、彼が「既婚者だ」と答えたからだ。
 みちるは、士郎を冷たいひとだとは思わない。人間嫌いは未だ解消しきったわけではないだろうが、それでもむしろ誠実で懐の深い男だと思う。今までの付き合いがお世辞にも長いとは言えないが、それでもああいう場所で、士郎が嘘をつくとは到底思えなかったのだ。
 だから士郎が語ったことは嘘ではない、というのがみちるの見解だ。なら、士郎の妻はどこにいるのか。みちるはすぐにそう考えた。そうして、みちるの頭の中に浮かんだ答えはひとつしかなかった。

 ぐしゃ、と頭を押し付けるように撫でられてみちるは我に返った。士郎の大きな手が、雑に髪の毛をかき回していた。
「えっ、な、なに!?」
 その意味がわからず、士郎の手を掴もうともがくが、士郎はそれを軽くかわしてみちるから手を離した。みちるが見上げると、士郎はひどく穏やかに笑っている。
「別にそんなに気を遣われるようなことじゃないさ」
 みちるから視線を外して、士郎はまたカンバスを見た。女性の顔は、やはり見えない。
「確かに、彼女はとっくに死んでる」
 士郎は再び絵筆を持ち直して、白いワンピースに、髪に、絵の具を重ねる。
 彼女。士郎はそう言った。士郎がそんなふうに丁寧に呼ぶ人がいた事を、みちるは初めて知った。
「でも、俺を生かしている獣人達の中に、彼女もいる」
 ニルヴァジールで、彼女は死んだから。とても静かな声だった。
 そうやって、誰も彼もを失って、生きてきたのだとわかった。みちるには一生わからない感情だ。一生を超えて生きている、このひとの心など。
「死ぬまで、一緒に生きているんだ」
 死が、二人を分かつまで。
 そんな朗々とした声が、みちるの頭の中に響いた。
 白い女性の口元は、微笑んでいるように見えた。


 その夜、みちるは夢を見た。いや、これは士郎の夢なのかもしれなかった。
 青い野原で、士郎と誰かが手を繋いでいる。白い女性だった。顔は見えない。けれど、声が聞こえた。
「ねえ、  」
 彼女は、みちるのしらない言葉を話した。けれど、不思議なことに意味は知れた。呼んだのは、士郎の名前だ。ただ、みちるの知らない名前だった。もしかすると、それはいつかの彼の名前だったのかもしれない。
「ねえ、約束してね」
「ああ」
「本当よ? 本当に、約束よ?」
「わかったって」
 ふたりの声は、穏やかだった。彼が微笑んでいる。それは、見たことのない顔だった。きっとこれは、いつかのありふれた幸福の光景だったのだ。



 翌朝、士郎はこう言った。

「声が聞こえたんだ」

 その表情は、夢の中の彼によく似ていた。

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