手折られぬ花





 月に何度か、それは休日であったり、テニス部の練習が終わった後であったりした。柳蓮二は近くの寺に足を運ぶ。大抵の時は読みかけの本を片手に、時々読経を聞くために、あとはお茶に誘われたから、という時もあった。理由は様々だったが、とにかく柳はその寺をよく訪ねた。
 その日は日曜日だった。10月の第二日曜日。柳の所属するテニス部には月に二回、練習がない日曜日がある。そのうちの一日が今日だ。偶の休日に、柳はなんとなく読みかけの小説を手にして寺まで足を運んだ。
「あら、蓮二くん」
 柳が四脚門をくぐると、尼僧がふと振り向いた。その尼僧はまだ年若く、美しい姿をしている。尼僧は柳の姿を目に留めるなり柔らかく微笑んで、柳の方へ歩み寄った。
「……掃除をなさっていたのですか」
 柳は彼女の手にしている竹ぼうきを目にしてそう尋ねた。尼僧は微笑んだまま「ええ。もう秋だから」と答えた。既に年が明けるまで三か月を切り、寺の敷地内にある銀杏の葉は地面を黄色く染め上げていた。確かに掃除が必要だろう、と柳は彼女に頷いてみせた。
「手伝います」
「まあ、平気よ。そのうち、お兄さんたちが来てくれるから」
「……と、貴方は言う。しかし名前さんが一人で掃除をしているのを放って、呑気に読書はできそうにありませんから」
 冗談めかした柳の言葉に尼僧、名前はくふくふと笑い声を漏らした。名前というのは彼女の戸籍上の名前で、僧名は他にあるがそれは柳と名前しかいないこの空間ではあまり重要ではない。柳にとって今重要なことは、己が彼女にその名前を呼ぶことを許されている人間のうちのひとりだということだ。
 柳は寺務所の入り口に竹ぼうきがいくつも立てかけてあるのを見つけて、そのうち一本を手に取った。持っていた本は、寺務所の正面にある授与所の窓口の隅に置いておいた。
 柳が竹ぼうきを手に名前のもとに戻ると、彼女はにこにこと微笑みながら柳を見上げた。名前は特別小柄なわけではないが、身の丈が180センチを超える柳よりはずっと小柄だった。名前は柳を見上げているせいか、ほんのり眩しそうにそろりと目を細めた。
「蓮二くんはやさしくていい子ね」
「……ありがとうございます」
 名前の言葉に、柳も微笑んでみせた。彼女はただ穏やかな微笑みをしたまま、再び黄色く染まる地面に視線を落とした。そのまま箒をうごかし始める。柳もそれに倣い手を動かした。
 柳は自分が特筆するほど「やさしくていい子」ではないと理解していた。人並みに親切ではあるかもしれないが、それだけだ。
 柳には、下心がある。このうつくしい人によく見られたいという、年相応な見栄のようなものだ。柳はただ、名前のことが好きだった。
 手を動かす度に、箒がざらざらと音をたてる。穂先で黄色い地面を掻き分けると見慣れた黒い地面が顔を出す。こうして柳がわざわざ掃除を手伝うのも下心のためだった。彼女にいい人間にみられたくて、少しでもその彼女の心の内側に入り込みたかった。名前に出会ってからというもの、柳はそればかりを思っている。
「蓮二くん?」
「、はい」
 やわらかな女性の声で、柳は我に返る。ピントのはっきりした景色の中に尼僧の姿があり、柳はそれで、いつの間にか手を止めて彼女の姿を見つめていたことに気づいた。彼女はうつくしい微笑みで「疲れているのね」と言った。
「蓮二くん、学校とテニス部で忙しいのでしょう。それで疲れているのよ」
「……そうでしょうか」
 少し離れたところにいた名前は柳に近寄ると、優しい手つきで柳から竹箒を取り上げた。仮に柳が手のひらに力を込めれば、名前のその動きを押しとどめることはできただろう。しかし柳は逆らわずに手のひらから箒が逃げていくのを見送った。
 名前は寺務所の入り口に自分の分の竹箒もあわせて立てかけると、そこから柳を手招く。
「お茶を飲みましょう。蓮二くんだし、お兄さんたちも怒らないわ」
 ひらひらと名前の白い手が揺れる。柳はそれに浮かされるように、手招かれるまま、名前に続いて寺務所の中に足を踏み入れた。
 名前の言葉が、柳が子供だからなのか、それとも名前と親しいからなのか、少しだけ考えて、前者であろうと頭はいやに冷静に結論をはじき出す。昔から名前にとって柳はただの子供だった。

 寺務所の中は一般的な民家と同じような作りをしている。柳は何度か入ったことがあるが、それでも本堂との差異をいつでも意外に思った。
 煎茶の香りがあたたかく広がる。寺務所の奥のキッチン、柳は急須を手にした名前の隣に立っていた。ふくよかな形をした汲み出し茶碗がふたつ、盆の上に隣り合っている。柳は名前の手が、魚が泳ぐように、淀みなく動くのを静かにみつめていた。
「座っていていいのよ?」
 名前は手を止めずに、ちらりと柳を見上げた。尼頭巾からのぞく、名前の額のまるい輪郭や鼻筋がひどく眩しく思え、柳は細い目をさらに細める。
「名前さん、お茶を手にして転んだことがあるでしょう」
「ふふ、いやだわ。もうそんなドジ、踏まないわよ」
「冗談です」
 柳は名前に微笑みかけた。柳と名前の距離は、どちらかがあと足一つ分体を動かせば肩が触れ合うほどの距離だった。二の腕のあたりに名前の気配を焦げ付くほど感じながら、柳は口を開いた。
「見ているのが好きなので、気にしないでください」
「そうなの?」名前はまた笑った。笑って「不思議な子ね」と言った。
 柳はそのすべてにうちのめされたような気分になりながら、変わらず名前のことを見つめていた。
 柳が名前と出会ったのは、もう4年も前のことになる。柳が神奈川に引っ越してきて、すぐの頃だ。そのころに比べれば、背丈はずっと高くなり、いつのまにか名前の背丈も遥かに追い抜いてしまった。それでも年の差という名の断絶は、その身幅を、当時と一つも変わらせることなく、二人の間に横たわっている。
 名前にとって、柳はいつまで経ってもこどもだ。世間一般からして、中学生というのはこどもに違いない。それは間違いのないことだ。ただ、その意識というものは、柳が名前を簡単に制圧できてしまうことを、彼女自身に忘れさせていた。彼はすでに、名前が簡単に頭を撫でることができていた、かつての「小さくてかわいい蓮二くん」ではないのだ。
 柳は名前の横顔や手首を眺めながら、そっと、彼女を引き倒してその袈裟の下にある柔肌暴く想像をした。動線や、名前の身長、体重、その他諸々あらゆる事を、息をするように自然と、柳の頭脳は計算した。
 簡単だ。あまりにも冒涜的なその行為は、名前を相手取るなら、柳にとってあまりにも容易い。算出されるその答えは、いつだって同じだ。
 しかし同時に、いつだってそれだけだった。柳の計画とも妄想ともとれるその計算は、いつも答えを算出するだけで終わる。柳にとって大切なことは、実行することではなく。実行できるという答えなのだ。それを想像して、計算することは、名前への、柳を無害なこどもだと信じているすぐ隣の手弱女への、自己満足的な報復のようなものだった。
「さあ、お茶にしましょうね」
 名前が煎茶を注ぎ終わったところで、柳は彼女の目の前から茶碗の乗った盆をひょいと片手で取り上げた。名前はきょとんとして、柳を見上げた。まるで小動物のような仕草に柳は頬を緩ませた。
「俺が。名前さんが転んではいけないので」
「もう、冗談だって言ったのは誰よ」
 名前が柳のことばに無邪気に笑う。名前がそうやって微笑んでいるさまは、柳にとっての幸福の情景だ。柳の中にある衝動と、そのあまりにも穏やかな幸福の姿は、いつでも共存していた。しかしそれは、名前のもつ“僧”という肩書がつなぎとめているようなものだった。もし彼女が仮にふつうの女だったとしたら、その均衡はとっくに崩れ去っていただろう。
 名前は僧侶だ。仏に帰依し、欲や執着とは乖離した存在だ。だから名前は誰のものにもならない。誰が手を伸ばしても、彼女の心を手に入れることはできない。その事実のみが、柳の心に平穏を与えている。
「でも蓮二くんはやっぱり、優しいいい子ね」
 名前は穏やかな声で言う。名前はいつだって、そればかりだ。その言葉はいつも柳をひどく惨めにさせた。
「……そうでしょうか」
 柳は名前の頬につと手を伸ばした。ほとんど無意識であったと言ってもいい。ただ、そうしなければならないという渇望めいた何か、激しい衝動が、柳を突き動かした。けれども中身にそぐわず、ひどく静かな仕草だった。
 親指を、頬骨の形を確かめるように動かす。親指以外の余った手指は、尼頭巾の中に差し込まれた。ほんのりとあたためられた空気が、柳の指にまとわりつくようだった。柳は身長もさることながら、手も年の割に大きく、指も長い。中指などは名前の頸椎あたりに届かんというほどだ。名前の首のあたりは熱いほどで、その熱は触れた指先から、柳の内側に浸食していくようだった。柳の指が耳の裏の生え際あたりをなぞる。名前は髪を剃り落としているのでただ滑らかな感触が柳の指の腹を伝う。もしもこの場に第三者がおり、その様子を目撃していたならば、それがひどく性を匂わせるものだとわかるだろう。
 しかし名前は一瞬目を見開いたあとで、いつものように微笑んで、あまつさえ柳の手に、己の手を添えた。
「なあに、どうしたの?」
 柳は表情を動かさぬようにとくべつに気を払いながら、ゆっくりと手を引き抜いた。
「すみません。頬が、汚れていたので」
「そうなの。ありがとう、優しいのね」
 柳は彼女がいうような、“いい子”ではない。だが、柳はいつも、彼女を思う通りにすることなど、ひとつもできなかった。だって名前はきっと、いっとうに憎むことすらしてくれないと、知っているからだ。

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