午前十時、うららかなる日




 優しい男だった。少なくとも、私にとっては。

 かち、と銀のフォークが食器を鳴らした。音に顔を上げると、ちょうど彼の口にケーキが消えていくところだった。怜悧な相貌をして、存外甘いものを好む人なのだ。ダーハルーネのケーキは特に彼の気に入りの品だった。
「……なんだ」
 私の視線に気が付いて、彼がじっとりとした恨めしそうな声を出す。かわいい男だ。ケーキを好むということを、彼はいつも隠したがる。私に対しては、もうずいぶんと前からさらけ出していたが、それでも未だ照れくささや気恥ずかしさは残るらしかった。だからこういう風に見ていると、彼はいつも拗ねた子供のようになる。
 体面を気にするのだ。鬼才、軍師ホメロス。そういう称号のために、常に完璧でならぬと思っている男だ。私は彼のそういうところが好きだったが、同時に不安でもあった。
「いいえ。紅茶をもっといかがですか」
「……頂こう」
 私が何か誤魔化したことに気が付かないはずがないのに、彼は何もたずねなかった。それが彼の優しさだった。
 不器用な男だ。誰よりも敏い男なのに、感情のやりとりは誰よりも不得意な男だ。私は彼のそういうところが好きだった。

 たとえ彼が、世界の敵であっても。


「お前宛だ」
 そういって差し出されたのは、一通の手紙だった。生真面目にホメロス個人の封蝋がされている薄い封筒だった。
「……ありがとうございます、グレイグ様」
「グレイグでいい。……昔のように」
 慰めるような彼の声に、顔を上げることができなかった。彼はきっと声の通りに優しい顔をしているのだろう。それがわかるから余計に胸中はかき混ぜられるような心地になった。
 グレイグは、優しい男だ。年が二桁を数える前からの付き合いなのだ。それくらいはわかる。しかしそれは、夫であったホメロスも同じだった。
 三人で王宮を駆け回って、陛下に叱られたことを、ふと思い出した。もう二度と戻らない、遠き情景。ひどく、懐かしかった。
 グレイグが彼の訃報を持ってきたのは、嫌みなほどの晴天の日だった。止めは、彼が刺したという。
「……救えず、すまなかった」
「いいえ、あの道を選んだのは、ホメロスだもの」
「、お前は、知っていたのか? その、ホメロスのやっていたことを」
 赤い封蝋を見つめる。彼はどんな心地でこの手紙を書いただろうか。封筒の端には、彼の趣味ではない繊細な花模様がされていた。それで、本当にこの手紙が私宛だと分かった。きっと、ああでもないこうでもないと、あれこれ手にして迷ったのだろう。あのきれいで冷たい顔を、余計にしかめて、小一時間も悩んだだろうか。その光景が、ありありと思い浮かぶ。
 それで初めて、グレイグの顔を見ることができた。
「……ええ、知っていたわ」
 笑みすら浮かんだ。視界が滲み、目頭がひどく痛む。頬を伝う滴がほたりと、封筒を持つ指先を打った。彼は、そうか、とだけ言って目を伏せた。
 私はホメロスの行いのほとんどを知っていた。彼は承認欲求の強い男で、その発散の先は身近な私に向かったからだ。昏い色をした目をギラギラさせて、魔なる王の野望を私に語る彼はほんとうに美しかった。ことの善悪は、彼の前では些事だった。
 グレイグへの劣等感で死にそうになっていたホメロスを覚えている。渇望と絶望と、そういう濁って満たされないものばかりが彼のそばにあった。眠れぬ夜があった。子供のように手を繋いでいなければ、消えてしまいそうな夕暮れがあった。あの日々に比べれば、いくらも彼に優しい世界だった。
「ごめんなさいね、グレイグ」
 封筒をつまむ指先に力を籠める。すべらかな紙の感触。この小さな四角が、彼のわたしへの最期の感情だ。それをそばにおいて生きていくのだ。
 グレイグはひどく、悲しい顔をしていた。生ぬるい風が、窓に抜けていった。

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