不可侵の額縁




 伊織はふと、足を止めた。ストームボーダーの廊下である。
 無機質な廊下は、必要な機能─例えば排気ダクトであるとか、電力の配給のための配管などである─が必要なだけ備えられているが、逆に言えばそれ以外には何もない。あるものといえば、外界を写す大きな窓である。壁一面に一定の間隔で取り付けられたそれは、ひとつひとつの高さがボーダーの壁の天辺あたりほどもある。それがひとつずつ大きな額縁のような細工に縁どられ、律儀に壁に並んでいる。伊織はそれに微かに「美術館─カルデアでの現界に際し、聖杯から得た知識である─というのは、こういう光景をしているのかもしれない」と思っていた。
 伊織はカルデアに召喚されてからこちら、その日々の中で初めて、額縁の中を、すなわち外をじっと見た。
 音は聞こえない。窓にはめ込まれている硝子の厚さは10ミリに迫り─無論、その防音効果には魔術の作用も含まれているため、外の音をほとんど通さない。ただ、額縁の中で、じっと白い大地がどこまでも横たわっている。
 白紙化地球である。その災厄の本質に目を瞑れば、そこにある光景は静謐で、穏やかでさえある。白紙化された地球の大地の色と、そのざらついた質感は伊織に生前の景色の欠片を思い浮かべさせた。良く晴れた朝、長屋の屋根通りに敷かれた砂に陽射しが白く輝くさま。そういった安穏とした、明るい景色である。
「─伊織!」
 名を呼ばれ、額縁の中から視線をそちらへ向けると、廊下の奥から伊織の喚び人たる藤丸が手を振っていた。隣には可憐な少女の姿をした英霊─真名をナーサリー・ライムという─が藤丸と手を繋いでいる。
伊織は答えるでもなく「ああ」と息をついて、藤丸へと向き直った。
「どうかした?」
 窓の外を一瞥した藤丸が、また伊織を見て尋ねた。こんなところで、という空気を言外に感じ取り、伊織は苦笑する。
「少し考え事を……生前のことを思いだしていた」
 藤丸に倣うように、伊織も再び窓の外へ目をやる。外は変わらず、ただ静謐に、穏やかに、真白いままである。
「それは、なくなった記憶の」
 少しの沈黙の後で、藤丸がそう尋ねた。その声に僅かな揺れを感じ取り、伊織は「いや」と穏やかながらも即座に否定した。どうやら不安がらせたらしい、と伊織は頭の端で状況を分析する。伊織が以前、なにかにつけなくした記憶について思索を巡らせていたことは事実であり、藤丸の動揺もそこに起因していることは間違いなかったが、今の伊織の思考の中身とれはほとんど関係がなかった。
「なんと言ったものか……」伊織は先ほど真白き大地を目にして思い浮かべたこと、詳細に述べるならば“彼女”の影を脳裏で手繰りよせつつ、思考する。それは名前という女だった。
「友人のことだ」
 少し迷い、伊織がそう言うと、藤丸はほんのりと困惑を滲ませながらナーサリーと顔を見合わせた。
「……なんだ?」
 二人の様子に思わず伊織が尋ねると、藤丸は「なんでも!」とぶるぶる首を振った。一方のナーサリーはどこか不安げである。不可思議に思って二人を交互に見ると、視線のぶつかったナーサリーが「ねえ」と小さく口をひらいて、伊織へ尋ねた。
「もしかして、お友達と喧嘩をしてしまったの?」
「あっ、ナーサリー!」
「だって、マスターさん。それってとっても悲しいわ。バッドエンドはうんざりよ。マスターさんだってそう思うでしょう?」
「そうだけど、ほら、そういうのって繊細な問題だから……!」
 藤丸はどこか慌てたような様子で、袖を引く彼女の体を器用に掬い上げる。その口ぶりからして、どうやら二人そろって同じような結論にたどり着いたようだった。
「すまないが、勘違いだ。喧嘩をしたわけでも、不仲だというわけでもない」
 伊織がそう否定すると「じゃあ、さっきの間は?」と素朴な疑問が藤丸から飛び出してくる。それに、再び伊織は唇を引き結ぶ羽目になった。
「……名前さん、という女人だった」
 迷った末、伊織はつぶやくようにそう口にした。その名前を口にすると、伊織の脳裏には彼女の微笑みが浮かぶ。真白き午前の光の中で、愛犬の黒い毛並みをつついている、無垢な横顔である。陽の光で、犬の毛並みの先や、彼女の髪がちらちらと光を散らすようにさえ見えた。あの江戸の町で、伊織が尊ぶべきと感じたものの一つが彼女だった。
 穏やかな景色を思い浮かべるたび、伊織の瞼の裏にはいつも彼女がいる。今もなお、それは変わらなかった。
「彼女は、どう……」どうしているだろうか、と口にしようとしたところで、伊織は今が江戸の時代から三百年以上も離れた遠く離れた未来であることを思いだした。それに、カルデアによれば、伊織の生きた歴史は編纂事象の一つであり、いわゆる汎人類史に続くものではないらしい。それはどうあっても、名前がこの世界のどこにもいないということを意味する。
 自身が存在していながら、名前が同じ空の下に存在しない、という事実に違和感を覚えながらも伊織は言葉を紡ぎなおす。「どう、生きたのかと、気がかりになった」
 ひとつ瞬きをすれば、伊織の脳裏に、あの目貫通りが思い浮かぶ。先の方で、鴇色の着物の名前が手を振っている。それは実際の光景の反芻であるのかもしれないし、伊織の記憶の断片が作り上げた理想の光景であるのかもしれなかった。けれども、どちらにせよ、それは伊織が守るべきと感じた景色に違いない。
 ─それだのに。伊織は唾棄するような心地で、内心で一人ごちる。
「カヤは……妹はきっと、幸福になろう。器用で、器量もいい自慢の妹だ。だが、彼女は……どうだったろうかと」
 伊織にとって名前という女は、妹・カヤ同様に安寧の象徴、幸福たれと願う対象である─少なくとも生前はそのように分類していたはずだった─からだ。けれども今の伊織にとって、そこには少なからず、ある種の祈りや願望が含まれていた。
「そっか、大切だったんだね」
 故に、そう言ってやさしく頷く藤丸に、伊織は苦笑する他なかった。
「……そう、思ってはいるのだが、どうだろう」
 伊織の抱くその祈りこそ、伊織が彼女を“友人”と分類しきれない由であった。
 藤丸とナーサリーは煮え切らぬ伊織の回答に不思議そうな眼差しを浮かべている。伊織は思考を探るように、あるいはその二対の瞳の色から逃げるように視線を落とした。
「彼女のことを、間違いなく、大切だと思う。だが、彼女が、一人で幸福に生きている様を思い浮かべようとすると、どうにも……なんだろうな」
 そう口にしながら、伊織は何か心もとないような心地になり、つい左手を、指先、手のひらと辿るように鞘に触れさせた。その一仕草でどこか思考の芯が鋭くなるような、安らぐような感覚さえ覚えた。
 訳もなく、言い訳がましいような、そんな口ぶりをしていることを伊織は自覚していた。けれども伊織にはそうする他なかった。言葉を、感情を、探りながら話しているためだ。それは生前の伊織が─あるいは死後に至るまで─名前という女を己の思考の不可侵領域に、意識的に追いやっていた、その弊害だった。伊織が彼女に対する感情を言語化せんとするのは、彼の記憶の残っている範疇においては初めてのことだった。
 生活のすき間に過去の姿、こと名前について思い浮かべる時、度々伊織は彼女の幸福な生活を想像した。それは生前に目にした、店先に立つ彼女であったり、はたまた知らぬ赤子を抱く彼女の顔であったりした。後者については彼女に子、そも伴侶さえおらなんだので伊織の妄想に過ぎなかった。けれども何故か伊織は彼女にそのような幸福の像を思い浮かべずにはいられず、それと同時に伊織の腹の、特に鳩尾あたりには重く絡みつくような妙な感覚があった。それは、とても─。
「……不安、不快……?」
 ひとしきり思考に耽った末、ぽつり、と。伝えるでもなく、伊織はそうこぼした。言葉にすると、至極まっとうに腑に落ちるような感覚があった。伊織は「なるほど、不快だったのか」とすとんと納得してしまった。口にも出した。
「ふむ、まあ、そういう具合だ。友人というには誠実さに欠けるだろう。それで、なんと称したものか答えあぐねた」
 そう終いをつけ、落としていた視線を戻すと、二対の瞳が伊織の視界に飛び込んでくる。言葉を交わしていたことを思えば当然といえば当然だが、妙なのは二人の目が妙に輝いているように見えることだった。ナーサリーなどは藤丸の腕の中で、行儀よく足をそろえ、夢見るように手を組んでいる。星の散らばったような瞳でぱちりと瞬きをして、彼女はこう言った。

「素敵、恋をしているのね!」

「は、」

 硬直した。それは伊織の思考であり、エーテルで構成される体の、筋肉の動きであった。辛うじて心臓─サーヴァントの身ゆえ、霊核と言った方が正しい─は無事であるようだった。
 こい。少女が伊織の感情に、そう名を付けた。伊織は正常に動こうとする頭の冷静な部分が、必死にそれを処理しているのを感じていた。
「こい、とは」
 咄嗟にひらいた伊織の口から漏れたのは、掠れたそんな音だった。ほとんど無意識から出た音だった。は、と伊織が我に返ると、少女がにこりと大人びて微笑み、その唇を開かんとするところであった。
「とっても素敵なものよ! お砂糖とスパイス、両手いっぱいの素敵なもの、それと少しの涙で出来ているの」
 ─すなわち恋である。少女の声で、伊織は感情がひとつのラベルに集約されるのを感じた。否。本当は、とうにわかっていた。伊織は唐突に理解した。まるで、薄い埃を払うように、結論までの道筋が明らかになる。恋だからこそ、伊織にとって彼女は理解の不可侵領域だったのだ。彼女をそう定めた瞬間から、それは伊織にとって恋であり、執着だった。
「なるほど、恋か」
 小さく頷いてから、伊織は思案するように顎に手をやる。
「ではあの不快感は一体……?」
「きっとやきもちよ。ふふ、恋だもの。仕方がないわ。恋ってとってもわがままなのよ」
「やきもち……嫉妬か。そうか……」
 そう口にして、伊織は安堵した。体の反射運動のように自然に、自身の眦がにわかに下がり、口元が緩むのを感じつつ、伊織は口をひらいた。
「幸いだ。俺が、今になって気づくような朴念仁だったことは」
 ─でなければ。
 伊織の視線は、自然と腰の二刀に下がっていた。鞘には手のひらが触れたままだ。
 ─無骨な手だ。伊織は瞼の裏に名前を思い出し、己の手をそう判ずる。陶器に触れる、犬の毛並みを撫でる、伊織の着物裾をつまむ、くるくると動く名前の手、あるいは彼女そのものとは程遠い、無骨で節だった手だ。ただ剣を握るための手だ。
 ふ、と短く息を吐くような音を拾い、伊織は顔を上げた。そして目のまえの光景に、眉を下げて苦笑する。
「……マスター、顔が笑っている」
「いや、本当に好きだったんだなと思って。ごめん、馬鹿にしたわけじゃないんだよ」
「同館だ。死して尚、募るとなれば如何ともし難い。恋とはずいぶん恐ろしいものらしい」
「ワ、熱烈!」
 きゃあ、と黄色い声をあげる藤丸は年相応にはしゃいだ顔をして、腕の中のナーサリーと笑い合っている。そのナーサリーがふと伊織を見た。彼女は藤丸へ向けていた無垢な笑い顔のまま「ねえ」と伊織へと呼びかけた。
「これからマスターさんのお部屋でティーパーティーをするのだけれど、あなたもいかがかしら? 素敵な恋のお話を、きっとみんな聞きたいと思うわ!」
「は、話……? いや、俺は……」
 英霊といえど幼子の姿をした彼女を前に、伊織は思わず返答に窮して唇を引き結んだ。自身を口下手と認識している伊織には、自覚したばかりの恋の話など到底うまく出来る自信などあるはずもなかった。伊織は助けを求めるようにそっと視線を藤丸へと投げてみるが、藤丸はといえば、むしろナーサリーに同調するように瞳を輝かせていた。逃げ場はないらしかった。
「……わかった。口は上手くないが、それで構わないのであれば」
 観念した伊織が苦笑と共にそう口にすれば、藤丸とナーサリーはもろ手を挙げて喜び始める。藤丸などは「恋バナ、恋バナ」と口ずさみながら、スキップでもしそうな勢いだった。その勢いのまま廊下を歩き始める二人に追従しようとした伊織は、何気なく窓の外を見た。外では相変わらず穏やかな白い大地が広がっている。
 ─俺が、このような朴念仁でなかったならば。
 ふと伊織は思案する。彼女への恋を、生前に自覚していたならば。そんな仮定について、伊織は沈黙のまま思索を巡らせ、そして息を吐くようにして小さく笑った。伊織なしに幸福に微笑む彼女を思い、不快を覚えた身で、そのような思考問題に意味はない。そう思い至ったからだ。
「─碌なことにはなるまいよ」
 白紙化された大地を映し出す硝子の中に、うっすらと伊織の姿が反射している。それと目を合わせ、伊織は言い聞かせるような口ぶりで言う。
─幸福だ。俺の、この体たらくは。
 硝子の奥、触れられない場所に広がる白い大地を見つめ、伊織は内心で一人ごちる。仮に「誰にとって」と尋ねられたなら、きっと伊織は「誰にとっても」とこたえた。
伊織は結論を呑み込むように暫し瞼を閉じ、そして開く。もう一度窓の外を一瞥し、今度こそ藤丸たちの背を追った。

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