あなたの楽園




 ─ダバダ、ドカン!
 文字にするならそんな音だった。アオサギ探偵事務所のスチール製の扉が、勢いよく引き開かれたせいで壁に激突したらしかった。わたしはあまりの音に思わず身をすくませたが、そこにいたのが見慣れた男だったので途端に胸をなでおろした。
「利飛太くん、なんだ、びっくりしたあ」
 櫂利飛太。アオサギ探偵事務所の所長兼わたしの恋人である。その見慣れた男が、なんだか見慣れない、常ならぬ様子でそこに立ちすくんでいるものだからわたしはつい首を傾げた。彼は珍しいことに、なんだかひどく切羽詰まって、怒っているようにさえみえた。
「どうしたの?」
 わたしは応接セットの真ん中に鎮座するローテーブルに広げていたお菓子やマグカップを片付けながら、彼に尋ねた。利飛太くんは警戒する野良猫みたいに張り詰めたまま、ぱちりと一度瞬きをした。
「……雨森少年は」
 雨森君というのは、利飛太くんの(自称)助手である中学生である。依頼でしょっちゅう留守にする利飛太くんに変わって事務所の留守番─とはいってもほとんどはわたしと楽しくおやつを食べたり本を読んだりしているのがほとんどだ。応接セットに広げていたのも、ちょうど彼とだらだらとティータイムを楽しんだ名残だ─などをしてくれる、なんとも出来た少年だ。しかしいくらしっかりしていても、彼は中学生。夕方になったらおうちに帰るべきなのである。そんなわけで彼はとうに帰宅してしまった。その旨を伝えれば、利飛太くんは少しの沈黙ののちに「そうか」と言ってようやく表情を緩めた。きりきりしていた目の端が、ゆるく下がって、それから、ふう、とちいさく息を吐く。「ならいいんだ」
 独り言みたいにかすかに、そう呟くと、彼はいつものように不敵に目を細める。
「それで、今日は何をしていたんだ?」
 そうやっていつものように、何でもないような顔でわたしに尋ねる。彼はそういうところがある。だからわたしもいつも知らないふりで笑う。たぶん、彼のためにわたしはそうするべきだからだ。


 わたしと利飛太くんは、アオサギ探偵事務所の奥に作った居住スペースで一緒に住んでいる。探偵事務所の経営がいつでも火の車なので、寺務所の場所を借りるお金の他に部屋を借りる余裕がないからである。幸い小さいながらもトイレと炊事場はあったので、なんとか暮らしている。それでもお風呂はないので毎日近くの銭湯に行く。利飛太くんと住むようになってから、二人でマイ桶を買った。それにタオルや着替えをまとめていれて、夜道をえっちらおっちら歩くのだ。
「さむ……!」
 十二月の寒風が風呂上りの体に突き刺さる。遠くないとはいえども、冬に差し掛かったこの季節の夜はあまりにも寒い。桶を片手で抱えながら、空いた手に息を吐きかける。吐いた息が白く濁るので、やっぱり寒いなあと他人事のように思いつつ、実感する。
「なまえちゃん」
 隣を歩く利飛太くんにひそやかに呼ばれて、わたしはそちらへと顔を向ける。いつも溌剌としている利飛太くんは、こう見えてもかなり常識人で夜に出歩くときは、まるで内緒話をするような静かな声でわたしを呼ぶ。
わたしはちょうど息を吐こうとしていた、間抜けた顔で彼を見た。利飛太くんはそれに少し目元を緩ませて、わたしと同じように空いている片手を差し出した。
「手を繋ごう」
 彼の長い髪の間から覗く左目が、優しく弧を描いている。いつも依頼だの調査だのとくるくる回る口は鳴りを潜めて、ただ私のこたえを待っている。やっぱり何かあったんだなあと、なんとなく確信しながらわたしは黙って差し出された彼の手を握った。利飛太くんは誰にともなく、うん、と満足げにしながらまた歩き出す。わたしもそれに引かれるように、彼の隣を歩く。
 なんにもいわないけれど、何か思いつめているとき、わたしの体の形を確かめるみたいに、利飛太くんはわたしに触れる。手を繋いだり、抱きしめたりするのだ。だからきっと今日は同じ布団で眠るだろう。そう考えながら、利飛太くんの少し硬い手のひらに、自分のそれをくっつけるようにして手を繋ぎなおす。彼が不思議そうにわたしを見たので「さむいね」と笑ってみせた。

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