星よ、落ちること勿れ




 足元で湿った草むらが体を揺らしている。湿っているのは何も雨上がりだとか、ここが滝の近くだからとかそういうわけではなく、単純にそこを行く者が濡れているからだ。
 シドは先を行くシーカー族の女に、一メートルほどの間隔をあけて追随しながら、彼女の髪から服から水がしたたり落ちる様を見ていた。彼女がこうも濡れているのは、シドの鰭にしがみついて、滝登りをしたからだ。彼女は人類学者─特にゾーラ族の研究に熱を向けている学者─で、神獣騒ぎの起こる前から数年にわたって付き合いがある女だ。名をナマエといった。
 さて、そのナマエが滝登りでずぶ濡れになっているのは、ひとえに彼女の研究に対する情熱のせいである。いや、もしくはそれとはまったく関係のない、ずぼらさの発露であるのかもしれない。
 ゾーラの里というのはラネール地方、ルト湖に繋がる大きな湖の中心にある。里の内部を歩いて回るのみならば、二日も三日もかからないだろうが、里の位置する湖の円周を回ろうと思うと、途端に危険度と所要時間が跳ね上がる。ゾーラの戦士が警備をしている里の内部ならばいざ知らず、周辺には当然のように魔物が棲みついている。加えて崖の多い地形で馬も入れず、もとより道もたいして整備はされていない。地上よりも水中を行き来した方が速いゾーラ族にとって、─これは空を行くリト族も同様だ─生活に影響を及ぼさない山道の整備に重点を置かないことは道理である。かろうじて道らしきものが敷かれている、または草が踏み分けられているのは他所からの観光客や使者のためのものだが、そもそも二足歩行以外の移動手段を主にする彼らにとっては「道」というものの重要性に気が付いていないため、道路という点において、彼ら自身によるこれ以上の発展は見込みなしと思ってよいであろう。閑話休題。
 ともかく山道がそんな具合であるせいで、湖の周りを見て回るのはことさら時間がかかる。命の保証もない。時間がかかれば服も体も、汗や泥で汚れる。彼女はそれを嫌がって滝登りをさせるのだ。曰く、
「時間ばっかりかかって成果が出ないなんてばからしいじゃないですか。濡れてもそのうち乾くんですから、無駄に歩き回るより効率的でしょう?」
 ということであった。滝登りというのは、ゾーラ族には問題がないが、肺呼吸の─つまりゾーラ族以外の─種族にとっては溺死する可能性もあるのだが、それは彼女にとってさして重要ではないようであった。その証拠と言わんばかりに「自分が死ぬのは自己責任です」という誓約を、わざわざルピーを払ってまで石板に書き残して─彼女には石板に文字を掘る技術がないのでゾーラ族の石工が代筆した─いる。
 そういうわけでナマエが湖の周りの調査へと繰り出すときには、毎回こうして全身から水を滴らせるはめになるのだ。そして彼女の足、もといヒレとして、王子であるシドが駆り出されているのには大した理由はない。彼女がシドにとっての友人であり、ゾーラ族の歴史については、教師でもあるからだ。教師といっても、シドが一方的にそう認識しているだけで、ナマエがそう自称したことは一度もない。そのような懐き具合であるので、シドは手すきであれば率先して彼女について回るほどであった。
 シドはナマエのことが好きだ。シドには視線もくれずに研究に熱中している彼女のひたむきさが好ましく、シドはよく身をかがめて彼女の声を聞いたり横顔を眺めたりしていた。それにうろこ一枚ほどの疑問も持たず、どこか永遠であるような気さえしていた。

「結婚するんですってね」
 ごう、と風が鳴った。ひさしのように影をつくる岩場に反響したせいで、それはいっそう低く響いた。風に紛れたその言葉は、他でもないナマエの声だった。岩場に立ち、石板を見上げながら彼女はこともなげにそういった。
 ルル湖の傍にある、その石板をみたいと言ったのはナマエだった。
 ゾーラの里の周囲には、その歴史が刻まれたいくつかの石碑がある。ナマエはその調査に熱心だったが、ルル湖の石板に注意を向けるのは珍しかった。刻まれているものが歴史ではなくシドの英雄譚のようなものだからだ。歴史研究をする彼女には、その石板は雑談のたね程度に認識されていた─少なくともシドはそう思っていた。実際彼女がルル湖の石板に足を運んだのはこれで二度目だった。シドが同行しただけでも他の石板には少なくとも四度か五度は赴いているので、シドが「彼女はルル湖の石板にはよっぽど興味がないのだろう」と思うくらい、ナマエの注意はそれに向いていないように思われた。それが突然、その石板をみたいと言いだしたのだ。シドは彼女の言う通り、彼女を背に乗せ、滝を登ってルル湖まで上がってやり、彼女の後ろに立って一緒に石板を眺めていた。ただ、石板の内容に覚えはあったものの、シド自身にとっては大した事柄ではなかったので、途中からは彼女の右回りのつむじや、水が流れ落ちていく彼女のからだの輪郭などを眺めていた。彼女は─いつもそうであるように─終始黙ったまま、じっと石板を見上げていた。だから、彼女の言葉は不意にシドの横っ面をひっぱたいたのだった。
「え?」
 シドは思わず、そう聞き返した。聞こえていないわけではなかった。それは反射的な、生理的な反応と言ってもいい音が飛び出してしまったに過ぎなかった。しかし彼女は「結婚するって、聞きました」と言い聞かせるように繰り返した。
「ヨナ様……でしたっけ。素敵な女性ですね」
 彼女は振り返らない。ただじっと、石板を見上げている。シドはその言葉にどうしてか、言葉を選びあぐねていた。
 実際シドが結婚するというのは事実である。他の集落の高貴な身分をしたゾーラ族の女性と、シドは結婚の約束をしていた。それは昔から─百年以上の昔、シドがまだ幼く、彼の姉が存命であったほどの昔だ─の約束であり、契約だった。シド自身、それに否やはない。そもそも王族の結婚というものはそういうものだ。幸運にもヨナは賢明でうつくしい女性だ。互いに理解と共感を示すことさえ出来る。それは幸運なことだ。シドはそう理解していた。
 だのに、なぜか彼女の言葉にシドは嫌に心がかき乱されるのを感じた。胸の深いところを槍でえぐり、まぜ返されるような、不快な心地だった。不安定なそれを持て余し、シドは何も言えずにいた。唇を開きかけ、ただそこで立ちすくんでいた。唇の隙間から喉に細く入り込んだ風が体中を干からびさせるような感覚がし、ひとりでに喉が引き攣る。
「王子?」
 ナマエが体ごとシドを振り向いた。シドの無言を不審に思ったらしかった。午後の陽射しを背負うシドに反射的に目を細めた彼女が、シドの作る日陰の中におさまり改めて顔を上げる。彼女の顔は、すっかり乾いていた。その表情に憂いも悲しみもなく、ただシドを見詰めている。
「どうしたんです、ひどい顔ですよ」
 彼女はそう言って、眉尻をさげるようにして少し笑った。「喧嘩でもしたんですか」と呑気に言う彼女に、シドはますますいやな気持になった。理由はわからない。気を抜けば、感情に任せてわけもわからず彼女をひどく傷つけそうだったので、シドは感情を観察するように慎重に口を開いた。
「君が……」
 息を吸う。ひどく喉がひりつくような、乾いてうろこの付け根が痛むような感覚がシドの全身をひりつかせいた。嫌な緊張がうろこやヒレを震わせる。
「君に、そんな風に祝われるとは、思っていなかった」
 シドはようやく、それだけを、魚でも切り分けるように丁寧に吐き出した。シドにとってはそれが一番自分の心境に─その心境の理由に言及できないことに違いはなかったが─近い言葉に思われた。ざわつくうろこと感情を戒めるように、シドは自身の五指を握りこんだ。ふ、と小さく息を吐いて、シドはナマエを見る。ナマエもまた、シドを見詰めていた。シドはそれにぎょっとした。彼女と目が合ったからではない。彼女が泣きそうな顔をしていたからだ。
「ナマエ?」
「あなたが」
 シドの声を遮るように、彼女が言葉を投げる。シドはそれに気圧されるように咄嗟に口をつぐんだ。彼女は口を開きかけたが、すぐに引き結んで、シドを手招いた。シドはみちびかれるように膝を折り、彼女の傍にひざまずく。彼女はシドのそれにまた泣きそうな顔で─しかし無理やり笑いながら─内緒話をするように顔を近づけた。
「あなたが、星だったらよかったのに」
 それか空をゆく龍。彼女が言葉尻にそう付け足して言う。シドはその言葉の意味を尋ねようとしたが、口を開く前にその唇は熱によって塞がれた。彼女の唇であった。シドの襟首をひっつかんだ彼女が、シドの唇を塞いでいた。
 ─熱い。
 シドは一心にそれだけを思った。ゾーラ族は変温性だ。水中と陸、その両方での生活を可能にしているその体質は、どちらかといえば爬虫類のそれに近い。そのため、彼女のように恒温性のシーカー族と触れ合うと、場合によってはやけどを負う。特に体の内側、粘膜などについてはそれが顕著な傾向にある。そしてシドにとっては、それが今だった。
 ナマエの熱によって侵されたシドの唇はじりじりと痛みを訴えた。また、咥内には彼女の熱を持った舌が独立した生き物のように這い、シドを侵す。やわらかいそれは、シドの舌を嬲り、尖った歯列をなぞり、肉を破らせた。ぶち、という音がして彼女の舌から生暖かい液体が滴る。自身の舌がその鉄臭い味をうったえると同時に、シドは彼女の肩を掴んで自分から引き剥がした。
「ふふ……」
 彼女は笑っていた。その顔はひどく歪み、瞳は濡れて光っている。彼女は手の甲で唇をぬぐいながら、シドから一歩後ずさった。彼女の唇は赤く汚れている。まるで滲んだ口紅のようだった。そして自身も同様であろうとシドには容易く想像できた。シドは自分の唇が彼女の血で汚れている様を想像し、生唾を飲み込んだ。それはおそらく緊張のせいだった。彼女の血の味が、シドの喉を滑り落ちていく。風が二人の間を通り過ぎて、どうと音を立てる。濡れて重くなった彼女の髪はさして乱れなかったが、それでもいくつかは顔を隠すように張り付いた。彼女はそれを剥がすように髪をかき上げる。彼女はほほえんでいた。まことの微笑みだった。
「不敬だって、殺してくれたらよかったのに」
「……しないゾ。そんなことは」
「知ってます」
 ふふ、と彼女がおかしそうに笑った。シドはちっとも笑えなかった。口の中がひどく痛み、鉄の味ばかりがしたからだ。それでもシドは彼女から目を離さなかった。
「シド」
 彼女がシドの名前を呼んだ。初めてだな、とシドはなんとなく他人事のように思った。それはこの状況が既にシドの想定をはるかに通り越していたからかもしれない。それでも彼女はやわらかい微笑みのまま、汚れた唇のまま、シドを見た。
「さようなら」
 彼女がそう言うまで、すこしの沈黙があった。他のことを言おうとしたのかもしれないし、ただ舌が痛んだのかもしれない。それでも彼女が言ったのはその一言だけだった。それだけ言うと、彼女はシドの横を通り抜け、来た道を引き返していった。一つ違うのは、彼女が岩山を歩いて下っていくことだ。シドはなんとなく、彼女にはもう二度と会えないような気がした。
「……さようなら、ナマエ」
 シドは彼女の背中を見送りながら、ちいさくつぶやく。ナマエが光に飲み込まれるように、遠ざかっていくのを、シドはいつまでも見つめていた。彼女は一度も振り向かなった。しかし、火傷の痛みも、彼女の血の味も、なまなましくその感触をシドの内側に焼き付けていた。なにも始まってはいなかった。それでも終わりをずっと引き延ばすことはできたのかもしれない。ナマエを見送りながら、そんな妙な後悔をシドは反芻していた。何のはじまりで、何の終わりなのか。それについてシドが考えることはない。あまりにも不毛で、空しいからだ。それでも彼女の血の味を、100年覚えていようと、シドは思った。ただ、それだけだ。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -