焼け付く一等星




 亜双義一真は夢を見る。まだ仮面をしていた頃の景色だ。
「あら、まあ」
 白い手袋に包まれた細い手が、差し出した手に重なる。
「ふふ、あなた、バロックよりも紳士だわ」
 一真は自分と違う色をした瞳を見つめた。重ねられた細い指先、爪の形まで暴きたいと思っていることを、目の前の女は知らないのだ。

 紳士淑女が午後のお茶を楽しむためにつくられた高級喫茶店。それが18世紀末における、ティールームだった。一真が彼女に会うとき、彼女は決まってそこにいる。ナマエ・バンジークス。一真の上司であるバロック・バンジークス検事の細君である。
 ストランド地区にある高等法院から少し離れたシティの中心地には、貴族の女性たちの通うティールームが軒を連ねている。そこに月に一度ほど、どうしてもバンジークスの手が離せない時にのみ、一真は夫人の送迎に駆り出された。死神と呼ばれる男が、なかなかどうして夫人には過保護なところがあるらしい。初めてそれを言い渡されたときに一真はそう感じたものだった。
「そうだわ、貴方、留学生でいらっしゃったのね」
「、え」物思いにふけっていた一真はそんな柔らかい声に意識を引き戻された。「ああ、はい」
 正面に座るバンジークス夫人の言葉をやっと咀嚼して、一真はぎくしゃくと頷いた。
 一真はとくべつ女性が苦手であるとか、そういったわけではなかった。ただ、まだ年若くも人妻たる彼女と箱馬車に二人きり、というのがなんとも一真を気まずくさせたのだ。しかも二人の乗る箱馬車はバンジークス家が所有する特別な馬車で、その壮麗さにどこか座りの悪くなる心地がしたということもあった。しかし決してそれだけが原因ではない。
 はっきり言って、一真は彼女に横恋慕していた。彼女が人妻であることは、はじめてあった時から、むしろ会う前から理解していたが、それでも彼女に惹かれる心を、一真は抑えることができなかった。だから一真のこころに渦巻く気まずさは、むしろその恋の苦しみによるものの方が大きいと言えた。
 一真は彼女の微笑みからそっと目をそらして、彼女のスカートが柔らかく膨らんでいる膝あたりに視線をやった。目をあわせているとなんとなく、見透かされるような気持ちがしたからだった。
「ご出身はどちら?」
 うつむく一真を気にも留めず、夫人はそう尋ねた。
「大日本帝国です」そう答えてから彼女は日本のことをしっているのかしらと思い至って一真は言葉を付け足した。「ここよりもずっと東にある国なのですが……」
「まあ、大日本帝国。知っているわ、日出ずる国、でしょう?」
「ご存じでしたか」
「ええ、もちろん。バロックがよく話すもの。日本人は、って」
「それは……」
 いい意味ではないだろうな、と一真は思った。それはこれまでのバンジークスを見ていれば明らかだった。夫人は一真のその心中を察知したかのように言葉をつづけた。
「バロックは日本人がとっても嫌いだったけれど、でも近頃はそうでもないのじゃないかしら。日本人は、っていうのがずいぶん減ったもの」
「……それは、何よりです」
「ああ、でも、バロックはあなたの名前を教えてくれなかったわ」
「え?」
 一真は思わず顔をあげていた。夫人の瞳は車内の灯りに照らされて、はちみつ色に色づいていた。
「ねえ、お名前はなんておっしゃるの? あなた、仮面をつけていた時はちっともおしゃべりをして下さらなかったから、結局今日まで聞けずじまいだったもの」
 そういえば、仮面を取ってから彼女と会うのは初めてだということを、一真はその言葉で思い出した。
 記憶を失っていたころの一真の記憶は、ひどく断片的だった。夫人についての記憶も例外ではなく仮面越しに見ていた彼女の顔や、手袋の感触が、断片的に頭の中にこびりついていた。しかしそれゆえだろうか。その輝きはいっそう強く、まるで星の光のように一真には思われた。
「亜双義一真、と申します」
 一真は揺れる馬車の中で、一度器用に深く頭を下げた。
「アソーギ? 不思議な響きのお名前だわ」
「ああ、いえ、アソーギはファミリーネームでして」
「まあ、そうなのね。それじゃあ、ええと、カ……」
「カズマです」
「カズマ! ふふ、やっぱり不思議な響きだわ」
 夫人のやわらかい声や笑い声が鼓膜に触れるたび、名前を呼ばれるたび、一真は死にそうな心地がした。いっそ死んでいるんじゃないかしら、という程度には心臓が暴れていた。
「わたしはナマエよ。ナマエ・バンジークス」
「ええ、存じ上げております。バンジークス卿の奥方であらせられますから」
「あら、奥方ってなんだかとってもかしこまった感じね。そうだわ、わたしの名前のつづりを教えて差し上げる。手を出してちょうだい」
「手、ですか?」
 一真は言われるがまま、膝のうえで拳を作っていたのをほどいて左手を差し出す。夫人は吐息で微笑み一真の手をやさしく取り、手の甲に指を這わせた。その指がくるくると動いて一真の手の甲にアルファベットを描いた。一真は彼女の行動の真意を理解して、咄嗟に声を荒げた。
「そッ、そんなことをして頂かなくともわかります。もう子供ではありませんし」
 一真には自分の言葉の端が震えているのがわかった。けれどそれよりも、自分が赤面などしていないかしらと、一真はそればかりが気になっていた。人妻である夫人の前で、恋心をあらわにするなど、一真にとっては何よりの恥に思えたのだ。
「あ、あら、そうなのね?」
 夫人は一真の声に心底意外そうな声をして、そっと手を離した。一真の手には夫人のシルクの手袋の感触や、手のひらの熱、それから指先が手の甲でくるくると踊る感触が生々しく残っていた。それに浮かされたように、一真は夫人の手を掴んでしまいそうになって、きつく拳を握り、緩慢な動作で手を引いた。
「それじゃあ、ミスター・アソーギは一体おいくつなのかしら」
 夫人はすっかり気を取り直して優しい笑みを浮かべていた。一真はそれをほんの少し残念に思いながらすまして答えた。
「……24になりました」
「まあ、それじゃあわたしとほんの三つしか違わないわ! ごめんなさい、てっきりまだティーンなのかと思って……」
「……いえ、自分の顔立ちが幼いことはロンドンに来て以来、思い知っていますので」
 無邪気に驚いてみせる夫人に、一真は苦笑して言った。
 おそらくきっと、それがわかっているからあの男も妻の迎えに自分を寄越すのだと、一真は内心溜息をついた。つまりは一真などまったく相手にされないと、言外につきつけられているようなものだった。
 一真の前で、夫人は常に柔らかく微笑んでいた。それは恋をする女の目ではない。むしろ子猫や赤ん坊などのちいさくって柔らかいものをいつくしむような瞳だった。それは一真に見たこともない女神のようなものを想起させた。一真にとって夫人への感情はそれよりもずっと俗的なものだったが、夫人のその微笑みのせいで彼女はひどく崇高な存在に思え、彼女が自分の傍に存在すれば、どこでも一真には桃源郷のように思われた。いや、むしろシティにあるティールームから高等法院までのたった二マイルほどの道のりは、一真にとって桃源郷そのものであった。

 馬車が高等法院の前につくと、扉が静かに開いた。冬にさしかかった倫敦の空気が、夢をさますように馬車の中に冷たく吹き込んだ。それが合図であるかのように夫人は視線を一真から馬車の外にうつした。
「バロック!」
 夫人は少女のようにぱっとはしゃいだ声をあげて、跳ねるように馬車を出て行ってしまう。一真はつられて夫人の背中を目で追いかけた。一真がその視界にとらえたのは、ちょうどバンジークスが夫人を抱きとめた瞬間だった。
 夫人はバンジークスの胴に腕を巻き付け、どこか少女じみた仕草で夫の顔を見上げていた。バンジークスも一真の見慣れた眉間の皺をやわらげて妻に視線を注いでいる。その手はさりげなく夫人の腰にまわっていた。一真はその光景からそっと目そらして、静かに馬車を降りた。
「ねえ、聞いてちょうだいバロック。ミスター・アソーギはもう24歳なのですって」
「……知っているが」
「まあ、それじゃあわたしだけが知らなかったのね?」
「私の部下の話など、ナマエにはつまらないだろう」
「そんなことないわ」
 くすくすと囁き合うような笑い声が一真の耳に届いた。一真はただ、馬車のそばでじっとしていることしかできなかった。やがて二人は連れ立って馬車に乗り込んだ。
 一真は道の端に寄ってそれを見ていた。夫人に手を貸していたバンジークスが乗り込んだ後で、夫人が急に馬車から顔を出した。馬車を見ていた一真は、その瞳と視線がぶつかって、思わず身を固くした。それを知ってか知らずか、夫人はやわらかく目を細めた。
「ミスター・アソーギ」
 夫人の声は決して大きいものではなかった。けれどもその唇の動きは一真の目に刻み付くように正確に読み取ることができた。
「また会いましょうね!」
 彼女は微笑んでそう言った。一真にむけられる、好意の発露、親愛の証だった。けれどもそれは、彼女の唯一の愛ではない。それを手にしているのは、違う男であることを一真は目の当たりにしていた。しかしその時の微笑みは、一真だけにむけられたものだった。
 一真は彼女に向って頭を下げた。あのすばらしい女性に少しの無礼もないように、気を払って。そのうち気が済んだというように、馬車の音は遠ざかっていった。それでも一真は顔をあげることができなかった。瓦斯灯のあかりが陽の沈みかけた薄暗闇のなかで、ぼんやりとその影を照らしている。
 一真はひどく軋む胸を押さえてきつく目を瞑った。瞼の裏では夫人の微笑みが、星の光のはじけるような白い焼け跡を残していた。
「……ナマエ、さん」
 一真は白い光に目を焼かれながら、呻くようにつぶやいた。けれどもそれは誰の耳にも届くことはなく、倫敦の霧の中に深く溶けていった。
 それはまるで、星に手を伸ばすような恋だった。

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