孤独の浮島




 夏が目前に迫っている。昼を過ぎると汗ばむような陽気が増えてきた。リンクはいつも通り、訓練着に身を包み、ハイラル城内を散策していた。昼食を終えたのは良いものの、午後の訓練まではまだ時間がある。リンクが城内を歩き回っているのは、一重に時間を持て余したせいだった。
 大きな階段を下り、石畳を少し行くと温室がある。その温室はハイラル王家の姫であるゼルダが植物を保護するために作ったものだった。温室はガラス張りの美しい建物で、外からは中で植物が生い茂っているさまが見えた。ただしそれ自体が一つの庭であるかのような規模だったので、一目で内部をすべて見ることは不可能だった。
 隅にある小さな扉のノブにリンクが手をかけると、意外にもそれはあっさりと口を開いた。そのまま扉を開けると、内部はハイラル城へ続く道と同じように、通路は石畳で舗装されていた。また、細い水路が巡り、中央の方にはガーデンテーブルと石造りのアーチなどが見えるさまから、温室全体が何かの緻密な芸術作品であるかのような趣がある。
 リンクは好奇心のまま、通路をなぞるように進んだ。通路は中央に向かうように作られており、進むほど中央にあるものがはっきりと見えてくる。石のアーチの足元が見えてくるほど近寄ると、そこにはアーチと同じ意匠の小さな階段が見える。また、その階段の上に裁縫道具が放り出されていることにも、リンクは気が付いた。
 誰かがいるのだろうかとリンクがあたりを見回すと、その対角線上、階段の向こうに楕円形の何かが地面から生えるようにしてもぞもぞと動いているのが見えた。
 ─臀部だ。
 リンクはハッとした。それはまさしく女性の臀部─いうまでもなく着衣だったが、そのなよやかな流線からそう判断したのだ─であった。こう描写すると間抜けだが、石の階段の向こう側で、もぞもぞと女性の臀部がうごめいていた。その様子から、女性が石畳の上になぜか這いつくばっていることが察せられた。リンクがそちらに周りこむと、外から射し込む陽射しに女性の髪が輝いて見えた。女性は長い銀髪をしている。
 リンクが女性の前に立つと、ようやく彼女は顔を上げた。
「あら」
 リンクと目が合うと、彼女は少しきょとんとした後で、恥ずかしそうにはにかんだ。彼女は裾を払うようにしたあとで立ち上がる素振りを見せたので、リンクは膝を曲げて女性に手を差し伸べた。彼女はリンクの手を少しの間不思議そうに見ていたが、ややあって自分のそれをそっと重ねた。
「ありがとうございます、親切な騎士様」
 女性は立ち上がると、胸に手をあてて小さく礼をした。女性は背が高く、立ち上がるとリンクよりも頭二つ分ほど上背があった。しかしリンク自身小柄であることを自覚している上、周囲の女性は軒並みリンクよりも背が高いので衝撃はなかった。
 正面から見据えると、リンクは彼女が城内で見たことのある女性であることに気が付いた。ゼルダ姫付きの侍女であるシーカー族の女性だ。女性は出仕するシーカー族の多くが身にまとう民族衣装を着ていたが、執政補佐官であるインパなどのそれとは違い、体の線に沿うような形をした、裾の長いワンピースだった。つま先までが隠されるほど裾が長いので、それを身にまとう彼女そのものが一輪のしのび草のようにも見えた。
 女性はスカートのほこりを払うと階段に腰掛け、リンクを見あげた。
「騎士の方が温室にいらっしゃるとは思いませんでした」
「お邪魔を致しましたか」
「いいえ、ちっとも。ちょっと静かすぎると思っていたところでしたから」
 女性は広げてあった裁縫道具を膝の上にまとめると「よろしければどうぞ」とリンクに隣をすすめた。未婚の身で、主君でもない女性と距離を詰めて座ることは騎士としては不適切なのではなかろうか。リンクの頭には一瞬そんな考えが浮かんだが、女性の気遣いを無得にすることもはばかられ、結局彼女から少し離れて腰をおろした。女性はリンクの挙動に小さく笑った。
「ところで、先ほどは何をなさっていたのですか」
 リンクは座りの悪さを誤魔化すようにこほん、と咳ばらいをした後、彼女にそう尋ねた。先ほどというのは言うまでもなく、石畳に這いつくばっていた時のことだ。女性は「ああ」というと少し困ったように眉を下げた。
「刺繍針を探していたのです」
「刺繍針?」
「ええ。姫様のハンカチに、新しく刺繍をしていたのですが、落としてしまって」
 女性はそう言うと、視線を足元に落とした。どうやら彼女はまだその刺繍針を探し続けているようだった。リンクもそっと足元を確認したが、それらしきものは見つけられなかった。
「姫様、ずっと落ち込んでいらっしゃって……。だから少しでも心安らげるものを差し上げたかったのですけれど」
 姫というのは考えるまでもなくゼルダ姫のことだ。ゼルダ姫が城内で「無才の姫」などと口さがないことを噂されていることはリンクも知っていた。彼女が言っているのは恐らくそれについてのことだった。
 女性の膝の上には丸い刺繍枠に張られた白いハンカチがあった。その中には笹の葉のような形の花弁が刺繍されている。花弁の中心は青く、その周りは白く縁どられたような色合いをしていた。見たことのない花ではあったが、その刺繍自体が見事なものであることは、そういったものに疎いリンクにも理解できた。
「未完成なのですか」
 刺繍があまりにも見事だったので、リンクは思わずそう尋ねていた。女性はリンクの視線がハンカチに向いていることに気が付いて、恥ずかしそうにそっとそれを手で覆い隠した。
「ええ、まだなんです」
 女性がそういうので、リンクはそれ以上追求せず「見つかるとよいですね」と相槌を打った。女性はそれに微笑みを浮かべて、小さく頷く。
「そういえば騎士様は、何か温室に御用があったのですか?」
「ああ、いえ、私は……」
 リンクは素直に告げようとしたが、「暇だっただけ」というのがどうにも気恥ずかしく、言葉を探して口ごもった。
「……午後の訓練まで時間があったので、その、散策を」
「まあ、ふふ、そうなのですね」
 女性はリンクの言葉に穏やかに言うと、周囲の植物に視線を投げる。リンクもまた、彼女の視線の先を追うように、そちらを見た。植物には、ガラス張りの天井や壁を透過して、午後の明るい日差しが降り注いでいる。しかし二人の座る中央あたりは背の高い植物の花や葉の陰になっていた。そのせいか、まるで世界が隔たれているような奇妙な感覚と共感が二人を包んでいるように、リンクには思われた。
「ここは、よい場所ですよ。静かで、あまり人も来なくて」
 女性は眩しいものを見るように目を細め、そう言う。リンクはその声に、つい彼女の方へ振り向いた。彼女の声は穏やかだったが、やけに荒んでいるように聞こえたからだ。
 彼女はリンクの視線を感じ取ったかのように、緩慢な仕草でリンクを見た。女性は変わらず微笑んでいる。
「わたしは、なんだかひとりになりたくて、ついここに来てしまうんです」
「それなら私はやはり、お邪魔だったのでは」
「いいえ。……我儘ですけれど、静かすぎると寂しいですから」
「……そうですか」
 女性は微笑みをたたえたまま、また遠くに視線を逸らした。彼女がそれきり何も言わなかったので、リンクも何も言わずにいた。彼女はしばらくして新しい針を取り出して刺繍を再開した様だった。リンクはしばらく周囲の植物を観察していたが、彼女が刺繍をする様に興味をひかれ、その手元に視線を落とした。女性は一瞬だけリンクを見たが、その視線を許容するように何も言わず、ただ手を動かし続けた。
 彼女が小さな葉の半分ほどを縫い終わったところで、リンクはふと、午後の訓練の時間を思い出した。より正確に言えば、午後の訓練の時間を忘れていたことに気が付いたのである。幸いなことにまだ─これはあくまでリンクの体感によるものだが─訓練の時間までにはまだ少しありそうだった。しかし訓練場はこの温室の反対側にある。距離を考えると走った方がよさそうだった。
 リンクが立ち上がると、女性は掠めるように視線を投げたが、やはり何も言わなかった。リンクもまた、無言のまま立ち去ろうとしたが、足元に何かが光ったように思え、ふと立ち止まる。膝を曲げて目を凝らすと、それは細い刺繍針だった。どうやら座っていたリンクと彼女のちょうど死角に転がっていために見つからなかったようだ。
 石畳の隙間にはまり込むように寝そべるそれをつまみ上げると、リンクは自分が座っていたところにそっと置いた。手作業をしていた彼女に声をかけることは、なんだか随分悪いことに思ったからである。
 女性は意識をとがらせるように集中しているらしく、置かれた針には気が付いていないようだった。リンクはそのまま背を向けて来た道を戻る。
 入り口の扉にたどり着き押し開こうというところで、一度先ほどまで自分がいた方向を振り向いた。しかしそちらは植物の陰に隠れており、女性の輪郭さえ見えない。リンクはまばたきを数度繰り返すくらいの沈黙を、そちらに向けていたが、ついには扉を開けて外に出て行った。
 午後の訓練の時間はすぐそこまで迫っていた。


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