星の隠れた夜の色




 それはあまりにも深い夜だった。
 日付はとうに変わり、もう直に夜も明けるような真っ暗な時間だ。ナマエはふとベッドの中で目を覚ました。とくにこれといった原因もなく、ただそうあるべしというような目覚め方だった。
 ナマエは再び目を瞑り眠りにつこうとしたが、既に眠気はナマエの体を離れており、側に戻ってくる気配もない。むしろ頭が冴えていくような気さえした。仕方がないのでホットミルクでも作ろうとナマエはベッドを抜け出した。
 暖炉の火のない早朝は、春といえど冷たい。ネグリジェの薄い生地を通り抜け、冷たい空気が肌を刺す。ナマエはベッドサイドチェストに置いてあった手燭の蝋燭にマッチで火をつけ部屋を出た。
 廊下に灯りはなく、手燭で照らさなければ足元すらおぼつかない。ナマエは一階にあるキッチンに向かうべく、注意深く足元を照らしながら、自身の胴ほどの太さのある手すりにしがみつくようにして一段ずつ階段を下る。
 階下にたどり着き周囲を見回すと、ナマエはキッチンとは逆の方向にある部屋から細く光がもれていることに気が付いた。興味をひかれ、誘われるようにして近づく。
 それは客間だった。入り口の扉がかすかに手前に開いており、そこからぬくもりのある色をした光が、廊下に細く線を引いている。ナマエは扉に触れないように気を払いながらそっと扉に近づき、隙間に目を凝らした。
 中では暖炉が火を灯している。暖炉の火がゆらゆらと揺れるのはよく目立ったが、しかし部屋にはそれ以外の明かりはないようだった。不思議に思ったナマエが少しドアハンドルを引くと、蝶番を軋ませながらたっぷりと光がこぼれてくる。
 改めて中を覗くと、客間の中心にあるテーブルとその両脇に配置された揃いのソファーが見えた。本来ならば白い大理石のテーブルと、濃茶の革張りのソファーがすべて炎の色に染まっている。そしてそのソファーの片方、ナマエから見て左側のそれに誰かが座っていた。
 その人物の背後には暖炉の火が燃えており、ナマエから見ると彼の姿は逆光になっているせいでしばらくの間はっきりとは見えなかった。しかし少しして目が慣れると、ナマエはそれが幼馴染のバロックであると気が付いた。
 バロックはナマエより五つ年上で、倫敦の高等法院に勤めている。少しの間休みを取って、ナマエの領地に休暇に来ているのである。ナマエもまた、倫敦にある大学に所属しているがちょうどイースター休暇のために帰省していた。
 バロックはナマエに気が付いている様子はなく、暖炉の火を見詰めているように見えた。バロックの表情は炎の色に塗りつぶされ、ナマエにはよく見えない。しかしその様子が気がかりで、ナマエはそっとドアハンドルを引いた。
「眠れないの?」
 ナマエはバロックの傍までよると、囁くように声をかけた。バロックはその声でようやくナマエに気が付いた様子で、ひどく驚いた顔でナマエを見た。
「それは……お前もだろう」
 バロックは言いながら場所を譲るように体をずらしたので、ナマエはテーブルに手燭を置き、バロックの隣に腰掛けた。バロックの顔には青黒い隈がくっきりと刻まれており、彼が眠れていないことは火をみるよりも明らかだった。
 ナマエはバロックの、ソファの上に投げ出された手に触れる。バロックの手は人間の柔らかさを持っていたが、まるで石膏で出来た彫刻のように冷たかった。ナマエはバロックの小指を握った。
「眠れないのね」
 バロックはそれに、何も答えなかった。
 バロックの不眠の原因は、ナマエにはよくわかっていた。彼の兄であるクリムトが亡くなったせいだ。
 クリムトは優秀な検事だった。その背を追いかけて検事になったバロックにとって、クリムトの死はその精神に大きな傷を遺した。それが殺人ともなれば、なおさらだ。
 それからバロックは、こうして倫敦から離れ、ナマエの家のあるミョウジの領地に身を寄せている。彼の生家であるバンジークス家とその領地もミョウジの領地から遠くはないが、バロックにとっては兄の思い出の多いバンジークス領に戻ることは耐え難いようだった。
 ─どうして死んでしまったの、クリムトお兄様。
 憔悴したバロックを見るたび、ナマエはそう思わずにいられなかった。バロックと幼馴染であるナマエにとっても、クリムトは兄同然だった。
 しかしナマエ以上にそう感じているに違いないバロックの傍で、それを口にすることはできなかった。その言葉はきっと、バロックの傷を深くするであろうと、ナマエには感じられたのだ。だからナマエ結局いつだって核心には触れないまま、バロックのよく知る「ナマエ・ミョウジ」のまま、変わらぬようにふるまうことしかできなかった。ナマエはそれこそが、自分の役割であると感じていたのである。
「あ、そうだわ」ナマエは無邪気な少女のような表情で、バロックに声をかけた。一階まで降りてきた目的を思い出したためだ。
「ね、バロック。キッチンに行きましょうよ」
「……キッチン?」
 バロックはナマエの言葉に緩慢に瞬きをした。あからさまに「何故」という顔をするバロックに、ナマエはつい笑ってしまった。彼にはこういう幼気でやわらかいところがある。
「眠れないんだもの。牛乳でも温めましょうよ」
 ね、とナマエは握っているバロックの指を引っ張って揺らす。それは小さな子どもが甘えるような仕草だった。下にきょうだいのいないバロックがこういう仕草に弱いことを、ナマエは知っていた。そしてバロックも、ナマエがそれを知っていることに気が付いていた。
 ナマエはわざとらしく言ったあとに、彼の手を両手で握りなおした。
「ワインでもいいわよ。好きでしょう?」
「それはそうだが……いや、しかし……」
「ふふ、ほら行きましょ」
 ナマエはバロックの手を引いてソファから立ち上がる。バロックはそれに引きずられるようにして立ち上がった。ナマエはテーブルの上に置いていた手燭を再び手に取り、扉は体で押し開けた。
 大きく開いた扉から廊下へ、暖炉の光があふれる。光の届かなかった廊下の奥も、かすかにその形が見える。ナマエは薄暗い廊下を、バロックの手を引いてキッチンへと歩いた。
「なんだか悪い事をしている気分だわ」
「……実際、これは悪いことなのではないか」
「うーん、そうかもしれないわね」
 軽口を叩きながら二人は冷たい廊下を歩く。たどり着いたキッチンの中には当然の如く誰もいない。ナマエは一度バロックの手を離すと、奥にある猫足の冷蔵庫を開けた。木製のそれの中には氷と共に牛乳瓶などが保存されている。
 ナマエが冷蔵庫から牛乳瓶を引っ張り出したのを、バロックは呆れたように眉をひそめた。
「ナマエ、どうやら初犯ではないようだな」
「えっと……黙秘するわ」
「その沈黙こそが答えだと思うがな」
 バロックはそう言いながらも、諦めたように「カップはどこだ」と尋ねる。バロックにカップの入った棚を教えてやりながら、ナマエはコンロの引き出しに石炭を放り込み鍋を火にかける。牛乳瓶を開け、中身を鍋に注いでいると陶器のカップを手にしたバロックが横から鍋を覗き込んだ。
「……久方ぶりだ」
「そう。蜂蜜でもいれましょうか」
「私は結構だ。ナマエはそうするがいい、好きだろう」
「好きだけど、今日はいいわ。昼間にケーキを頂いてしまったから」
 ふつふつと表面が泡立つのを確認し、ナマエはコンロの火を消した。そして鍋からカップへと中身を移すと、鍋を洗って元あった場所に戻す。一見して誰かが使ったとは気が付かないであろう。
「……常習犯か」
「なんのことかわからないわ」
 ナマエはバロックの言葉にクスリとした。そしてカップを二つ持つと、元来た廊下を戻り始める。バロックはその後ろを、手燭を持って追いかける。
 客間の開いたままの扉からは、変わらず灯りの色が道を作っていた。ナマエは中に入ると、バロックが座っていた方のソファーの隅に座ってテーブルにカップを置いた。バロックも倣うようにナマエの隣に腰をおろした。手燭は蝋燭の火を一息で吹き消して、カップの向こうへと置く。
「それじゃあ乾杯ね」
「フ、そうだな」
 陶器のカップをそっと合わせると、ちいさく澄んだ音がした。それにナマエとバロックは目を合わせて微笑み、カップに口を付ける。ナマエは上る湯気に息を数度吹きかけた後でカップを傾けた。
 一口飲み込めば喉を落ち、食道から胃へあたたかいものが通り抜けていくのを感じる。ナマエはその温度に自身の体が随分と冷えていることを知った。暖炉の火が先の方から体を温めていく。
 ナマエはソファの背もたれに体重を預けながら、昔のことを思い出していた。
 もう十年以上も前のことだが、バンジークスの領地に遊びに行った際にもナマエは深夜にホットミルクを飲んだことがあった。クリムトとバロックと三人で、一緒になって夜更かしをしていた夜に、クリムトが振舞ってくれたのだ。
 星の明るい夜だった。誰もが笑っていて、明日の不安など感じたこともないような無邪気で幼気な思い出だ。クリムトがナマエに渡した陶器のマグはまだ十にもならなかったナマエが持つには随分大きく、バロックが底を支えてくれていた。テーブルにぶちまけたトランプを放って、ソファに三人並んでホットミルクを飲んだ。カーテンの開いた窓から見えた星は随分と明るく、空はどこまでも高く見えた。
 ナマエは追憶しながら窓を見た。窓には厚いカーテンが引かれていたが、隙間からわずかに外の景色が見えた。いつの間にか空は白み始めている。夜明けの空だ。
 ナマエはもう一口ホットミルクを口にして、バロックの方を見た。バロックはどこかぼうとした表情でちびちびとホットミルクを舐めるようにして飲んでいた。その横顔はひどく暗く、そして乾燥した疲労が張り付いていた。ナマエはそういう時のバロックの瞳が恐ろしかった。深淵を覗くような、夜の瞳をしていた。バロックはいまだ、夜の只中にいるのである。ナマエはバロックから目を逸らし、また夜明けの空を見た。
 ─いつか、彼の夜が明けますように。
 ナマエはカーテンの隙間から滲む白い光に、そう願いをかけた。1899年の、とある夜の話だ。

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