あなたは茨を飲み込んでいる




 扉の前で止まった足跡が、我が相棒のものではなかったので、ワタシの耳は音を拾うべく自然と跳ねるように立ち上がる。念のため扉の方まで様子を見に行くと、扉が開き、ニンゲンが顔を覗かせる。
「あら、マフィティフ!」
 ぱ、と顔を輝かせたのは我が相棒、ペパーではなく、その伴侶─相棒曰く、まだ伴侶ではないとのことではあったが、そのあたりの機微はワタシにはわからぬことだ─たる、お嬢さんである。彼女は名をナマエという。相棒と同じように優しい手をしたニンゲンのお嬢さんだ。
 お嬢さんは相棒の現在の根城である学生寮の部屋の鍵を、我が相棒から持たされているのである。寮の鍵の複製は本来禁止されているらしいが、それはもはや些末なことである。ただ、愛の前に─我が相棒風に言うならば─「不真面目ちゃん」であるというのみだ。
 ナマエお嬢さんは扉をしめると、ワタシの前にしゃがみ込み、そっと髭のあたりに手をあてた。相棒よりも少し体温の低い、ほっそりとした手である。
「もうすっかり元気ね、よかった」
 もちろんだとも。彼女の声に応えて、ワタシは一つ鳴き声を上げる。彼女はそれに穏やかに笑い声を漏らし、ふわふわとワタシの毛並みを撫でた。
 しかし彼女の瞳には、喜びや安堵の他に深い悲しみの色を湛えている。スパイスを探し回っていた頃、ワタシにサンドイッチを与えていた我が相棒も、このような目をしていた。しかし既にワタシは回復し、バトルに出ることさえ容易い身である。ワタシは不思議に思って、つい首を傾げた。
 ワタシを見詰めるお嬢さんは、触れている髭から背中の方へと手を滑らせ、まるで相棒がするかのように、ワタシの体へと腕を回す。お嬢さんは、我が相棒とは違い、まるで花畑のような香りがする。相棒はというと、たいてい干したてのシーツの匂いがするのである。閑話休題。
 お嬢さんはワタシの背中を殊更にゆっくりと、たっぷりの毛並みの流れに合わせて撫でてくれる。どうしたんだ、お嬢さん。なにか悲しいのなら、話を聞かせておくれ。ワタシはそんな思いで彼女の頬に頭をこすりつける。
「ね、マフィティフ。ペパーには秘密にしてくれる?」
 しずかな声で彼女が言う。ワタシは肯定のかわりに、ふすんと鼻を鳴らす。お嬢さんの秘密を守ることなど、ワタシには容易い。ナマエお嬢さんはくふくふと柔らかく笑うと、あのね、と秘密を打ち明けるような声色でワタシの耳にそっとささやく。思わず耳も立ち上がるというものだ。
「わたし、博士のこと、許さないことにしたの」
 はて。ワタシは思った。博士とは一体だれだろう、と一瞬思案したが、彼女が「フトゥー博士のことよ」と続けたので、あの「パルデアの大穴」と呼ばれる、その最奥で見送ったあの機械人間のことであるとわかった。細かい仕組みはわからぬが、我が相棒の父上と同じ姿をしていたあの人物のことである。そんなワタシをよそにナマエお嬢さんは言葉をつづける。
「ペパーから博士のこと、全部聞いたの。もう亡くなっていたことも、その、タイムマシンのことも、いろいろ、全部……」
 そう。そうだった。我が相棒はその真実を、唐突にあの大穴の底で知らされたのだ。思わずワタシの鼻もくふんと鳴ってしまう。それを慰めるように、またお嬢さんの手のひらが動く。
「……ペパーはもう吹っ切れてしまったんですって。前を向いて頑張るんですって」
 彼女の言うとおり、確かに相棒はそんなことを言っていた。その通りに近頃─あの大穴を出て以来だ─相棒はがむしゃらに前を向こうとしている。そんな気配がある。それが良い事なのか否かは、ワタシにはわからない。ナマエお嬢さんの手は、ゆっくりとワタシの背をなぞるように動き続ける。
「でもね、わたしは許さないことにしたの」
 お嬢さんは優しい声をしていた。
「博士がペパーとあなたを置いていったことも、ペパーがずっと寂しかったことも、死んでから連絡をしてきたことも、最後に愛を囁いていったことも」お嬢さんはワタシと目を合わせる。その瞳には慈愛の光がある。我が相棒がワタシを見るような。ワタシは彼女のその瞳がとても好きだ。お嬢さんが目を細める。「全部よ」
 お嬢さんの手のひらは、やはりかすかに冷えている。
「誰が許しても、わたしはわたしの一生で、博士を許さないでいることにしたの」
 彼女の手がワタシの頭部の輪郭を包むように手のひらを添えると、瞳を閉じて額を静かに合わせた。ニンゲン特有のすべすべとした肌の感触が毛並みの向こうに感じる。ふ、と彼女の薄い唇がちいさく息を吐く。
「でも、ペパーは優しいおんなのこが好きだから、きっと秘密よ」
 ナマエお嬢さんは瞳を閉じたまま、微笑みを浮かべる。もちろんだ、他愛ないとも。返事をしようとして口を開いたが、この距離でお嬢さんに吠えるわけにもいかず、ワタシの口からは「ハフン」と間抜けた音がもれる。しかし、ワタシの意図を察したのか、彼女は頬や耳の付け根をするすると撫でた。思わずワタシの尻尾も床を左右に撫で動いてしまう。
「ごめんね、共犯者にしてしまって」
 お嬢さんは言う。とても小さな声だ。だが、ワタシは彼女のその憎悪をうつくしくすら思う。真摯なまでのそれは、我が相棒へのさまざまな愛によって構成された、優しさの一部であるように思えたのだ。彼女のそういうところを、ワタシは愛しているのである。そしてそれは我が相棒もまた同様であろう。だから彼女が本音を吐露したとて、優しいお嬢さんを嫌うことなど、我が相棒に限ってあり得ぬが、それを伝える術をわたしは持ちえない。それに、そんなことさえ野暮であることくらいはワタシにとて理解できる。
 ワタシは言葉の代わりに、彼女の頬をべろりと舐める。ぱち、と彼女の瞳がこぼれるほどにひらき、ワタシを見る。そして瞬間に、花開くように笑ってワタシの首に抱きついた。ふふ、というやわらかな声がすぐそばで響く。
 ところでもし我が相棒、ペパーにこの現場を見られようものなら、盛大に拗ねるであろう様子が容易に想像できる。我が相棒はあれでいて、やきもち焼き─しかも一体どちらに妬いているのかといえば、それはもう両方というしかない始末である─なのだ。しかし我々は『共犯者』であるからして、これくらいはご容赦願いたいものだ。
 ワタシを抱きしめるナマエお嬢さんの肩に顎を預けていると、外からよく知ったリズムで足音が聞こえてくる。お嬢さんは気づいていないようであった。ワタシはお嬢さんから離れないまま、我が相棒の驚いた顔を予想して待つ。
 足音は扉の前で止まり、すぐに扉が開く。
「ただい……」
 ─ま、と続けようとした我が相棒の口が間抜けにぽかんとひらいている。その視線はしっかとお嬢さんとワタシを捉えている。お嬢さんとワタシは我が相棒を見、それから顔を合わせて吹き出した。その途端に、相棒の目が三角に吊り上がる。
「なんで二人で仲良しちゃんしてるんだよ〜〜ッ!」
 このやろ〜!と声をあげて、我が相棒がお嬢さんとワタシにぶつかるようにして、まるごときつく抱きしめる。ふふ、とお嬢さんも軽やかに笑っている。ワタシも気が付くと口を開けて笑っていた。
「まったく、二人でなあに仲良しちゃんしてたんだよぉ」
 ワタシたちを抱きしめたまま、拗ねた顔をする。む、と口をへの字に曲げているのがやたらと相棒の顔を幼くしている。それが少しおかしくて、お嬢さんとワタシは再び顔を見合わせた。お嬢さんは無邪気に笑う。
「……秘密よ!」
 バウ、とワタシの口からも同意の声がもれれば、相棒は一層不満そうな声をあげるが、こればかりはお嬢さんとワタシの秘密だ。乙女心は複雑であるのだから。

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