今はまだこの感情に名前はないけれど、
御三家である五条家の嫡男。
そんな立場ということもあって、俺には子供の頃から婚約者というものがいた。
そいつの年は一つ下で、初めて会ったのはそいつが6歳の時だった。
淡い桃色の着物を着て、母親に手を引かれて挨拶をしてきたそいつは子供のくせに落ち着いていて、静かに頭を下げて挨拶をした。
自分もそうだが、きっとこいつも大人に囲まれて生きてきたもんだから、やけに大人びた子供になったんだろうな、と今なら思うが、その当時は俺も餓鬼だったわけで、そんな大人びた彼女が気に食わなくて、泣かせてみたくて冷たく当たってみたりもしたが、彼女は泣きもせず、いつも俺の後ろを一歩下がってついてきた。
中学に上がるまでは定期的に会いに来ていたので、顔を合わせていたが、中学に入ってからは彼女は両親共々海外に行ったとのことでしばらく顔を合わせていなかった。
その間、手紙が来ることも、連絡が来ることもなかった。まぁ、携帯の連絡先を交換しているわけでもないので簡単に連絡を取ることが出来るわけではないのだけれど。
結局、大人たちが勝手に決めた婚約者なのだ。
そう割り切っていたところで、今年の高専の新入生を見に行く、なんて硝子が張り切っていて連れられて一年の教室に行ってみれば、そこには少し見覚えのある横顔が目に入る。
女の子いるよ、と硝子が喜んでいれば、その声に気が付いたその女性はこちらを振り返り、記憶の中よりも少し大人の女の顔になった彼女の視線とぶつかった。
彼女はゆっくりと頭を下げれば、ぱたぱたと小さな足音をたててこちらへ近付いてくる。
「初めまして、名字名前と申します。本日より高専に入学しました、先輩の皆さま、よろしくお願い致します」
挨拶の仕方だけで育ちの良さが伝わるそんな挨拶をする彼女は俺のを顔を見てきたので、小さく頷いて目を逸らせば、悟さん、お久しぶりです、と頭を下げれば、硝子が何?どういうこと?と騒ぐので、知り合い、とだけ答えれば彼女は余計な事は言わずに親同士が昔から知り合いなんです、とだけ答えた。
婚約者、なんて答えられれば、硝子あたりには冷やかされるのが目に見えていたし、親が勝手に決めたそんな関係を同期に知られるのが嫌だったので、彼女がそう答えてくれたのは都合が良かった。
それから彼女が俺の同期と打ち解けるのも早かった。
育ちが良い彼女は穏やかで、優しくて、呪術師としても意外にもまともにやっていける能力を持っていたので、俺たちと任務に行くことも多かった。
特に紅一点だった硝子は彼女を気に入り、一緒にいる事が多かったから、余計に同じ時間を過ごすことも多かった。
俺はあまり関わりたくなくて、極力彼女とは話さないようにしていれば、彼女の方もそれを察してあまり話しかけてこなかった。
子供の頃はどんなに無視しても後ろについてきて、しつこいくらい話しかけてきていたのに、今では俺とは話さず、傑と話していることの方が多いと思う。やけに楽しそうに笑っているし。そんな彼女を見ては心の中で小さく舌打ちをしていた。
「悟さん?」
きっと見るからに不機嫌そうな顔をしていたんだろう。正直、自分でもその自覚がある。
「なに」
「体調でも悪いですか?あまり顔色も良くないですよ?」
そう、心配そうな表情で下から顔を覗く名前から顔そらし、別に、とだけ言えば名前の隣にいた硝子がせっかく名前が心配してるのにその態度はなんだ、と騒いでいる。ほんと、硝子は名前の肩をすぐ持つ。
面倒臭い。そう思い、ポケットに手を突っ込みながら教室戻るわ、とだけ告げ、その場から離れようとすれば名前は俺の腕を掴んで、本当に体調悪かったら無理しないでくださいね、なんて言ってきやがる。
別に体調なんて悪くないのだから、何も言わず頷きだけしてその手を振り解けば、彼女が眉を下げて微笑むものだから、胸の奥深く底がちくりと少し痛んだ。
俺がその場を離れても、それっきりで、名前が追いかけてくることはなくて、昔だったら追いかけてきたくせに、と腹が立った。
そんなある日、裏庭を歩いていたら楽しそうに笑う女の声が聞こえて、その声が聞き覚えのあるものだから校舎の陰に隠れてそっと近付いてみれば、やはり聞き覚えのある声の女は名前で、話し相手は傑だった。
何を話しているかまでは聞こえなかったが、一つはっきりと聞こえたことがある。
『傑さん』と、彼女は俺の同期を呼んだ。
俺の知る限りでは、この間までは夏油さんと呼んでいたのに、さっきはっきりとこの耳で彼女が傑さんと呼んでいるのが聞こえたのだ。
いつの間に、と考えているうちに二人は楽しそうに話しながら反対の道から校舎へ戻って行くのが見えた。
傑を下の名前で呼んでいたことも気になったが、もっと気になったのはあんなに楽しそうに声を上げて笑っている名前の姿を初めて見たことだ。
俺と顔を合わせる時は、いつも固い笑顔で楽しそうに笑うなんてところは見たことがない。
よく分からないが、胸の奥底がもやもやとして霧がかかったように心が晴れなかった。
そんな気持ちのまま校舎に戻ると、名前はまだ教室には戻っていなかったようで、俺と目が合うと小さく頭を下げ、そのままその場から立ち去ろうとしたので、小走りで駆け寄り、彼女の細くてか弱い腕を強く掴めば、前に進み出そうとしていた足がいとも簡単に止まる。
「悟さん?どうかしましたか?」
俺がこうして引き留めたことに驚きを隠せないのか、彼女の瞳は大きく揺れていた。
さっきまであんなに楽しそうに笑ってた癖に。そう思うと、口が勝手に彼女に向かって、キツい強めの言い方でこう告げていた。
「傑の彼女にでもなりたいの?婚約者の親友狙うって、お前やばいな」
そう言われた彼女は眉を顰め、否定の言葉を紡ぐが、一度開いた俺の口は止められず、彼女の言葉を掻き消すように酷い言葉を浴びせれば、彼女を掴んでいた手を掴まれて彼女の腕から手を外され、間に割って入ってきたのは傑だった。
「悟、その辺でやめておけ。彼女、泣いてるじゃないか」
「は?傑に関係ないから黙ってどっか行けよ」
「私の名前が出ていた以上、関係ないことはない話じゃないかな?それに、例え私と彼女が付き合っていたとしても悟には関係ないと思うのだけれど」
そう言いながら、傑は後ろで縮こまって声を押し殺しながら泣く名前にひとまず君は教室に戻りなさい、と告げ、名前は俺の顔を見ながら困った表情で教室に戻って行った。
なんで傑の言うことを聞くんだよ、とまた怒りが込み上げてきたが、傑がすかさず、彼女と私は付き合っていないし、付き合おうとも考えていないよ、と告げられ、怒りを飲み込む。
「それに彼女は凄く大切な人婚約者が居ると、その婚約者の話をする時はすごく幸せそうな顔をしていたから、そもそも付き合う以前だね。悟はどうして彼女にそんなに執着するのかい?」
そう言われ、頭に上っていた血が一気に下がっていくのがわかった。
自分は相当見境をなくしていたらしい。
彼女は自分のことを今でも婚約者と思い、大切に思ってくれていたのだ。
自分は彼女に冷たくしても彼女がめげずに話しかけてくれること、笑顔を向けてくれることで彼女の気持ちを試して、満足していたただのクソ餓鬼じゃないか。
「…あいつの婚約者、俺だっつーの」
それだけ告げれば、さすがの親友は全てを悟り、驚きはせずに呆れたように笑いながら、早く彼女に謝るべきだね、とだけ静かに告げた。そんなことは傑に言われなくても十分分かっている。
彼女のあとを追うように一年の教室の扉を開ければ、そこには彼女の姿はなく、俺の慌てた表情に少しおどろいた七海に彼女の行方を聞けば教室には戻っていないというので、校舎内を走り、思いつく場所を片っ端から探すが、彼女の居そうなところなど想像すらつかず、自分が彼女のことを何も知らないことを教えられた。
そんな中、傑に話を聞いたのか色々文句を言いたそうな硝子と遭遇すれば、校庭の裏にある大きな木の下が彼女の好きな場所、と言いながら左肩を強く殴られた。思ったより痛いが、それも甘んじて受け入れる。
あとでお前の説教は聞くわ、とだけ言い残し、硝子に教わった場所に向かえば三角座りをして膝に顔を押し当てている名前の姿を見つけたので、その横に座れば、名前は驚いた表情でこちらを見る。
「な、んで、ここに…」
頬には涙の跡が無数にあり、目も真っ赤に腫れていた彼女の言葉を打ち消すように、彼女に話をする。
「何も聞かず、勝手にキレて悪かった。名前と傑が仲良さそうにしてて、俺には見せない笑顔で笑いかけてて、俺が婚約者なのにって嫉妬した」
「え、嫉妬…?」
「俺は俺自身も気付いてないところで、お前のこと気に入ってるみたいで、独占欲もすげーらしい。呆れた?」
「呆れるわけ、ないじゃないですか」
そう小さく呟いた彼女の瞳からは涙はすでに止まっていて、今度は心なしか頬が赤く染まっていた。
「私、昔から悟さんの側に居ると緊張して上手く笑えないんです。高専に来てからは特にそうで、本当は悟さんともっとお話がしたいです」
「うん、もっと話ししよう」
「悟さんともっと何処かに行ったりもしたいです」
「うん、どっか行ったりもしよう」
「悟さんのことももっと知りたいです」
「うん、教えてあげるから、そのかわり名前のことも教えて」
「はい…っ」
そう返事をした彼女の顔は今まで見た中で一番の笑顔で、きらきらと輝いていて、凄く綺麗で胸の奥が少し痛くて苦しくなったけれど、それは嫌な苦しさではなかった。
この感情に名前を付けるにはまだ早いけれど、今までとは少し変わった二人の空気感に少し照れ臭くて、彼女の頭を少し乱暴に撫でてみれば、彼女はそれを嬉しそうに受け入れた。
ーーー今はまだこの感情に名前はないけれど、
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