呪術廻戦 | ナノ

手を伸ばしても届かない大きな背中





初めてあの人に出会ったのは一年前。

きっと彼はそんなに深くは覚えてないだろうけど、私にとっては忘れられない大きな出会い。


あれはまだ私が高専に入学する前のお話。
子供の頃から変な影や嫌な気配を感じる体質だった。でもはっきりと何かを見たことはなく、自分は霊感でもあるのだと思っており、あまり気にしないようにして生きてきた。

だから、あの日も嫌な気配を感じたけれど、気にしないように足早にこの場所を去れば良い、なんて気軽に考えていたら、急に強く肩を引かれ、尻餅をついて上を見上げたところで、私を見下ろしていたのは人間とは言えない形の化物だった。

人間、本当に驚いた時には何も声が出ないというのは本当だった。
誰かに助けを求めようにも声は喉の奥でひゅっと鳴って消えていき、立ちあがろうにも腕にも足にも力が入らず、その場から動けなかった。涙も出なかった。

目の前の化物は手のようなものを私の両肩に乗せ、大きな口を広げて近付き、にやりと笑ったように見えた。
私はその化物が近付いてくるのをただ見てることしか出来なかった。だって私には何か対抗する力は持っていないから。ただただ冷静に、昨日買ってきたプリンが冷蔵庫に入ってて、食べ逃したなぁ、死ぬのかな、なんて考えて、諦めたように目を閉じた。

昔から諦めが早くて、親に怒られてたっけ。
ごめんね、お父さん、お母さん。なんて思っていたら、訪れた衝撃は化物からのものではなく、凄く暖かい誰かに抱き締められたような感覚が訪れた。



「君、もう少し逃げたり、叫んだりしないわけ?」


そんな少し呆れたような優しい声が降ってきて、目を開ければ、黒ずくめの目隠しをした怪しい男が私を抱き止めており、首を回して後ろを見てみれば先程の異形の化物は木っ端微塵に切り裂かれており、静かに消えていく瞬間だった。


「あれ、なんですか?」


明らかに目の前の男は怪しいが、あの化物から救ってくれたのは確かだ。
それに彼ならば答えを教えてくれると思った。


「へぇ〜、君、あれが視えてるんだ」


そういう言うと、彼は私の身体を近くのベンチに座らせ、いつ買ってきたか分からないがいつの間にか持っていた暖かいココアを差し出した。
変なものは入ってないから安心して〜、なんて言うけれど、そもそも私を助けてくれた人なのでそこのところは心配していない。
ありがとうござます、とお礼を告げたところで、まだあの化物から助けてもらったお礼を言っていなかったことに気が付いて、改めてお礼を言えば、くすくすと笑われた。

そこからあの化物は呪霊と言って、呪から産まれたもので幽霊とはまた違うということを教わった。
そして昔から嫌な気配を感じることを見知らずの彼に告げてみれば、呪術高専とやらの説明を受け、そこに来れば君も戦えるようになるよ、なんて勧誘を受けた。
そんなに興味はなかったが、今後あんな化物に襲われたら次は確実に死ぬ自信があるので、私も戦えるようになりたいと少し思った。

それにしても彼が助けに来てくれなければ、私は死んでいただろうと振り返ってみれば、先程まではあんなに冷静だったのに、頭の中が恐怖でいっぱいになった。交通事故に遭った時なんかはその時はアドレナリンがたくさん出ていて、痛みに気が付かないなんて聞いたことがあるが、それに近かったんだろう。

だが、一度恐怖を知った身体は小刻みに震え、自分の身体を両手で抑えてみたが、震えは止まらなかった。
そうしていれば涙まで出てきて、自分ではどうすることも出来なくなり、彼を見てみれば少し困惑していた。

そりゃそうだ。
先程まで普通にしていた女が急に震えて泣き出したら、驚きもするだろう。申し訳ない気持ちでいっぱいになり、絞り出した声でごめんなさい、と言えば、彼は子供をあやすかのように優しく抱きしめて、頭を撫でてくれた。

彼の心臓の音がとくん、とくん、と耳に響き、荒波のように騒ついていた心が少しずつ落ち着いていくのがわかる。
もう大丈夫だよ、と優しく耳元で囁かれ、不謹慎にも私の心臓は大きく跳ねた。

しばらくそうしていただろう、身体の震えもおさまってきたので、もう大丈夫の意味を込めて、彼の腕の中からありがとうござます、と告げれば、私たちの身体はゆっくりと離れていった。
先程まで彼の温かな体温を感じていた為、身体が離れた瞬間、寒さを感じてくしゃみをすれば彼は自分が着ていたパーカーのようなものを私の肩にかけてくれた。そのパーカーからは先程抱きしめられていた時に感じていた彼の香りがふわりとして、また心臓が大きく跳ねる。

そうしていれば、彼はどこかに電話をしており、迎えがくるから家まで送るよ、と告げ、すぐにやってきた黒い車に乗せられた。
隣に座った彼は窓の外を見ており、私はその横顔を見つめていれば、その視線に気が付いたのか、そんなに見られていたら僕の顔に穴が空くよ、と笑われた。


あっという間に窓の外は見慣れた景色で、我が家の前に車が止まれば、彼はわざわざ車から降り、私の座る側のドアを開けて手を差し伸ばしてくれた。
その手を取って良いものか、迷っていれば、彼の方から私の手を取り、軽く引かれ、私は車から降りた。


「じゃぁ、気をつけて帰るんだよ」


目の前が私の家なのに、そう声をかけ、彼は車に乗り込もうとした。
もう二度と会うことはないかもしれない。だけれど、もし私が呪術高専に通って、彼と同じ世界に飛び込めばいつか会えるかもしれない。
名前だけでも知っておかなければ、と、今更ながらに彼の背中に名前、教えてください、と投げ掛ければ、五条悟、と名前だけ返ってきて、彼を乗せた車は走り去った。黒い車が見えなくなるまでその場から動けなかった。


それから私は両親を説得して、高専に通うことになった。少し反対されたが、何も出来ずに化物に襲われるくらいなら、と許可してくれた。

目標はあの日救ってくれた彼こと五条悟にもう一度会うため。
そんな不謹慎な理由で高専に入学すれば彼との再会は意外にも早く訪れた。



「あれ?もしかして君、会ったことあるよね?あぁ、呪霊に襲われてた妙に落ち着いてた子か。やっぱりここに来たんだね」


あの日と少しも変わらない、上から下まで真っ黒な服に目隠しの彼は目は見えないけれど、そう言って笑った。
どうしてここに、その質問は声に出す前に五条先生って呼んでね、という言葉によって解決された。


彼は先生、私は生徒の関係となった。



それから彼については調べなくても色々知れた。
この世界ではかなり有名で、最強の人らしい。
そして二人きりで一緒にいることの多い女性、家入さんは五条先生の同期らしい。

五条先生が彼女と楽しそうに話している姿を見て、胸がちくりと痛んだ。
その痛みは真っ白な紙に墨を溢したようにどんどんと広がっていって、息をするのも苦しいくらいに私は彼に恋していることに気が付いた。


どう足掻いても彼は先生で、私は生徒なのだ。
埋められない歳の差は絶望的で、彼と同じ歳に産まれていればどうにかなれるとは思わないが、それでも可能性は一ミリでもあるはずだ。


それでも彼に少しでも近付きたくて、少しでも印象に残りたくて、休日は訓練をし、呪霊と戦う技術を磨き、どんな任務でもこなしていった。
怪我をすれば家入さんが綺麗に治してくれるものだから、怪我をすることも厭わなかった。
とにかく少しでも早く強くなって、呪術師として成長して、大人になりたかった。

そう思いながら呪霊と戦っていれば、怪我はつきものだったが、夜蛾学長からも褒められるくらいには成長出来た。
だから五条先生にも褒めてもらえるかと思えば、そうではなかった。


「君は呪術師に向いてないよ」


そう言われた時には頭が真っ白になった。
こんなに努力して、頑張っても一番認めて欲しい人には認められないということはさらに私を絶望に追い込んだ。

きっと努力が足りないのだ。
もっと強く、もっと呪霊を倒さなくてはいけない、と思いが強くなり、私は焦っていた。

焦れば焦るほど上手くいくはずはなく、ついに大怪我をして危うく任務遂行出来なくなるところまで追い込まれてしまった。
もう駄目だ、と思った時、補助監督が私の危機を察知し、上に連絡を入れていたようで、助けに来た五条先生に助けられて事なきを得た。

助けに来た五条先生は呆れた顔をしており、折れた腕や足より心が激しく痛んだ。
でも五条先生が助けに来てくれたという安心感で私は意識を失った。







「…っ、五条、せんせ、?」


節々が痛い。
身体が鉛のように重たくて、顔を動かすのも辛かったが、横に五条先生の気配を感じて呼びかけてみれば、彼はゆっくりと優しく私のおでこを触った。



「目、覚めた?ん、まだ熱はあるね。水でも飲む?」



そう言われてみれば喉がからからで声も掠れていたことに気が付き、声にならない声で返事をしてみれば、五条先生は横の机にあった水を片手に持ち、もう一方の腕でわたしの身体を優しく起こして水を飲ませてくれた。
喉を通る水は冷たくて、身体中にゆっくり水が染み渡っていくと同時にまた彼に救われたことに気が付いた。結局自分はあれから何も成長していないのだ。やはり彼のいう通り、呪術師は向いていないのかもしれない。



「…ごめんなさい」

「ん?それは何に対する謝罪?」

「また、助けてもらって。私、何も成長してなくて、やっぱり呪術師向いてませんよね」



うん、って言われるのが正直怖かった。
それでも口から勝手に出てきた言葉は本心で、熱に浮かされて頭も上手く働かない。

目が見えない五条先生は何を考えているのかわからないけれど、私の身体を支える腕は優しかった。



「向いてない、って言ったのは君が頑張りすぎてたからだよ。どんな呪霊に対しても自分が怪我しても逃げようとせずに向かっていくから。それじゃぁ、いつ命を落としてもおかしくない。呪術師は時には逃げることだって必要なんだよ。だから僕は君に呪術師は向いてないって言ったんだよ」



それでも僕は君の努力を知っているし、君の力は認めているよ。と言われれば、今までどんなに怪我をしても泣かなかったのに、鼻の奥がツンとして涙が出そうになった。

そういう意味で向いていないと言われたのか、ただ力がなく、向いてないと言われた訳ではなかったのだ。
私はただ大人になりたくて、早く彼に追いつきたくて焦っていたのだ。



「五条先生、、私、焦ってました」

「ん、そうだろうね」

「早く先生に追いつきたかったんです」



僕に追いつこうとするなんて君は凄いね、なんて笑う彼を見て、そういう意味じゃないということを知って欲しくなった。



「私、五条先生のこと好きです」



もっと上手い言い回しもあっただろうけど、今の私にはこの言葉を出すだけでも限界だった。
五条先生が一瞬固まったように見えたが、それは気のせいで、笑いながら生徒に好かれるなんて教員人生に悔いなしだね〜、なんて言うので、そういう意味ではなく男性として好きです、と言えば、頭をぽんぽんと優しく数回叩かれた。


「ありがとう。そういう気持ちは嬉しいよ。でも君と僕は生徒と教師だから、そういう目では見られないよ。君はまだ子供だから大人の僕に憧れてるだけ。君には見合った歳の素敵な人がいるはずだよ」



そう、私の気持ちが受け入れられるはずはない。
こんな回答分かっていた。

私がどんなに成長しても、どんなに歳を取っても彼に追い付くことはないし、彼と並んで歩く未来は待っていない。
それでも、そんなことは分かっていても諦められるものではなかった。悪足掻きだったとしても、はい、そうですか、では終わりたくなかった。



「じゃぁ、私がもっと成長して、大人になったら五条先生は考えてくれますか?」

「きっと大人になったら考え方も変わって、君の気持ちも変わるよ」

「変わりません!変わらなかったら考えてくれますか?」



随分、頑なだね〜、そういうところがまだ子供なんだよ。と苦笑いされながら、そろそろ寝なさい、と起き上がっていた上半身を押されて、ベッドに戻された。



「五条先生…っ!」

「はいはい、良いから怪我人は大人しく寝なさい」



そう言って五条先生は私の目を手で覆い、もう何も言うなと言わんばかりに目を閉じさせた。

結局どんなに足掻いても生徒という括りからは出ることは出来なくて、どんなに追い掛けても追いつく事も、近付くことすら出来ない。
優しくしてくれたとしてもそれは生徒としてだからなのだ。

五条先生の手の温かさが余計に辛くて、涙が溢れてきたけれど、大怪我をしたこともあって身体は疲れ果てており、意識はゆらゆらと揺めき、すーっと眠りの世界へと落ちていった。
意識を手放す直前、五条先生の声が聞こえた気がしたけれど、私の耳にその言葉は届かず消えていった。









ーーーー手を伸ばしても届かない大きな背中











「で、彼女は目が覚めたのか?」



背中から聞こえてきたのは、高専同期である家入硝子の声。

生徒である名字名前が大怪我をしていると補助監督から連絡があった時には血の気が引いた。
彼女は日頃から怪我をしても気にしない戦い方をしていたから、いつかこうなる日が来るとは思っていた。

真面目な彼女は休日も訓練をし、死ぬほど努力をしていたことは知っていた。
でもその姿は焦っているように思えて、生き急いでいるように見えて危うかった。

僕には何故彼女が焦っているのか分からなくて、キツい言葉もかけてみたけれど、ついさっき僕のことが好きで焦っていたと言われて、その理由に気が付いた。


「さっき目を覚ましたけど、また寝たみたい」

「だろうな」


痛み止めの中に睡眠薬も入っている、あれだけの大怪我をしたら眠ってしまうのも当たり前だ。心配するな。と硝子に言われて、ホッとする自分がいた。
傷、綺麗に治してくれてありがとな、とお礼を言えば、彼女を起こさないように静かに笑う硝子。


「あんなに慌てた五条を見たのは久しぶりだ。言っておくが、彼女は生徒だぞ、間違っても無闇に手は出すなよ」



そんなこと硝子に言われなくても分かっている。

彼女はうら若き学生で、自分は教師。
生徒が教師に憧れるなんてことはよくある。まぁ、自分の学生時代にはそんな事なったが。

それでも自分に好意を持ってくれて、健気に頑張っている彼女を見ていれば気にもなるのが正直なところ。


彼女の目を覆っていた手を見れば、彼女の涙がついており、彼女の目の周りは濡れていたのを見て、気持ちに応えてあげられなくて申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

彼女が生徒でなければ。
後輩や同期くらいであれば、自分はその気持ちに喜んで応えてあげることが出来たであろう。


彼女の目の周りの涙をそっと指で拭き、そのまま頬を優しく撫で、耳元に口を寄せそっと呟く。




「早く大人になりなよ、待ってるよ、名前」




静かに眠っている彼女のおでこに軽く唇を落とし、五条悟は医務室をあとにした。

彼女が彼に追い付くのはまだまだ先のお話。

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