そんな摂氏ょうな

犬が萎びている。へなへなと弛緩した身体を持て余すように長い手足ごとでろりと畳に投げだし、空気中の水分を少しでも吸収しようとでもいうように舌をべろんと露出させている。息が荒い。ほんとに犬だなこりゃ。しかし、ただの犬ならばまだ愛嬌があるその様子はいくら犬のようとは言っても実際には成年に近い年齢の男がやっていると見た目にも大変欝陶しい。このままでは精神衛生上よくないと判断した俺は窓を全開にしたが、そこから入るものが涼風ではなくアスファルトから立ちのぼる熱気であることに顔をしかめる。これ以上不快指数を上げないように戌井のほうを努めて見ないようにし、心しずかに入道雲の隆起を数える。

「平均気温34度ってアホかと池袋クーラーないとかわけわからん茹だる萎む干からびるつまり死ぬかも」
「人間の言葉を喋れ、犬」

ひどく生気の感じられない声はぐぐると唸った。批難の意図が込められているのだとわかったが、俺の何が悪いのだと堂々開き直ってやる。
犬が噛み付くような口調で吠えた。

「ならば喋るが静雄さん、クーラーとは言わない、でもせめて扇風機くらい買おう・・・?」
「給料前でんな金ねえ、あと6日間うちわで乗り切れ」
「あッ、俺、死んだ・・・島での銃撃戦の中でも生き延びた東の狂犬は平和な池袋の真ん中で死ぬんだ・・・狗木ちゃんごめん・・・」
「毛切ってやろうか。さっぱりするぞ」
「あの、それ髪と言ってやってくだされば俺の心臓にはいいんですが・・・」

毛でも髪でも遠慮しときます、と戌井はうだうだと畳の上で身体をよじりながら言った。暑さに倦んだ、だらだらとした声。虹色というどうにも凄すぎるセンスに、俺には不明瞭な価値を見出だしているらしく、戌井はあまり髪型を変化させたがらない。どこをどのように染めたらこんなことになるのかという素朴な疑問さえ、無難な金髪でしかない俺に推測するのは困難である。

「静雄さん、仕事以外じゃ完全インドアのくせに暑さに強いとか何事よ・・・」
「大きなお世話だ。このアパートに暮らして2年だぜ、もう慣れんだよ」
「へえ。じゃ、その半分は俺と同棲してるってことね」
「・・・もうそんなんになんのか」

同棲じゃねえお前は居候だ、といつもの台詞を言おうとしたのだが素直に嬉しそうな様子の奴の話を聞いて口から出たのは感嘆だった。驚嘆でもあるかもしれない。戌井を拾ったのは、もう、そんな前になるのかと。
一年も一緒の空間で暮らしてて戌井の髪の理由の意味も知らないのだが、それはともかく、度々戌井が里帰りなどと称してどこぞへ行ったっきりしばらく帰ってこないということがあったとはいえ。一年。はあ。彼女もまともに出来たことのない俺が。不毛な関係が更に不毛に変化する訳だと、納得しながら畳でへばる戌井に言葉を投げる。

「暑いんなら寝ろ、寝て忘れろ熱気を」
「えーこのうだるような暑さで眠れるような奴は睡眠薬を悪の組織に投与された主人公だけだよ。つーかまだ真っ昼間だし、いい若いもんが土曜日の明るい内から昼寝なんて・・・」
「いいから寝ろ。あとアクション映画の見すぎだお前。暑い暑い言われると我慢してるこっちまで暑くなんだよ、なんなら、殴って無理矢理昏倒させたっていいんだが」
「静雄さんのその苛々は、暑さのせい?」
「いや、多分お前のせい」

とか言ってー、と戌井はねっころがったまま、そよともしない風をそれでもしぶとく窓辺で待つ俺を見上げる。

「有無を言わせず殴り付けないほどには、俺のこと懐に入れてくれてんでしょ?」
「・・・・・・」
「さっさと出てけって、もう言われなくなってきちゃったしねえ」
「めっ、・・・飯が。飯が美味かったんだよ」
「餌付けされてんのはあなたのほうっすか」

料理ってヒモに欠かせないスキルだしねーと、わははと笑う戌井、何言ってんだ俺はと自己嫌悪。戌井の飯がうまいのは確かだが、そんなことで一年も住まいに居座れることを許可できるほど俺も人間出来てはいない。が、たとえバレバレだろうとそんなことを絶対に表立って言ってやるつもりも無い。
戌井が緩慢に立ちあがる気配。必死にそっちを見ないようにする俺を嘲笑う気なのか背中にべっとりと抱き着かれる。暑い。触れ合うところが熱を持ち、その温度に身をよじって抵抗しようとしたのだが綺麗に筋肉の流れを押さえられ、柔道の組み手のように戌井の意志のみで身体が動かされる。受け身はとれず。図体のでかい男二人が畳の上に倒れ込んでしまった、後でまた大家さんに厭味を言われてしまうかもしれない。
人一人を文字通り倒しておきながら、戌井は楽しそうに、笑っている。
耳の後ろにかかる戌井の呼吸。

「ウナギ丼も月見うどんもおでんも牡丹餅も食ったし。今年は何食べたいすかねえ、飼い主様?」

おいおい、いつまで居る気だと突っぱねることは可能なのだが、何故だかそう言うのは躊躇った。見えない位置にあるはずの赤と青の瞳が、いやにリアルに頭に浮かんだせいかもしれない。
返事をしないことの代替として、俺は狸寝入りを決め込むことにする。暑いんだ、避暑のために寝ようぜエコに。夕方まで休憩だ。
はい、おやすみワンちゃん。

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