兄と弟と犬と犬

「わかんねー」
戌井は携帯電話に、珍しく顔を歪め泣き言のようなことを囁いた。
何を言われたのか理解できなかった。自分にとってはそれが真実なのに、ばっさりと否定されてしまったのだ。
ほとんど聞こえないような吐息と変わらないそれに電話の向こうの相手は沈黙で戌井の反省を促し、戌井はそれをわかっていながらため息をついて答えを先延ばしにした。何を反省、させたがっているのかわからなかった。お前は俺に前言を撤回させようとするのか、何故。
しゃがみ込んでいる戌井は自分の膝に肘をのせ、空く左手で七色の前髪を握り潰す。右手の中の通話相手は普段から沈黙を武器にするタイプの人間でそれに戌井も好感があったほどだっだが、こんなときばかりはそれが恨めしかった。喋れよ。何か喋ってくれ、俺にお前の声を聞かせてくれ。
お前だってするだろ? 綺麗言なんかやめろよ、偽善者め。



「なあ狗木。二重人格についての知識ってあるか?」
それが狗木の携帯にあの忌ま忌ましい虹の狂犬からのコールがかかり、苦々しくおもいながらも無視もできずそれを受けてから真っ先に聞こえた言葉だった。ない、と端的に言って通話を終わらせようとした狗木の耳に、なんとも情けない、胸のわだかまりをそのまま音にしたようなため息が滑り落ち、気が変わった。
「誰のことだ?」
「俺の同居人。・・・や、飼い主かな?」
狂犬が飼われているなんてどんな冗談だ――西の住人にしても東の住人にしても、戌井隼人を知っている者ならばそう仰天するような言葉に、しかしおそらく島の人間の中で、狗木だけは。自らを猟犬とし、飼い主を持つ狗木だけは、電話の、鏡の向こうの相手に瞬き一つのあとで頷いた。そうか。一呼吸でそれを伝えた後、戌井が告げたことを確認する。
「その人が、二重人格というのか」
「ああ」
「それをどうやって知った。確証はあるのか」
「・・・ああ」
「話せ」
狗木の言葉に押し黙る戌井。普段とはまるで正反対だなと声に出さないままに思う。鏡の向こうに映る自分、それが戌井だとお互いに理解していた。戌井が変われば自分も変わる。戌井の方が先に生まれた分、時に戌井が歩いた道をなぞりながら生きていたが飼い主を持ったのは、意外なことに俺のほうが先だったのか。飼い主の存在ではなくそこに驚く狗木に戌井は答えた。
「・・・はじめは、からかってるのかと思った。いつもみたいに起きて朝飯作ってたら、仕事の時間ギリギリまで寝てるようなそいつも起きる気配がして。何今日どうしたんだ珍しいななんて驚いたら、そうですか?って――別人みたいな喋り方された」
「からかってるわけじゃないと、気づいた理由はなんだ。ある心当たりは全て列挙しろ」
「当初は勘だ。俺を見る目つきが全然違った。同じ顔してるのに印象も違ってた。さめてる、って言えばいいの? 元々怒り以外の感情には疎い極端な奴だったが、あの顔はそれとも違った。完全無色の、無垢とさえ言える顔だった。具体的にいうならちょっと男前さが上がった感じ? かなりの美貌に思えた。人間らしさのない、CGみたいな見事なもんさ。・・・揺るぎない確信に至ったのは、そいつが兄貴と呼んだことだ」
「誰を? お前を、飼い主を?」
「俺に弟はいないよ」
小さく苦笑の気配。自嘲か。忘れることのない戌井の顔を狗木はまぶたの裏に浮かべた。口の端だけをくっと上げて、左右で色が違う目は苦しそうに伏せられている。黒いまつげを震わして虹色の犬は言うのだろう。
「あいつには弟がいた。羽島幽平というアイドルだ。一昔前の聖辺ルリとの熱愛報道、今のお前でも覚えてるよな?」
「・・・、幼なじみが、騒いでた」
「ああ。羽島幽平は、俺の飼い主だった」
少しの間、狗木は意味を咀嚼するために口を閉じた。考えて、電波にのせて素直に聞く。
「難しいな」
「お前のそういうところすっげ好き」
くっくっくっ、と笑う戌井が今だけは銃を向けあったあのころの彼に思えて、報われない恋でもしているみたいな彼が今更ながらに哀れになった。島から出た、戌井の声を聞くのも考えたら久しぶりだ。くそ。案外、悪くない。
「羽島がお前の、ということなのか?」
「違うよ。俺は幽平に拾われたつもりはない。静雄だ」
静雄というのか。女に拾われた俺と男に拾われた戌井。片方が右に行けば片方は左、山に行けば海、西に行けば東に行く犬。どこまでも逆さまに映る鏡の自分。
拾われる戌井も戌井なら、拾ってやる静雄とやらも相当である。こんな激烈に危険人物であることを見た目から伝えてくる男をよくぞ拾ったものだ。現代人とは思えない無防備ぶりと思えた。現実にどんなやり取りがあったかなど知るつもりはないが一悶着あってしかるべきだろう。
「静雄が幽平だったんだ」
「・・・・・・」
狗木は携帯を持つ手を変えた。戌井の声が続く。
「さっきから言ってるよな。二重人格者だった。静雄は羽島幽平の人格を持っていた。つまり」
はあ、とまたため息。
「羽島幽平、イコール平和島幽、イコール平和島静雄――ビビったよ。俺テレビに映ってる幽平は見たことあったのに、髪の色とか着てる服とかサングラスとか、そんな違いに騙されて全然気づいてなかった」
静雄の話には出てたけど実際に会ったことはなかったんだ。二人が揃った写真も見たことない。その訳が今朝わかった。静雄は静雄だし幽平は幽平なんだ、二人とも自分達の関係は心から兄弟という認識でいる。離れて住んでいる兄弟だと、自分自身のことを思っているんだ。
と。
滔々と語る戌井にこれは今ひょっとしてすごいスクープを聞いているのではと狗木は狐につままれたような気がする。羽島幽平というネームバリューは今でも聖辺ルリと共に芸能界で轟いている。マスコミに今の情報をリークすればさぞかし誌面をにぎわすだろう。
狗木には芸能界のことなど何もわからない。わからないなりに暫く、色々な事に想像を巡らせた。最後に戌井の息遣いが聞こえる携帯を、そっと撫でる。
戌井隼人という男については、芸能界よりは知っている。
「それで」
と、水を向けてみた。
「飼い主が二重人格者で、お前はそれで、何が変わるんだ?」
素朴な疑問である。
いや、だって別に不便があるとはおもえなくて。
「ばっ・・・」
戌井の絶句した声。
「ばっかお前、これは重要なことなんだって!」
「・・・なにが」
「考えてみろよ、もし静雄に夜這いかけてるときに幽平の方になったらどうすんの! なにやってるんですか戌井さん、とかあの声で言われたらすっげ萎えんじゃん、すっげ萎えんじゃん! しかも幽平ってすっげえ静雄に溺愛されてんだ、負けんじゃん! しかも静雄の身体じゃん、幽平陥れることもできねえのよこれ! あの臨也より厄介なわけよおお!!」
知らないよ。
「飼い主襲うなよ」
「えっお前やらねえの!?」
「やるか。俺は彼女の影だ」
「わかんねー・・・ムラムラしねえの?」
何を泣きそうな声を出している。わからないのはこっちだ。変態め。
狗木は無言で見知らぬ平和島静雄という青年と、その弟に謝罪した。羽島幽平の方はいい性格をしているようだが、兄の方の苦労が偲ばれてしまう。
何も理解していないだろう戌井の替わりに、鏡の向こうの相手として。

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