大事っすよ注射

「ルールールー、静雄のSはーサディスティックのエッスぅ、隼人のHはらンフフーンのエッチぃー」

頭湧いた?

まさかダニのせいだろうか。人間の姿をしているからと、犬を飼う上で欠かせないとされるダニ予防の費用をケチったのがまずかったのか。長毛に絡むダニの発生は素人の静雄の手にはおえない。バルサン焚いてももはや手遅れか。風呂から上がったばかりでそんな無惨な状況を目にしてしまった静雄はその場で立ち尽くした。
身体を跳びはねるダニに脳内を侵食されたとおぼしき二足歩行する駄犬が、アパートの窓から煤けた空を見上げながらどうにも悲しい歌を唄い出したのだった。静雄の悲しみのベクトルは主に戌井の頭の集約される。それともひょっとしたら狂犬病に冒されてしまったのだろうか。どちらにせよ可哀相に。静雄がワクチン代や予防摂取代をケチったばっかりに。
「・・・どうした?」
腫れ物に触るように優しく囁く静雄。そっと虹色の髪を撫でてやるとえっ?と不思議そうな顔をする戌井。静雄はいいんだよ、いいんだよと口に出さないまでも寛容に頷いて見せ、戌井を安心させようとする。安心どころか意味がわかってなさそうな戌井には気づかない。
「静雄サン?」
「いいんだ・・・ちゃんと、看取ってやるからな・・・?」
「え・・・俺死期をあなたに決められているの・・・?」
まあ別にいいけど。と別によさそうな顔で言う戌井は確かに頭が可哀相なことになっているらしい。ごめんな、俺があんまり稼いでやれないばっかりに。いつもいつもお前にばかり迷惑をかけてしまって。
戌井はなでなでと頭に受ける愛撫にちょっと気持ち良さそうに目を細めながら、「あの、機嫌がとても麗しそうなのでこの際、俺のお願いを聞いてもらってもいいですか」と静雄を見上げる。かつての静雄は忠犬ハチ公はもし人間だったら欝陶しいだけと思っていたがそんなことはなかった。一緒に暮らしているうちにいつの間にか、こちらからも知らず知らず愛情を持ってしまうものである。多分静雄がハチを飼っていたら、喜びにむせび泣くと思う。戌井も、ハチのレベルまでは到底いかないただの盛りのついた馬鹿犬だが、どんな犬だろうと飼い主にとってはかわいいものなのだと、静雄は実感した。せめて、死ぬ前の頼みくらい聞き入れてやりたい。
「遺言か? いいぜ、言ってみろよ」
「あ、そろそろなんだ俺の死期・・・別にいいけど」
狂犬病の疑いのある虹色毛並みの犬一匹はでは、と静雄に顔を近づけた。いつもならばこのあたりで静雄の蹴りが飛ぶところだが静雄とて、病に冒されている愛犬にまで躾を加えるつもりはないのだ。ゆとりある優しい気持ちで、接近してくる戌井の顔を見つめる。唇を尖らせている戌井。
「ずるいよね」
「へえ、何がだ?」
脈絡の無い、怨みがましげな戌井の言葉にも多大な哀れみを覚えている静雄は寛大な笑顔を浮かべ、慈愛を込めて続きを促す。戌井はしばし無言でいつもとは違う静雄の反応をいぶかしみじっとその顔を見つめていたが、珍しいあんたの微笑みをたまわったからいっか、とため息をついた。
「いや、静雄サンあれじゃん。俺のことなんて呼んでるよ?」
「戌井。犬、駄犬、馬鹿犬」
「・・・隼人って呼んで!」
へ、とやや意表に突かれた静雄は戌井を撫でる手を止めて、その左右色違いの瞳に見入る。意外なことに戌井は笑っていなかった。
「ずるいよ、あんたの弟や岸谷先生・・・も友達だからともかく、ドレッド頭の上司とか、あの埼玉の小僧とかさ。下の名前で呼んじゃって」
「埼玉、あー・・・千景」
「それっ! それがずるい!」
いきり立った戌井にこれが狂犬病の症状なのかなあという感想を抱きながら、うーんと呟く。ろっちーという呼び方が恥ずかしいから千景。それの何がそんなに気に入らないのだろうかとぴんとこない。そもそも聞いた覚えはあるはずなのだが静雄は、千景の苗字を覚えていなかったというだけなのだが。それと、千景と戌井は本人談では同い年だったはずだ。小僧って。
「・・・門田とか遊馬崎、狩沢に渡草は・・・」
「知らねえけどそんな奴ら。でもさあの、あんたが嫌いな折原い」
「あれの話はすんな」
「・・・だって、嫌ってるくせに名前呼びだし。なんでー。なんで同居までしてる俺は頑なに戌井なのー」
ねえねえと甘えるように首に絡められた戌井の腕が重い。同居ではなくお前は居候だろ。それも、最近の感覚では飼育に近い。
「俺あんたの声好きなの。その声で名前囁かれたら泣いちゃうぜ」
「泣きたいのか。変な奴だな」
「あーサディスティックぅー。やっぱり静雄のエスだねー」
ゾクゾクしちゃう、と戌井は静雄の肩に顔をうずめる。病犬に無体もできず仕方なしに拒まずにいると、こっちは風呂上がりだというのに首に妙にヌルリとした生温かい感触がしてとても嫌だった。静雄のせいでダニが沸いたというのでなければ、何度殴ったかしれない。
名前を呼べと、遺言にしては随分と容易に叶えてやることのできる依頼は、きっと平素であれば難無く応えてやることのできるものだった。しかしこう繰り返しせがまれると気恥ずかしさが先立ち、おうじゃあこれからそう呼んでやる、と快答しかねた。呼び名とかそういうものは自然に変えるものだろうにこうねだられてしまっては、照れ臭いのだ。
なのに戌井は言う。
「隼人って呼んでよー俺を絶頂に誘ってよー」

興が乗ったのかふんふーんとさっきの鼻歌を唄いだす戌井。照れを押しのけた罪悪感が再来し、これも俺が飼い主の義務を怠った罰だと諦める。
一回だけなと前置きして、口のすぐそばにあった安全ピンの刺さる耳にぼそりと囁いた。

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