03.みっつ、満ちる音がした嘘


 うっすらと目を開いた。
 頭の奥が鈍く痛む。瞳だけでゆっくりと周囲を見渡すと、どこもかしこも真っ白だった。
 どうやら私はベッドに寝かされているらしい。
 この独特の消毒液の匂いといい、真っ白な空間といい……もしかして病院?
 上手く働かない頭でぼーっと天井を眺めていると、がらりと扉が開く音がした。そして、どこかで聞いたような男の人の低い声が私の耳を擽る。
「目が覚めましたか」
 私は慎重に頭を横に倒して、声が聞こえてきた方を向いた。
「……ここは?」
「病院です」
 なるほど。私の予想は当たっていたらしい。
 旧校舎の玄関は薄暗くて分からなかったが、病院の灯りの下で見る男の人はとても背が高かった。窮屈そうに背を屈めて、私の寝ている病室に入ってくる。
 喋っている内に段々と意識がはっきりしてきた。
 寝たままなのが何だか落ち着かなくて起き上がろうとすると、つかつかと歩み寄ってきた男の人が絶妙なタイミングで背中に枕を差し入れてくれた。
 お礼を言うと、いえと言葉少なに返される。男の人は傍らの丸椅子をベッドの横に引き寄せて座った。
 そしてすう、と息を吸うと彼は途端に険しい顔つきに変わった。
「……なぜ私を助けたんですか」
 長い前髪の隙間から覗く片目が剣呑な光を帯びている。射抜くような眼差しに、私は息を呑んで固まった。
 けれど、急かすような空気ではない。その証拠に、男の人は問い掛けを投げると私の返事を待つように口を閉ざしている。私はじっくりと考えてごくりと溜まった唾を嚥下すると、震える唇を無理やりこじ開けた。
「………………ええと、危ない! と思ったら咄嗟に体が動いてて……。無我夢中でした」
 玄関での出来事を頭の中に思い浮かべながら答えていると、私は唐突にあることを思い出して不安になった。
「っすみません! 勢い良く突き飛ばしちゃいましたよね……? あの、大丈夫でしたか?」 
 咄嗟の判断だったとはいえ、しでかしたことを謝ると。
「……いえ、あなたのお陰でかすり傷一つないですよ」
「良かったあ……」
 私はほっと胸を撫で下ろしたが、男の人にははあ、と溜め息を吐かれてしまった
 しかし、彼の顔からは先程までの強張りが消えていた。いつの間にか鋭い眼差しも無くなっている。
「……まだお礼を言っていませんでしたね。ありがとうございます」
「そんな、謝らないで下さい! 元々旧校舎に勝手に入った私が悪いんだ、けほけほっ」
 喉が絡まってしまい途中で咳き込んでしまった。慌てたように背中に大きな手が添えられて、躊躇いがちにさすられる。
 私の咳が落ち着くと、男の人は持っていたコンビニの袋から次々に飲み物を取り出した。緑茶、麦茶にミネラルウォーター。それぞれメーカーもばらばらで数種類ずつある。
「喉が乾いたでしょう。お好きな物をどうぞ」
「……いいんですか?」
 おずおず伺うと、真顔で頷かれた。
「遠慮は無用です」
「……えーと、じゃあこれ頂きます」
 私が選んだのは、いつも自販機で買っている緑茶のペットボトルだ。
「あ、あれ?」
 早速キャップを開けようとするが、上手く手に力が入らない。
 見かねた男の人にさっと取り上げられて、ご丁寧にキャップを軽く開けた状態で差し出された。
 至れり尽くせり具合に恐縮しながら私はペットボトルを受け取った。


 ベッドに横になるように言われ、私は素直に従った。ぶり返してきた頭の鈍痛に思わず顔をしかめると、大丈夫ですか、と気遣う声がかかる。
 心なしか張り詰めるようだった男の人の雰囲気は随分軟らかくなっていた。
 今にも頭上のナースコールを押さんばかりの勢いだったので、私は慌てて止める。
「や、少し頭が痛いだけなんで!!」
 寝てれば治ります、と私が必死に言い募ると男の人は渋々伸ばしていた腕を下ろしていた。
「……脳震盪の影響でしょうか」
 頭にそっと大きな手が添えられる。痛みを和らげるかのようにやさしく撫でられて、心地よさにうっとりしていると、次第に目蓋が重くなってきた。
「……まだ名を名乗っていませんでしたね。私の名前はリンと言います」
「……リンさん?」
「はい。あなたの名前は?」
「わたしの、名前は……飛鳥」
 いよいよ目蓋が開かなくなってきた。
「……寝てしまいなさい。次に目覚めた頃には、多少頭痛も収まっていることでしょう」
 ゆるりと意識が微睡みに溶けていく。
「おやすみなさい……」
 夢現に呟いた声がきちんと音に成ったか分からなかった。
 おやすみなさい、飛鳥。
 応えるように落ち着いた声で名を呼ばれた気がしたけれど、それは現実ではなく、夢の中の出来事だったのかもしれない。

top next
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -