35.斜め上からの視線の伝聞


 さて、どうすれば彼女は機嫌を直してくれるだろうか。
 そうだなあ……甘いものを食べると気分が落ち着くって云うし、とりあえず飴をあげてみよう。
 むすっと頬を膨らませてそっぽを向いた麻衣ちゃんに苦笑しつつ、私はポケットの中を探る。けれどお目当ての物は出てこなかった。出てきたのはチョコレートの包み紙。どうやら証拠隠滅の際の片付けの時に出し忘れたみたいだ。
 何食わぬ顔でポケットに再び押し込めて、不意に閃く。麻衣ちゃんは、無事お昼ご飯にありつけるのだろうか。明日も朝からベースに詰める予定だし、一人取り残されたとしたら、当然お昼を買いに行く時間はないだろう。
 幸いにして明日は土曜日。授業は午前中のみで、私は昼から合流する手筈になっていた。
「ねえ、麻衣ちゃん。明日のお昼ってどうするの?」
「……まだ決めてない」
「ならさ、麻衣ちゃんの分も作って来るからここで一緒に食べない?」
 話を持ちかけると、麻衣ちゃんは不機嫌だったのも忘れてぱああと目を輝かせた。
「殿、よいのですか……!」
「ああ。良いとも」
 大仰に頷いてみせれば、ははーっとわざとらしく頭が下げられる。いつものなんちゃって時代劇を繰り広げる私達に、白けた目を向けた所長は巻き込まれたくないのか実にスマートに手元のカードに視線を落とした。
 そんな風に我関せずといった渋谷さんを尻目に、私と麻衣ちゃんがじゃれ合っていると――何の前触れもなく、それは起こった。
 まず始めにカタンと、物音がした。決して大きな音ではないのに、妙に室内に響いた気がして、真っ先に反応して顔を上げた麻衣ちゃんにつられるように、私も天井を見上げる。
 コトンと、再び物音がした。渡り廊下を渡って行くことが出来る隣の校舎には屋上があるのだが、ベースとして提供してもらっている小会議室のある建物には無かった。更に云えば、小会議室は最上階にある。
 じゃあ、まるで上の階の物音のように聞こえるこの音は……なんだ。
 部屋の電灯がすうっと暗くなる。普通の停電ではない。停電ならば、建物全体が暗くなって然るべきだが、ドアの隙間から廊下の光が僅かに差し込んでいた。局地的にこの部屋の電灯だけが、切れかけているように頼りなく瞬く。
 警戒も露わに、所長が椅子から腰を浮かした。
 ゴトン、と先程よりも大きな音が響いた。
 電灯が瞬く度に、天井がぼんやりと浮かんでは暗くなるのを繰り返す。私の手を、麻衣ちゃんが痛いぐらいに握り締めた。
 ――仄暗い光の中に、『それ』を見つけたのは、誰が一番先だったろうか。まるで天井から生えるように、一掴みほどもある髪の毛が下がっていた。
「……ナル」
「落ち着け。動くな」
 眼の乾きを感じてまばたきすると、髪の毛は二掴み分増えていた。電灯がちかちかと明滅するごとに、垂れ下がっている髪の長さも徐々に長くなっていく。
 三十センチばかりになった時、渋谷さんが立ち上がった。私達を背に庇うように――見せまいとするように、前に立ち塞がる。握られた手から小刻みの震えが伝わってきていた。
「……動くな。大丈夫だ、じっとしていろ」
 いつしか白い額が見えて、そのまま逆さまの生気のない女の顔が下りてくる。
 抜け落ちた眉、落ち窪んだ目、削げた頬に、尖った顎。
 そうして、まるで覚醒するかのように閉ざされた瞼がカッと見開かれた。女の首が舐め回すように室内を見渡して、どこか一点を捉えると、じっくりと狙いを定めるようにその体勢のまま静止する。
 ――薄い血の気のない唇が、にやりと歪められたのが見えた。
「ナル……!」
 切羽詰まった声が上がる。所長は後ろ手に腕を回して怯える麻衣ちゃんを、しがみつかれている私ごと囲った。
「あれがこの学校の霊なら、何もできない。大丈夫だ」
 ……でも、実害があるっぽい雰囲気はビシバシ伝わってくるのですが。
 女はどんどん沈んできて、とうとう上半身までにょきっと生やして垂れ下がった。長い黒髪に白い着物……随分古風なやり口だ。
 私はここぞとばかりに所長の肩越しに女を観察する。
 逆さまに出てくるというのもなかなかパンチが効いているとは思うが、第一印象でインパクトがあるのは寿荘の住人たちの方かもしれない。手を洗ってトイレから出た瞬間に貞子さんに出くわしたあの時のことは未だに忘れられそうになかった。しかも妖怪アパートに慣れる前だったから、私は物凄い雄叫びを上げて階段を駆け下りると、ふよふよ地面から数センチ浮いていたまり子さんに抱き付いて梃子でも離れなかった。
 ――後でまり子さんも幽霊だったことを思い出したんだけどね。
 時を経るごとに、事態はどんどん悪化していっている気がする。上半身なんてもう半分出てきちゃってるし。このまま睨み合っていても天井から抜け出してきた女に何されるか……どうしよう。いざとなったら近くの椅子を武器に戦うしかないのか。
 ……いや待てよ。普通幽霊って触れないよな。まり子さんやクリは触れられるけど……あれは妖怪アパートが特殊なんだった。椅子を投げつけてもすり抜けちゃうよね。
 というか果たしてこいつは幽霊なのか。人外なのは間違いないだろうけど……。霊感が無い私にも見えているってことも謎だ。
 うんうん唸って打開策を考えていると、何の前触れもなくベースの扉が開かれた。
「どした? やけに静か……、!」
「っぼーさん!」
 震える声で麻衣ちゃんが叫ぶ。
 それからのぼーさんの反応は驚くほど素早かった。軽口を引っ込めると女を睨み付け、さっと指を組んで印を結んだ。
「ナウマク、サンマンダ、バザラダン、カン!」
 ぼーさんの真言が効いたのか、女の身体はずるっと天井に逆戻りしていく。髪の毛の先が消えるのと同時に、小会議室の電灯は復活した。
「なんだ……今のは」
 呆然と呟くぼーさんに、渋谷さんはさっきまで渦巻いていた焦燥感が嘘のように冷静に答えた。
「とうとう、ここにも現れるようになったらしいな」


 私にしがみついた体勢で身体が固まってしまった麻衣ちゃんを、なるべくやさしくぼーさんが引き剥がす。それからぽんぽんと、順番に頭を撫でられた。
「二人共大丈夫か? すげえ怖かっただろう」
 麻衣ちゃんはぎこちなく肯いた。
「うん。怖かったけど、飛鳥がいたからまだ耐えられたのかも……。そう言えばちっとも喋んなかったけど、飛鳥はあんまり怖がってなかったよね?」
「あー、まあ。……明らかにこっち見てたから仕掛けてきそうだなと思って、どうやって撃退しようか考えてたの。……かくなる上は物理かなって。でもゾンビじゃないからパイプ椅子投げつけてもすり抜けちゃうよねー」
「……なかなかアグレッシブだな、お前さん」
 素直に言っただけなのにぼーさんに引かれてしまった。
 冗談だと思ったのかふふ、と麻衣ちゃんが微かに笑う。
 意図せず部屋の空気が緩んだところで、麻衣ちゃんが何か思い当たったように渋谷さんを凝視しだした。
「あれは……ナルを狙ってるんだ」
 え?
「――なに?」
「この部屋じゃない。あれはナルに現れたんだ。あれは良くない。ナルが危ない。あれは邪悪なの。学校中にいる鬼火。あれはその中の一つなんだよ。ナルを狙ってる」
 ……鬼火? まさかそれって。
「もしかして夢で見たって言ってた奴?」
 私が口を挟めば、顔を見合わせていた二人が問うような視線を麻衣ちゃんに向ける。
 それから芋づる式に昨日ベースで麻衣ちゃんが居眠りしていた事がバレてしまったけれど、頭ごなしに叱られることはなかった。それよりも見た夢の内容を語る麻衣ちゃんの必死な様子と、何かを暗示するような夢の話に渋谷さんは気もそぞろに考え込んでいる。
「どうしてだか分かんない。でも鬼火を見た瞬間、あれは邪悪なものだって分かった。霊なんてもんじゃない。むしろ鬼だよ。絶対に危険なものなの」
 鬼火と鬼、か。
 私は寿荘で昼間から麻雀をしていた物の怪たちの姿を思い返し、首を振った。
 麻衣ちゃんの説でいくならば昔話に出てくるような赤鬼や青鬼ではなく、さっきの『アレ』は鬼婆や山姥と呼ばれる類なのだろうか。


◇ ◆ ◇



 リンさんとSPRの協力者達は途中で合流したのか、一緒に戻ってきた。所長とぼーさんが先ほど起こったことを説明していく。説明が進むにつれ、真砂子ちゃんの顔がどんどん色を失っていった。
「そんなはず、ありませんわ。この部屋には霊なんていません」
「じゃあ、僕らが見たものはなんだと?」
「……分かりません。でも、それは霊じゃありません。絶対に違います」
 ひくっと喉を詰まらせて、真砂子ちゃんは血を吐くように叫んだ。
「そうでなきゃ、あたくしは霊能力を失くしたことになります!」
 戦慄く真砂子ちゃんの背中を、慰めるように綾子さんがさする。
「見えないってことは、新怪談のほうでしょ。なんか特殊な霊なのよ」
「ですね。そもそも、あの『女』が本当に幽霊だったのか現時点で決まった訳じゃないし、妖怪や生き霊の可能性も捨てきれないですよね。麻衣ちゃんも、あれは幽霊なんてもんじゃなくて鬼だって言ってるぐらいだし……」
「妖怪はともかく生き霊ってあれか? 妬むあまりに寝床から魂だけ抜け出して、毎晩夢枕に立って悪夢をみせるってやつ」
 多分、重くなったベースの雰囲気を変える為だろう。
 ぼーさんは素人の意見に乗ってきてくれた。それに有り難く甘えさせてもらう。
「それです! 魘されている側は高貴な身分の男で、実は通わなくなっていた姫に呪われていたって顛末だったかな。まあでも、姫は無意識の内に呪ってたから藁人形とか呪術師に頼んで呪わせてたって訳じゃないのが、切ない所ですよねー……」
 だってそれだけ好きだったってことだ。平安時代の通い婚って女性側が圧倒的に受動的で、相手が来るのを信じて待つしかない。会いに行けないからこそ寝ている間に知らず知らず魂だけ飛ばしてたんだろう。
「――藁人形」
 渋い顔で考え込んでいた所長が、思わずといった風に復唱する。それから数瞬遅れてリンさんが、はっと何かに気付いたように所長を見つめた。
「ナル」
「――確かめたいことがある」
 今日の調査はここまでだ、と宣言した渋谷さんは立ち上がり、てきぱきと帰り支度を済ませるとリンさんを伴っていち早くベースをあとにした。
 おお、阿吽の呼吸再び。
 そして残された私達は、見事な連携プレイに半ば呆気にとられていた。
「何か分かったのかな」
 不思議そうに首を傾げる麻衣ちゃんに対し、綾子さんは清々しいほどあっけらかんと言い放つ。
「さあね。あの冷血漢共が考えることなんて、あたしには分かんないわ」
「何か気づきはった様子どしたけど……」
 ジョンさんが思案するように呟いた。
「だな。ま、明日になりゃあ何か進展するかもしれねえし、真砂子もあんまり気落ちすんなよ」
 そう言ってぼーさんが軽く頭をぽんぽん叩くと、真砂子ちゃんは俯いたまま微かに肯いた。
 何一つ分からなかったが、森下邸での出来事(数々の単独行動やリンさんを伴っての外出で最終的に原因を特定してみせた)を踏まえて何らかの糸筋でも捉えたのだろうと信じて、ぼちぼち解散となった。

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