01.ひとつ、左端のそれ


 急な海外赴任が決まったと父に告げられたのは、卒業式を間近に控えた時期のことだった。父はジャーナリストという仕事柄しばしば家を空ける。そこまではいつも通りだった。
 しかし、一つだけ違ったのは。
「ええ! お母さんも行くの!?」
 初めて母が、父に着いて行くと言い出したのだ。
 私がせめて義務教育を終えるまではと、一緒に行きたかったのを我慢していたらしい。
 新婚とまではいかないが、一般的な夫婦に比べると私の両親はとても仲がいい。特に母のほうが父にぞっこんだ。そんな母にとって、今までのような数週間から数ヶ月単位のものではなく、行ったら最後数年は帰って来られないらしい海外赴任なんて耐えられないのだろう。
 私はいつものように大人しくお留守番だ。せっかく受かった高校に通わないのは勿体無いし、自分の英語がきちんと通用するかどうかも怪しいしね。
 でもそうなると問題なのは。
「掃除や洗濯はともかく、私料理出来ないよ?」
 そうなのだ。
 いや、もちろん学校の調理実習などで何度か機会はあるが、普段は専業主婦である母のご飯を食べる専門である。
「ああ、それなんだが。飛鳥」
 改まって名を呼ばれる。
「なあに?」
 父はきりりと顔を引き締めると、思いもよらぬ話を切り出した。
「お父さんの知り合いが面白いアパートに住んでいるそうなんだが、お前もそこに住まないか?」
「……アパート?」
 え……。わざわざ家を出て一人暮らし?
「ああ。風呂トイレ共同、三食食事付き。まあ、アパートと言うより下宿に近い雰囲気の所だな。……お前をこの家に一人残していくのは心配だし、知り合いの話を聞く限りでは住人の皆さんは個性的だが、良い人達ばかりみたいだからな」
「中には高校生もいるらしいから、年上ばかりじゃないみたいね。あなたは好き嫌いがない子だからその辺は安心だけど、出されるご飯がとっても美味しいんですって。慣れない家事と学校の両立は大変よ〜?」
「だろうねえ……」
 掃除は当番制で普段もしているから問題なし。洗濯に関しては洗濯機という文明の利器もあることだし、偶に取り込んだり畳むのを手伝うこともあるから大丈夫だろう。
 問題は……ご飯だよなあ。
「飛鳥ったら何かに夢中になると寝食忘れちゃうんだから、周りに誰かが居る環境の方がお母さんも安心ね!」
「うっ」
 そこを突かれると痛い。
 母の言う通り、確かに私は興味のあることにのめり込みがちで、平気で食事や生理現象なんかを二の次にしてはよく叱られていた。そんな私が一人暮らしなんてしたら、最低限の人間らしい暮らしが保てるだろうか。
 幾ら夢中になると食事を忘れる私でも、毎日惣菜やコンビニ弁当は勘弁したい。
 私は暫く悩んで、決めた。
「……分かった。私、そのアパートにお世話になるよ」
 美味しい三食食事付きに惹かれましたよ、ええ。


◇ ◆ ◇



 事前に知らされていたお陰でスムーズに引っ越し作業を終わらせると、両親は旅立っていった。私はアパートのマスコット的存在である幽霊の男の子のクリと一緒に縁側でひなたぼっこをしながら、今は違う空の下にいる両親に向けて思わずぼやく。
「……確かに面白いとは聞いてたけどさあ」
 入学式まで日にちはあったが早くアパートに慣れる為、早々に入居した私を待ち受けていたのは、今までの常識をひっくり返されるようなことばかりだった。
 どちらかと言えば信じていた方だった幽霊が存在していたこと。……更には、妖怪まで実在したこと。
 寿荘に足を踏み入れてから当初は盛大にびびって気絶してと色々あった。
 成長するにつれて心の奥底に埋もれてしまった不思議なことやモノが大好きだった小さい頃の記憶は、ちゃんと私の中に残っていて。いつしか思い出さなくなっていたそれを、寿荘で暮らす内に自然と受け入れるようになり。
 私はアパートの暮らしを何やかんやと楽しむようになっていった。
 適応力の高さは父譲りかも、なんて思っては驚かされる(時には泣いてしまう)、そんな毎日だ。



 そうそう。あの男の子の怪我は大分良くなったらしいのだが、まだ一度も目覚めていないらしい。
 検査をしても特に脳に異常は見つからなかったらしく、先生達も首を捻っていると祖母は通う内に仲良くなった看護師さんからこっそり教えてもらったと電話で言っていた。
 祖母は身元の特定が思うように進まず誰もお見舞いに来ない彼の身の上に大いに同情して、ひと月に一度入院先に足を運んでいるらしかった。
 最近になって包帯がようやく取れて男の子の顔を目撃した祖母曰わく、とても綺麗な顔立ちだったそうだ。
 少々興味は湧いたが、当分帰省する予定はないし、その前に警察が身元を突き止めて家族と一緒に帰ってしまうかもしれない。目覚めない以上本人に了承を得て写メを撮って送ってもらうことも不可能だ。
 目まぐるしい環境の変化に置いて行かれないように必死だった私は、気もそぞろに祖母のメールに返事を打った。

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